阿仁マタギ物語 その4
マタギの歴史と岩魚について
阿仁マタギ 西根稔氏 マタギの歴史を語る
阿仁マタギは昔、山の奥の秘密のルートを使って、はるばる長野県まで行っていた
という。熊を撃ち、解体し、それを各地の湯治場(湯治場には金持ちが定期的に湯
治に来ていることが多かった)を回りながら売り、長野まで下り、雪が消えるころ
お金と物産をかかえて、下の道やら、船やらで阿仁に帰ってきた。夏の間は畑仕事
をして暮らし、雪が降るとまたマタギの生活に入るというサイクルだったらしい。
このマタギという高度な狩猟技術は一体どこから来たものなのか?西根さんはいろ
いろな文献を元に調べ始めた。もっとも漢文の文献などは「難しくて分からない」
と言っているが・・・・
・モンゴルに「シカリ」という言葉があり、マタギのシカリと同じ意味の言葉で、
同じように使われているという。西根さんはマタギの技術は大陸から渡って来たの
ではないか?と考えている。
・ナガサの原形となる刃物で、年代が特定出来るものに468年前のものがある。
・「深浦のお寺」から人間の髪の毛で編んだ「ハバキ」(マタギが狩りをする時ス
ネに巻くもの)が出てきた。また、ブドウの蔓で編んだハバキもあった。さらに、
熊の皮で作った靴で、爪をスパイク代わりに使っている物まで、出てきた。囲炉裏
の上で薫製状態で保存されていたようで、かなり古い年代の物だそうだ。
いままで、マタギの装束にはワラを使ったものが多かったことから、マタギは稲作
民族から派生してきたと考えられていたが、これらの品物を見ると、そのはるか以
前から存在していたのではないか?と西根さんは考える。また、マタギの歴史には
弓矢の存在の影が薄いのも特徴だという。 言われて見れば 確かに・・・
忙しい仕事の合間に、西根さんの研究は続く。大学の教授と違って、現役のマタギ
が自らの体験を元にした研究である。何とかまとめ上げて形として残してほしい、
貴重なマタギの世界の記録を。
阿仁マタギ 西根稔氏 岩魚を語る
岩魚はマタギにとって単なる食料以外の何物でもなかったと言う。人の行かない山
奥を主な活動場所とするマタギの生活圏の岩魚はとてつもなく大きく、2尺(60セ
ンチ)くらいのものを選んで獲り、それ以下のものは見向きもしなかったという。
獲り方はいたって簡単、岩魚のいる場所にそっと近づき、ナガサを真上から落とす
だけ。「 ストンと刺さったのを持って来るだけさ。」と我々釣り師とは次元の違
う世界の話をしてくれた。
釣りが上手になりたいなら、竿を持たずに人の入らないところまで行って、岩魚を
よく見ることだという。どんなところに岩魚がいて、どんなエサの食べ方をするの
か良く観察することが上達のコツだろうとのこと。竿を持って行ってはダメだとい
うのは何となく分かるような気がする。
マタギはいたって簡単に岩魚を獲っていた。部落総出で川の上流から青酸カリを流
したのだそうだ。一回で2尺以上の岩魚、尺以上の鮎だけでカマス2袋くらいはすぐ
獲れたそうだ、毒流しである。それをやっても2日もたてば前と同じに魚は戻って
来ていたと言う。西根さんは毒流しよりも、堰堤やダムの方が魚に与えるダメージ
ははるかに大きいと言う、今では昔のように魚が戻ることは考えられないという。
今 西根さんは岩魚の養殖をやっている。露熊川のほとりで1反歩の養魚池を使って
岩魚を養殖するようになってもう何年もたつ。仲間と数人で養魚池を管理しながら
岩魚を見ていると、これもいいものだと思うようになってきた。冬などは獲ったウ
サギをウサギ汁にして、食べながら岩魚を見ていると、とても幸せな気分になると
いう。山の動物、山菜、キノコ、そして岩魚、険しい山で生きる人達はそれらを獲
ることが生活だった。当然獲り尽くすことは無く、共存することが明日の生活の糧
を約束していた訳である。今、時代は変わってレクレーションで岩魚を釣り、山菜
を獲るようになってきた。都会の心無い人達は釣り尽くし、獲り尽くしてしまう。
そしてマタギの人達が岩魚を養殖するようになってしまった。これも時代の流れさ
と西根さんは屈託がない・・・・
その養魚池の一つに、天然記念物のモリアオガエルが大発生して、隠れた繁殖池に
なっているのだそうだ。卵を産み付けるときは池上の木の枝が卵で真っ白になるそ
うだ。これは秘密だよ!と笑いながら言っていた。
第4話 完