面影画
24
6月25日の面影画は成田勝子さん
描いた人 成田八重子さん 65歳 母
成田優子さん 36歳 妹
八重子さんは11人兄弟だった。11人のうち女が9人で、八重子さんは七女だった。大家
族で育った八重子さん、さっぱりした、物怖じせず、細かい事を気にしないマイペースな人だ
った。
五年前にご主人を病気で亡くし、高田市内に娘二人と暮らしていた。線路際の家は日当りが
良く、小さい庭で花を育てるのが好きだった。娘達がネコや犬を飼いたいと言っても「ペット
が死ぬのを見るのは嫌だ・・」と言って許してくれなかった。
専業主婦で、自転車でスーパーなどの買い物に出歩く毎日だった。娘二人のお弁当作りや身
の回りの世話が忙しいくらいだった。
料理上手で、特にポテトサラダやおから料理などが得意だった。娘二人は、そんな母の料理
にぞっこんで、お弁当は毎日八重子さんが作っていた。
八重子さんの兄弟は数が多いが、みんな高田市内に住んでいて、何かあるとすぐに集まる兄
弟だった。それぞれの子供の結婚式とかになると、本当に大勢の親族が集まり、ちょっとした
親族会のようになった。
末娘だった津田照子さんが「うちの主人は結婚式とかなにかっていうと、いつも末席になっ
てしまうんで、何かあれだよね・・」っていつも言ってたんですよ。と笑う。
それはそうだ、11人にそれぞれ連れ合いがいて、それが一列に並ぶ訳だから。末席は主席
からずいぶん遠くなる。私も9人兄弟だから、その辺のニュアンスはよくわかる。
子供らだけで26人、孫を数えると何人になるか。「名前と歳が覚えられなくて困る」と照
子さんが笑う。
優子さんは勝子さんと6つ違いの妹だ。高校を出て3年間、埼玉の会社に勤めていたが、そ
の後、高田に帰って来た。埼玉の会社に勤めていたころ、当時さほど強くなかった「浦和レッ
ズ」のサポーターをやっていた。駒場スタジアムに足しげく通い、声を枯らして応援していた
。レッズの試合の結果をいつも気にしていたという。
( レッズサポとして、もしかしたら私も一緒に応援していたかもしれない。当時の駒場は熱
心なサポーターが多かった。ここ高田に来て、レッズサポの話を聞くのは二回目だ。仲間が意
外に多いことに驚く。)
優子さんは高田に帰って来てからは「よさこい」のチームに入り、何年間か活動していた。
優子さんは勝子さんに言わせると「お母さんべったりなんですよ・・」とのこと。
何から何まで母の八重子さんにやってもらっていた。お弁当作りも、洗濯も、掃除さえも。
「あたしだって、掃除くらいはしましたからね〜」と勝子さん。いつも一緒で、八重子さんと
まるで兄弟かなんかのように甘えていた優子さん。
3月11日、八重子さんは親戚の選挙事務所に手伝いに行っていた。そこに地震が来た。あ
わてて家に帰る八重子さん。その途中で近所の人と立ち話をしている所を目撃されている。
一方、優子さんは会社にいた。会社の同僚と別れ、一目散に家に戻ったという。母が心配だ
った。しかし、その後の巨大津波で全てが流されてしまい、優子さんが八重子さんと一緒だっ
たのかどうか、誰にも分からない。
優子さんは会社の名札を胸に付けて見つかった。きれいな顔のままだった。
八重子さんは、いまだに行方が分からない・・・。
ここ、高田だけで、まだ600人以上の人の行方が分からない。
照子さんによると「近所の人が海の中で見つかったんで・・・もしかしたら・・・」
引き波がすべてを海に引いて行ってしまったのかもしれない。
勝子さんのリクエストは、母と妹が並んで微笑んでいるところを描いて欲しいというものだ
った。優子さんにはレッズのユニフォームを着せてやることで了解をもらった。
仲良しだったふたりの面影画が、勝子さんの心を少しでも安らかにしてくれれば嬉しい。
勝子さんにおくる、仲良しだったお母さんと妹さんの記録。
八重子さんと優子さんのご冥福をお祈り致します。
6月25日の面影画は成田勝子さん。
津波で亡くなられたお母さんと妹さんを描かせていただいた。リクエストは二人並んで笑っ
ているところをというもの。
お母さんの写真が、集合写真に小さく写ったものだけだったので、ラフスケッチの段階で修
正を加え、納得してもらうまで直した。
妹さんの写真は、津波の後で発見されたもので、泥が付着したものを丁寧に洗い落としてあ
った。泥の跡が生々しい写真で、被災の実感が伝わってくる。
絵が出来上がった。勝子さんが受け取った瞬間、涙が溢れ出た。「何にもなかったから・・
本当にありがとうございます・・」あとが言葉にならない。
この絵が少しでも勝子さんの安らぎになれば嬉しい。
妹さんの写真は津波の泥から救出された。泥の跡が生々しい。
二人ともそっくりだと言ってくれた勝子さん。