面影画
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8月5日の面影画は小野寺仁志さん
描いた人 小野寺俊雄さん 八十六歳 父
小野寺敏枝さん 八十三歳 母
小野寺裕仁(ひろと)さん 十六歳 三男
俊雄さんは銀行員で定年まだ働き、定年後は畑や田んぼをやって悠々自適の暮らしだった。
若い頃は戦争で、シベリアに抑留されたりして苦労した。寒くてついたき火をしてしまい、
その火で発見され、銃口を向けられ、射殺される寸前までいった、とよく話していた。
敏枝さんは小野寺家の長女として生まれ、七人兄弟をよくまとめながら成長した。当時はど
の家も貧しかった。兄弟の多い家の長女は母親の役をやらされた。親は夜昼無く働かなければ
ならなかったし、長女が下の子供たちを育てるのは普通だった。
俊雄さんを婿に迎える形で結婚し、気仙沼市赤岩港に小野寺家の別家として新居を構えた。
敏子さんは物静かだけれど芯の強い母だった。和裁をしていたので、着物は自分で作った。
料理も上手だった。仁志さんは母の料理の味が忘れられない。畑をやっていたので、自分で作
った野菜を調理する。味噌も漬け物も全部自家製だった。
全部、なつかしいおふくろの味だった。
俊雄さんと敏枝さん、長く連れ添った仲のよい夫婦だった。
裕仁(ひろと)さんは三人兄弟の末っ子で、のんびりやさんだった。小さい頃は「おだずも
っこ」だったと母の博子さんは言う。おどけて人を楽しませる子供だった。しかし、母はそれ
は見かけだけで本当は繊細でナイーブな子だったとも言う。
写真を撮る時などはいつもおどけたポーズをするが、家ではパズル遊びが好きな子だった。
勉強が苦手で学年が進むにつれて、友達との関係が良くなくなった。学校の帰り道、自転車
屋さんのおじさんや、囲碁教室のおじさんと話してから帰って来る事が多かった。
中学に入って柔道部に入り、先生や先輩から可愛がられた。不思議と先輩や大人に可愛がら
れる子だった。
高校に入ってから勉強が好きになり、夜遅くまで勉強したり、丁寧に取ったノートを見せて
くれたりした。裕仁(ひろと)さんは頑張っていた。
仁志さんは言う「高校に入って勉強するようになったし、これから変わって行くところだっ
たんだけど・・・」「おやじ、ツイッターって知ってるか?なんてパソコンの事をよく話して
いたんですよ・・」
まだまだ、これから人生があったはずなのに、突然帰らぬ人になってしまった裕仁さん。自
分でもさぞ悔しいと思う。これから楽しい人生が始まるという時に・・・
三月十一日、仁志さんと博子さんは仙台にいた。次男の卒業式が行われる学校にいた。その
日、学校に行くはずだった裕仁さんは体調が悪くて、家にいた。
大きな地震があり、津波警報が出た。裕仁さんだけだったら逃げられただろう。しかし、家
にはおじいさんとおばあさんがいた。二人を助ける為に裕仁さんは残った。足の弱いおばあさ
んをどうやって避難させるかを思案した形跡がある。車のエンジンキーが差し込まれていたり
、三人が外出の服装だったことも分かっている。
そんな三人を想像もしなかった巨大な津波が襲う。ひとたまりもなかったはずだ。家も何も
かもなくなってしまった。
仙台から帰った仁志さんと博子さんは必死で三人を探した。
父は三月十六日に見つかった。母は資材倉庫で仁志さんが見つけて、自衛隊に確認してもら
った。「この近くに裕仁もいるはずだ・・」何度も何度も自衛隊にお願いして、周辺を探した
が、裕仁さんは見つからなかった。
家が流されてしまった仁志さんは、一関の雇用促進住宅を借りて入った。そして何としても
裕仁を探すんだと、通って探した。三ヶ月間休まず裕仁さんを探して歩いた。
最後の頼みの綱DNAの採取を仙台でしていた時だった。宮城県警から電話が入った。「おた
くの息子さんらしい遺体が上がった・・」すぐに駆けつけると、まさに裕仁さんだった。胸に
入っていたゲームセンターの会員証に名前が書いてあった。
遺体は気仙沼の湾内、二の浜で上がった。「外洋に流れなくて、本当に良かった・・・」仁
志さんも、ほっとした表情で話す。
博子さんは「私たちが遠くに行くと、裕仁の事が何か分かるんですよ。離れたくないって思
っていてくれているような気がして・・・」と涙をぬぐう。
絵のリクエストは裕仁さんを中央に三人が笑顔でいるところ。
両親と息子を亡くすという大きな大きな空白を埋める事は出来ないが、この絵が少しでも三
人を思い出すきっかけになれば嬉しい。
仁志さん、博子さんにおくる、ご両親と息子さんの生きた記録。
俊雄さん、敏枝さん、裕仁さんのご冥福をお祈り致します。
8月5日の面影画は小野寺仁志さん。
津波で亡くなられたご両親と息子さんを描かせていただいた。
奥様と見えられた仁志さん。とつとつと三人の事を話してくれた。その日の様子や、四ヶ月
間探し歩いた話。淡々と話しているが、その内容は凄まじい。家族三人を失い、まだおばさん
が行方不明だと言う。
失ったものが大きすぎる。かける言葉はない。ただただ話を聞くだけだ。
絵を渡した後も、仁志さんの話は続いた。誰かに聞いてもらいたかったのだろう。黙って話
を聞きながら、今はただ、頑張って下さいと握手するのが精一杯だが、この絵が何かの力にな
ってくれれば本当に嬉しい。
いる間ずっと話が途切れなかった仁志さん。絵を喜んでくれた。
小菅村から借りたテントが面影画の家になった。