面影画
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8月14日の面影画は阿部直安さん
描いた人 阿部麗子(れいこ)さん 五十八歳 妻
直安さんと麗子さんは同じ歳だった。大工をしていた直安さんが、仕事で怪我をして入院した
石巻日赤病院に麗子さんが看護士として勤めていた。入院して、ふとしたことから話すようにな
った二人、話が合うし、若いしで急速に接近した。
そして「まだ若い!」という周囲の声を振り切って、二十三歳の時に結婚した。
結婚して三十五年、いろいろあったが二人で力を合わせて乗り切ってきた。本当に仲のよい夫
婦で、周囲がうらやむ二人だった。麗子さんはあと二年で定年になり、その後は孫と遊びながら
あちこち旅行に行くのを楽しみにしていた。
麗子さんは直安さんにとっては本当にかけがえのない人で、二人で東北中を旅行した思い出は
、今はかけがえのない思い出だ。
「夕日を見たい」と麗子さんが言えば、すぐに車を走らせて日本海まで走る。「蕎麦が食べた
い」と言えば、すぐに山形まで走って、美味しい蕎麦屋を探す。そんな具合だった。
中でも男鹿半島で見た夕焼けの見事さ、なまはげ太鼓の勇壮さ、竜飛岬のウニ丼や海鮮丼の美
味しかったことなどが懐かしく思い出される。
行き当たりばったり、車で走り、泊まる所を探す旅だった。どこに行っても二人でいれば満足
だった。
最近は家族で旅行する事が多くなったが、麗子さんが「お父さん、今度また二人で旅行したい
ね」と言い、直安さんが「ああ、この仕事が終わったら行くべ!」と応えていた。
麗子さんは、人の悪口は言わないし、誰にでもやさしく、恨みつらみは一切言わない、心の広
い人だった。
料理も上手で、テレビで見た料理をすぐに自分流に作り直して出したものだった。花も好きで
、盆正月の生け花も上手だった。着物の着付けを自分で勉強して着てしまう人でもあった。自宅
には麗子さんお気に入りの着物がたくさん残されている。
「大事なものをいっぱい残してくれた・・」直安さんの目から涙がこぼれる。
病院でも慕われていた。上司の信頼も厚く、この四月から婦長になることが決まっていた。
三月十一日、二人は仕事だった。直安さんが一足早く出かけた。この時にハグしてやれなかっ
たことがいまだに悔やまれてならない。
麗子さんは雄勝病院に勤めていた。そして、勤務中に地震が起きた。麗子さんは三階建ての入
院病棟にいた。津波警報が出た。「山さ逃げた方がいいよ!」と言われ「入院患者さ放っといて
逃げられねべ!」と応えた麗子さん。入院患者を三階に移す指示をして、先頭で動き回っていた
。そこに、誰も想像しなかった大きさの津波が襲った。
「俺のことや孫達のことさ考えて、逃げてくれれば良かったのに・・」直安さんは絞り出すよ
うな声で言う。「でも、麗子さんの立場では逃げられないでしょう・・」「また、先に逃げるよ
うな人じゃないでしょ・・」涙をぬぐいながら直安さんもうなずく。
直安さんにとっては人生の全てだったのかもしれない。「全てのものをなくした悔しさと悲し
み・・」と自分で言う。三月十一日以降、悲しみが増すばかりだという。
五十八歳、同じ歳の男として、妻を失う悲しみがどれほどのものか、少しはわかる気がする。
「俺にとっても、家族にとっても本当にかけがえのない人だったんだ・・・」
しかし、このまま悲しみに浸っていると危険だ。悲しみは、全てのものを遮断してしまう力を
持っている。悲しみに浸りすぎると、周囲と意思疎通が出来なくなり、鬱になったり心の病につ
ながって行く。
麗子さんがそれを望んでいるはずもなく、直安さんは悲しみに浸るという行為を、少しでも短
い時間にするように努力しなければならない。麗子さんを思うことと、失ったことを悲しむこと
は違う。そこを分けられるようになって欲しい。
この絵を依頼することによって、自分の気持ちを変えたいのだという。絵にどれだけの力があ
るかわからないが、直安さんの思いに応えたい。
直安さんにおくる、最愛の妻、麗子さんの生きた記録。
麗子さんのご冥福をお祈り致します。
8月14日の面影画は阿部直安さん。
津波で亡くなられた奥様を描かせていただいた。
病院で看護士をしていた奥様、入院患者を助けようとして被災された。
愛妻家で、どこに行くにも一緒だった直安さんの悲しみは大きい。奥様の話を始めたとたん、
目から涙があふれ出し、涙声でのインタビューになってしまった。三十五年連れ添った奥様を、
理不尽な災いで亡くす。この衝撃がどれだけ大きいか、その喪失感はどれほど深いか。同じ歳の
男として、人ごとでなく話を聞いた。
直安さんもわかっていて、この絵を依頼することで、自分が変わりたいと思っている。
この絵が少しでも直安さんの心の空白を埋めてくれれば嬉しい。
最後まで涙声だった直安さん。この絵が力になって欲しい。
夕方にお参りする神社の社務所。趣きある佇まいがいい。