面影画
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6月10日の面影画は佐々木勤子(いそこ)さん。
描いた人 佐々木敏行さん 47歳 夫
敏行さんは18歳の時から、陸前高田の八木澤商店に勤めた。以来、八木澤商店ひとす
じに働いて来た。勤子さんと知り合った時は、すでに八木澤商店の営業を任されていた。
敏行さん27歳、勤子さん28歳での結婚だった。勤子さんの友人が敏行さんの同級生
で、みんなで盛岡に遊びに行った時に知り合った。以来3年、高田の敏行さんと盛岡の勤
子さんは愛を育み、盛岡のニューカリーナホテルで挙式した。
「お嫁さんの家に近い方がいいだろう・・」という敏行さんの配慮でもあった。大安で
、この日がいいと勤子さんの父親が決めた日だった。新郎は高田からマイクロバスを仕立
てて親族でやってきた。にぎやかで楽しい結婚式だった。
子供は二人に恵まれた。長女は若菜ちゃん。今年受験で、青森の大学を目指している。
長男は塁(るい)君。小学四年生で、スポーツ少年団で野球をやっている。
敏行さんは息子とキャッチボールをするのが夢だった。塁君が生まれたときにすごく喜
んでくれた。名前も「塁」、まるで野球をやってくれと言わんばかりの名前だ。
塁君が成長し、スポーツ少年団で野球を始めた時、敏行さんは息子とキャッチボールす
る夢がかなった。松原にランニングしに行ったり、バッティング練習に付き合ったり、そ
のうち試合にも審判で参加するほどの熱の入れようだった。
とにかく、息子が野球をやるのが嬉しかった。「るい。るい」と呼んで可愛がった。
長女の受験が迫るにつれて、一人で生活させるのが心配で心配で、家事やお金の心配や
ら、敏行さんは心配ばかりしてしていた。でも、最終的には娘の思う通りの進路に行かせ
ようと決めていた。「わっか、わっか」と呼んで可愛がっていた。
八木澤商店で盛岡の営業を任されていた敏行さん。休みは日曜日だけだった。休みには
スポーツ少年団の野球に行ったり、消防団の活動、高田クラブという社会人野球のマネー
ジャーとしの活動もあった。本当に忙しい人だった。共働きだったので、家事も手伝って
くれた。
「今日も忙しいなあ・・」「今週も忙しいなあ・・」といつも言っていた。
3月11日、勤子さんは朝7時の早番だった。まだ寝ているみんなを起こさないように
出かけた。顔を見なかった事が、今にして思えば悔やまれる。
敏行さんはいつものように八木澤商店に出勤した。地震が来た時、気仙町で会議中だっ
た。八木澤商店のみんなは、山に逃げて無事だった。敏行さんだけが、なぜ・・・
敏行さんは消防団員だった。消防車で水門を閉めに走り、閉めた水門に立ち入り禁止の
テープを張った。その後、消防車を降りたのが清風堂の前だったことは、他の団員の証言
で分かった。その直後に水門をはるかに超える津波が襲って来た。
敏行さんは竹駒駅東300メートルの場所で発見された。道路上だったため、瓦礫の撤
去をした際に発見された。清風堂から5〜6キロも流されたことになる。
しかし、勤子さんが敏行さんを確認出来たのは3月21日になってからだった。知り合
いの消防団員に言われて遺体安置所に見に行った。
ひと目で敏行さんだと分かった。変わり果てた姿だった。同じ遺体を、おじさんもおば
さんも見ていたが分からなかった。でも、勤子さんにはひと目で分かった。
今、勤子さんは実家のある盛岡に住む事にした。長女の受験、長男の学校、どれも待っ
たなしの状態で、ひとりで決断しなければならなかったが、敏行さんがいても、この決断
はほめてくれると思う。
子供たちは、これから先を生きなければならないのだから。
見せてもらった敏行さんの写真。「本人がトムクルーズに似てるって言ってたんですよ
。いい男でしょ・・」「うん、かっこいいですね」眉毛のきりりとした美男子がそこにい
た。勤子さん自慢の旦那様だった。
勤子さんにおくる、世界一の旦那様の記録。
敏行さんのご冥福をお祈り致します。
6月10日の面影画は、佐々木勤子(いそこ)さん。
トムクルーズ似のご主人を描かせていただいた。
熱中症寸前の状態で、今日はテント内での作業は断念し、外の木の日陰で絵を描いた。
もっと早く、こうすれば良かった。水滴が落ちて来たり、虫が飛んでくる以外は快適な
環境で絵が描けて良かった。
勤子さんにとても喜んでもらえたので良かった。
「大事にします、娘や息子にも見せてやります」と言ってもらえた。作者冥利につきる言
葉をいただいた。
あまりに暑く、熱中症の症状が出たので、外の木陰に移動。
勤子さんは絵をとても喜んでくれた。嬉しかった。