憧憬の渓 二日目


厳しい顔を見せた源流に、体も精神も覚醒する。



憧憬の渓 二日目                             

秩父源流での二日目の朝、昨夜の大雨による増水が心配だったが、すっかり水は引
いていて笹濁り状態。釣りには最高の条件になっている。天気も良い。朝食は安谷
さんが作ってくれたうどんを食べる。薬味のネギが力強い味で疲れた頭をシャキッ
とさせてくれる。                             

今日は私と安谷さん、JICKYさんの3人で右の沢に入る。関根さんとワタナベさん
は左の沢下流に入る。kazuyaさんは今日来る尾崎さんを迎えてから左の沢に向かう
ことになっている。身支度をして出陣前の集合写真を撮る。少々寝不足気味の顔が
5つ並ぶ。                                

右の沢に入渓する。今日もフライだ。パックロッドを組み立てながら、今日は一体
何度この作業をする事になるのだろうかとふと考える。この川でフライが不利なの
はこの手間にあるのではないか。滝を一つ越える毎にこの作業を繰り返す訳だから
面倒くさいと思っては終わりだと自分に言い聞かせる。            

この沢は滝の多い沢で高巻きが非常に多い。景色も素晴らしい。一寸一景と渓流の
景色を称する言葉があるが、ここでは1カーブ1滝とでも言えそうなくらい瀑布の
連続となる。そしてその落ち込みは大きな滝壺となり大岩魚の住処となる。ここか
ら見える空は限りなく狭く、ここが大峡谷である事を示している。       

巨岩の陰の青々とした深みでJICKYさんが岩魚をバラした。悔しがることしきり。
高巻きを終えた広河原で竿を振る安谷さんに、遠く上空からレンブラント光線が降
り注ぎ、ここが谷底なのだと気づかせてくれる。               

綺麗な大滝に出合った。左右対称の崖の中央から扇形に流れがほとばしっている。
滝壺はほぼ円形に広がって、なだれ落ちてくる水を受け止めている。ここで安谷さ
んが二度バラした。この滝は高巻く道が無い。滝の横をすり抜けるように登るのだ
。JICKYさんがスルスルっと登っていく。まるでケモノのような無駄のない身のこ
なしに感心する。怖々と後に続く。                     

その上流でも私の毛針に反応は無い。焦っても仕方ないので早めの昼食を摂る。ガ
スコンロを取り出しラーメンを作って食べる。これが一番おいしい。残り汁にコン
ビニのおにぎりを入れて雑炊にする。それを見ていた安谷さんが「ぎゃ〜何て事を
するんですか!」と叫ぶ。そんなに変な事かな?いつもやってるんだけど・・・。

腹も落ち着いて上流に向かう。イタヤカエデの見事な巨木があって、それを思わず
写真に撮る。その下の流れが何となく気になって慎重に毛針を落とす。反応は無い
。その時JICKYさんが後ろで言った。「kurooさんその1メートル前に岩魚が定位
してますよ。」その言葉通りにキャスト、そして待望のヒット!!       
私にとって初めての秩父岩魚だった。その宝石のような輝きにしばし見とれる。ま
ぎれもない 秩父在来岩魚だ、ルビーのような朱点や赤い鰭が美しい。      

すぐに写真を撮り、バイヤルビンの入ったタッパーを出し、アブラビレをハサミで
切ってバイヤルビンに入れる。ラベルに内容を書く「8月5日・○の沢・22セン
チ」そしてビンに貼る。これで私も調査員としての役目を果たせた事に満足する。
岩魚はすぐに流れに帰した。そして、あろうことかその上の淵で2匹目のヒット!
今度は23センチの堂々とした秩父岩魚である。感激が重なった。素直に嬉しい。

その後雲行きが怪しくなって、パラパラと雨が降ってきた。昨日の雨を見ていたの
で、すぐに竿をしまい、上流に駆け出す。この沢は脱渓出来る場所が遙か上流の魚
止めの滝まで無いというのだ。安谷さんが飛ぶように岩の上を駆ける。それを必死
で追いかける。雨が激しくなり、そのうちに土砂降りになった。ここで、もし増水
したらどうなってしまうのか・・・昨夜の増水の激しさを見ているだけに、それを
考えるとぞっとする。                           
合羽のないJICKYさんはすでにずぶ濡れ状態。滝の高巻きが多く体力を消耗する。
汗と熱気と雨でメガネが曇って見えない。指で拭いながら必死で走る。足に力が入
らなくなってきた。安谷さんから徐々に遅れていく。息が上がってきた。日頃の運
動不足が恨めしい。動いてくれない自分の体が情けなくなる。へつりで左手の中指
を切った。指先に力が入れられなくなる。釣り用の手袋は指が出ているので、雨で
ふやけて切れやすくなっていたのだろう。すぐに軍手に取りかえる。気持ちを取り
直して岩の上を飛び、滝をへつる。雨が激しくなって水量が増えてきた。魚止めの
滝はまだか!!                              

やっとの思いで魚止めの滝に着いた。ここで上がれると思いきや、安谷さんは支流
をすいすいと登っていく。聞くと脱渓点はまだまだ上だと言う。岩にへばりつき、
よじ登り、ある滝の下に出た。ここは普段なら滝をまたぎながら登るところらしい
が、今日は水量が多くそんな事は出来ない。左岸を高巻こうとJICKYさんと安谷さ
んがルートを探すが途中で断念。しばし雨の中に立ち尽くす。         

意を決して右岸の土付き斜面を直登する事にした。雨でゆるんでいる斜面と格闘し
てひたすら上に行く。何とかやっと登山道に出た時は本当にほっとした。登山道は
雨の影響もなく、道を歩くということがこんなにも楽な事なのだと教えてくれた。
シオジやブナの巨木がやっと目に入るようになってきた。いやあ・・疲れた。  

4時に山小屋に到着。左の沢組はすでに戻っていて、3人ともニコニコしている。
満足行く釣りが出来たようだ。関根さんがニッコリ笑っている。尾崎さんも来てい
て、期待していたビールが嬉しいことに人数分置いてあった。この1本のビールの
旨かったこと!ビールがこんなにも旨いものだったとは・・・尾崎さんに感謝。 

夕食はカレー。安谷さん自作の野菜がたっぷり入った野菜カレー。それに魚肉ソー
セージがたっぷり加わったボリューム料理だ。とにかく旨い。疲れた体に染み込ん
でいく。明日のためにも体力を回復させなくてはと、しっかり食べる。     

明るいうちに雨が上がったので外に出て焚き火をする。安谷流焚き火術をじっくり
と見させてもらった。kazuyaさんと尾崎さんが太い木を次々に持ってきて立派な 
焚き火になった。岩魚が4尾、串に刺されて焚き火で炙られている。スルメが焼か
れ、岩魚酒が回り、岩魚いりこが回り、酒が回る。ぐいぐいと酒が無くなっていく
。夏の夜の夢のような時間が過ぎていく。尾崎さんの楽しい話が焚き火の周りを盛
り上げる。山男達の宴は続く。