瀬音の森日記 269
森林の生物多様性シンポジウム
2002. 12. 4
12月3日(火)4日(水)の二日間、つくば市の森林総合研究所で「森林の生物多様
性シンポジウム」が開催され、それに参加してきた。シンポジウムの詳しい内容と感想
などは「森林インストラクターへの道」のコーナーに書いたのでそちらをご覧いただき
たい。ここでは全体の印象と私自身が生物多様性について感じていることを書きたい。
国の森林研究の最高機関ということで、森林総合研究所への秘かな憧れのようなものが
あった。森林インストラクター講習の際に「林業経営と森林の施業」という授業を垰田
(たおだ)先生から受けて、その人柄に感服したことがあったからだ。垰田先生が森林
総合研究所の研究者であるということが憧れの一因であったと思う。そんな森林総研に
行けるチャンスというのはそうあるものではない。今回のシンポジウムは、私にとって
渡りに船だったという事になる。
シンポジウムの印象は、身内の発表会という感じだった。確かに難しい問題に直面して
いる研究ばかりだが、中には危急の問題というよりも、着眼勝負の研究というのもある
のかな??という内容のものもあった。森林とか生物多様性とかの問題は総じて長期間
のモニタリングが必要な問題ばかりであり、4〜5年間くらいの調査・研究で結論を出
すのは危険だと思うのだが、研究者は結論を急いでいるようでもある。また、複雑怪奇
な生態系を前にして多様性論議が立ち往生しているようにも見えた。
個々のケースでの研究で全体を論ずる事が不可能なように、研究そのものが仮定の上に
成り立っている印象が強く、その結論だけが一人歩きするような発表は問題があると思
う。オオタカが豊かな環境の指標にはならないだとか、広葉樹林伐採跡地よりも針葉樹
植林地の方が草原性チョウが棲みやすいとか、メグロが絶滅する日だとか、疑問を感じ
る結論が多かったのも、実感とかけ離れているような気がするからだ。確かに研究は地
道な調査の積み重ねだということはよく分かる。しかし、その場所の結論はその場所の
結論であって、普遍性はないはずだ。そこを強調しないと結論だけが一人歩きする結果
にならないか?危惧するのはそこだ。
環境問題も政治が絡んでくると大きな論争になることがある。今回のシンポジウムの結
論などは、その道具として使われやすい内容だったと思う。だからこそ、身内の発表会
のような形ではなく、反論や反証をした上で発表という形を取れなかったか。もっとハ
ッキリと但し書きを付けての発表に出来なかったのか。ちょっと疑問が残る。
シンポジウムの始まりに挨拶に立った森林総研関係者の話の中に「森林総合研究所は政
府の独立法人であり、開かれた機関であることを立証するために、今回のように研究成
果をオープンにしている」という言葉があった。だからこそ、中途半端に結論を出すこ
とが後々の論争の種になることを心配する。新聞にはオオタカの存在を巡って環境派と
開発推進派の論争が展開されている。北海道のまれなケースだからといえ、このデータ
が利用されることはないのだろうか。政府関係の独立法人だからこそ開発推進派に有利
なデータ提供の為の研究だったのではないか?と勘ぐられることも考えて欲しかった。
研究者は真摯に研究を重ね、自信を持って結論を導き出しているのだと思う。だが、そ
のデータや結論というものは、往々にして何かに利用される。利用したい人が、自分の
主張を裏付けるために利用するのだ。そこまで研究者に配慮しろとは言わないが、結論
の前提となる「仮定」の部分をハッキリと強調するべきだと思う。それでも曲解される
(曲解する)のが報道や政治の世界なのだから。
生物多様性の論議については、私は大半が無意味なものだと考えている。その定義も曖
昧で、自分がどこに立つかでどうにでも議論出来る。まだまだ、生物多様性の重要性、
必要性を理解している人は少なく、論議よりも啓蒙段階にあると考えている。生物多様
性維持のために、遺伝資源保存の為に森林生態系保存地域を設定しても、立入禁止区域
を設定しても、実感として分からない普通の人には通じない。
もっともっと生物多様性について啓蒙することが森林総合研究所の急務だと思う。それ
をしないで、個々の研究に没頭しているようだと国民からそっぽを向かれることになる
だろう。林野庁のような大きな失敗をする前に気づいてもらいたい。独立法人なのだか
らスタンスはそろそろ環境省に変えても良いだろうに、まだまだ林野庁(ん?国土交通
省か?)に両足が残っているようで心配だ。若手研究者の奮起を望みたい。
こんな一人言は犬の遠吠え・・・あとはまた明日から。