面影画
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7月8日の面影画は佐々木総恵(ふさえ)さん
描いた人 上部 恵(うわべさとし)さん 72歳 父
上部恵功子(うわべえくこ)さん 69歳 母
恵(さとし)さんは市役所に勤めていた。20代のとき恵功子(えくこ)さんと知り合い、
結婚した。その後、定年まで勤め上げ、今は悠々自適の生活を楽しんでいた。
趣味も友達も多く、人に勧められると何でもやっていた。
絵を描いたり、草野球に熱中したり、ゴルフをやったりした。定年になってからは、畑の仕
事をよくやった。アユ釣りも始めた。毎年、気仙川で7月1日の解禁を待ち望んでいたものだ
った。そば打ちもやった。タレも自分で作る本格派で、新蕎麦の時期になると、みんな恵さん
のそばを楽しみにしたものだった。
恵功子さんは三人の子供の子育てをしながら、40年以上花屋をやっていた。最初は生け花
をやっていて、人に教える立場から、商店街で何か店をやろうかという事になって、それじゃ
あ花屋を・・という事になり、自然に花屋を開業することになった。
花屋の二階で生け花教室を開いていた。恵功子さんにとって、花屋は趣味の延長であり、情
熱を傾ける対象でもあった。いつも忙しい働き者で、元気な人だった。
今、花屋を一緒にやっている、息子のとくやさんは「うちには父が二人いたようなもんです
よ・・」と笑う。二人とも自立していた。母は仕事の師匠でもあった。長女の総恵さんも生け
花の教授の資格を持っている。花に魅せられた一家でもあった。
恵さんと恵功子さんは三人の子供に恵まれた。長女、次女、長男ともに子供が二人づつ。そ
れぞれの家も近いので、何かあると、合計6人の孫に囲まれる楽しい時間が続いた。
お酒の好きな恵さんは晩酌型で、いつも家で飲んでいた。恵功子さんの花屋が年中無休だっ
たので、二人で一緒に出かける事は少なかった。
3月11日、翌日に学校の卒業式を控え、恵功子さんの花屋は忙しかった。息子のとくやさ
んは朝から大忙しだった。総恵さんも手伝っていた。総恵さんは午後から広田町の中学校にい
た。卒業式の花を活けていた。恵功子さんは店で孫の面倒を見ていた。恵さんは畑を終えて家
に帰っていた。
そこに地震が来た。とくやさんは消防団だったので、すぐに緊急出動した。総恵さんは中学
校が避難所になっていたため、そこで避難所作りの手伝いをしていた。
店に次女のひろみさんが通りかかり、とくやさんのお嫁さんと孫を車に乗せて、恵さんと恵
功子さんに声をかけた。お嫁さんも「逃げよう!」と言ったが、二人は「先に行け!先に行け
」と言うばかり。
常日頃から恵さんは「うちには津波は絶対に来ない!」と言い切っていた。マイヤという大
きなビルもあるし、絶対大丈夫と言っていた。そして、この時も逃げようとしなかった。
地震で店がひどいことになっていた。息子が帰るまでに直しておかなければと思ったのだろ
う。店の片付けに専念していた。
そこに誰も考えなかったような巨大な津波が襲った。
恵さんは3月に遺体確認できた。恵功子さんは市の合同葬が終わってからDNA鑑定で発見さ
れた。3月に上がっていた遺体だった。
二人は来週一緒に埋葬されることになっている。
面影画のリクエストは、お酒が好きだった恵さんに「酔仙」のお酒を持たせて。恵功子さん
はラベンダー色の和服姿で、胸にキキョウの花をあしらう・・というもの。
少ない時間だったが、頑張って仕上げた。
この絵が、残された皆さんに少しでも恵さんと恵功子さんを思い出して頂けるものになれば
嬉しい。
総恵さんにおくる、素晴らしいご両親の記録。
恵さんと恵功子さんのご冥福をお祈り致します。
7月8日の面影画は佐々木総恵(ふさえ)さん。
津波で亡くなられたお父さんとお母さんを描かせていただいた。
打ち合わせからNHKのカメラが入り、緊張した。総恵さんと弟さんご夫妻も一緒にいろいろ
話を聞いた。いろいろ話を聞きすぎて、絵を描く時間が少なくなってしまい、今日も暑い中、
大忙しの作業になってしまった。
絵が出来上がり、渡す時に喜んでもらえるのが、唯一のモチベーションになっている。
今日も喜んでもらい嬉しかった。
「二人ともそっくりです」と言ってくれた総恵さんと妹さん。
NHKの取材は今日で終了。一週間、お疲れさまでした。