面影画37


7月12日の面影画は鈴木順子さん




描いた人 鈴木文子(あやこ)さん 35歳 娘                    

 文子(あやこ)さんは市役所の保健士だった。地震の後、避難所で被災者のお世話をしてい
た。そこに津波が襲来し、若い命を落とした。                     
 順子さんは言う「学校の先生だったら生徒と一緒に逃げられるけど、保健士は最後まで残っ
て、弱い人を助けなければならないから・・娘は本当は学校の先生になりたかったんだよね。
思い通りにさせてやれば良かった・・・」                       
 順子さんは、まだ娘が亡くなったことを心の中で整理出来ていない。          

 文子さんは子供の頃から歌が大好きで、家でいつも歌っている娘だった。また、友達に「眠
り姫」と呼ばれるほど、よく寝る娘だった。授業中寝てしまい、何度出席簿で先生に小突かれ
たか。文子さんは順子さんによく言ったものだ「おかあさんが昼寝は必ずしなさいって言うも
んだから、文子いくつになても寝てしまうんだよ・・」                 
 やさしいけれど、芯はしっかりした娘だった。友達も多い娘だった。          
 大学に合格して、教師になる勉強をしたかったのだが、家の都合で保健士になった。よく、
私は学校の先生になりたかった、という言葉が文子さんの口から出た。          

 7年前に結婚するために高田に戻って来た。お相手は同級生。友人の多い二人の結婚式はに
ぎやかなものだった。子供は二人。小学二年の男の子、5歳の女の子がいる。建設会社に勤め
るご主人は消防団の活動もしていて、絵に描いたような幸せな家庭を築いていた。     

 3月11日、上に書いた通り、文子さんは津波に呑まれた。地震の後で消防団に緊急出動し
たご主人が、一旦戻り、子供たちの無事を確認して、文子さんにそれを伝えた。そして「子供
は大丈夫だ、お前も避難しろ!」と叫んだ。しかし、保健士が避難所の仕事を放り出して逃げ
ることは出来なかった。                               

 市役所の周辺は、どこもかしこも避難所ごと流された。                

 津波の襲来を順子さんは気仙川の対岸で見ていた。津波の本流は渦巻きながら川上に走る。
そこには家や自動車が浮かび、押し合い、逆巻いていた。                
 ちょうど対岸が竹駒地区だった。そこでは大きな渦が出来ていて、家や家具などがぐるぐる
回っていた。                                    

 翌日、順子さんのご主人が山を越えて、市役所の周辺まで文子さんを探しに行った。市役所
近くで携帯を鳴らしたり、歩ける所は一日歩いて探したが手がかりはなかった。ご主人は足に
マメを作って夜遅く帰ってきた。                           
 惨状を見てきて「無理だと思う・・」と小さく言った。                
 翌日からは避難所廻りをした。どこかに避難して、保健士として働いているのではないか・
・一縷の望みをかけて回ったが、どこにも文子さんの姿はなかった。           

 そして、遺体安置所へ行く。文子さんは奇跡的に傷もないきれいな状態で発見されていた。
場所は順子さんが見ていた渦巻く竹駒地区だった。早い時期に発見されていた。      
 同じ竹駒地区から文子さんのバッグが発見された。これは高田町の自宅にあったものだが、
偶然にも竹駒地区まで流れてきていたのだ。順子さんは、文子が呼んだんだと思うと語る。 

 7月2日が文子さんの葬儀だった。地域がこんな状態なので、案内も出さなかったのだが、
たくさんの人々が来てくれた。大勢の友達を持つ娘だった。ご主人の「七年間しか一緒に暮ら
せなかったけれど、本当にいい妻だった。本当に悲しいし、悔しい・・」という挨拶に出席者
みんなが涙した。                                  

 おととい、順子さんは初めて文子さんの夢を見た。「夢の中で、何か話していたんだけど、
何を話したか忘れてしまったのが悔しい・・」と笑う。友人や、おじさんや、知り合いもみん
な文子の夢を見ていて、何でわたしのところに来ないのか・・と思っていた。       
 たぶん、友人の多い文子さんだから、身内への挨拶は後でいいやと思ったのだろう、と笑い
合った。                                      

 今でも病院などで働いている保健士の人を見ると「本来だったら、あの娘はここで働いてい
たはずなんだ・・」と思い、涙が出るという。その気持ちはよく分かる。         
 なぜ、あの娘が死ななければならなかったのか・・・答えはない。           

 文子さんのことを思い出すたびに出てくる問いかけだ。                
 そして、被災した人全てが胸に抱き続ける問いかけだ。誰もその答えを出す事はできない。
答えのないまま、時間という記憶浄化装置によって痛みが薄くなるのを待つだけだ。    

 この面影画が、少しでも順子さんの心を軽くしてくれればと祈るしかない。       


 順子さんにおくる、最愛の娘の記録。                        
 文子さんのご冥福をお祈り致します。                        




 7月12日の面影画は鈴木順子さん。                        

 津波で亡くなられた娘さんを描かせていただいた。                  

 35歳という若さの娘を亡くす、子供二人を残して・・無念さはいかばかりか。     
 順子さんは、まだ娘さんが亡くなったことを心の中で整理出来ていない。        

 若い人を面影画で描くのはつらいものがある。                    

 順子さんとは長い時間話した。娘さんのこと、仮設住宅のこと、国の政策のこと、友達のこ
と、孫のこと、などなど。誰かが「仮設住宅に入ってから本当の問題が出てくる」と言ってい
た。本当にそうだと思う。話を聞く人が必要だ。                    
 高齢者の心配は、行政もボランティアもしてくれる。でも、高齢者を介護している人の心配
は誰もしてくれない。                                

 こんな機会でしか話を聞く事が出来ないのが歯がゆい。                

 絵を受け取りに来た順子さんと、またひとしきり話し込んでいた。           

桜の木にはこのセミが沢山いて、思いっきり鳴いている。 いろいろな話をいっぱいした順子さん。