面影画
61
8月18日の面影画は菅野朋子(ともこ)さん
描いた人 菅野幸徳(ゆきのり)さん 三十九歳 夫
幸徳さんは漁協の職員だった。若い頃は東京の築地にある全水加工連で七年間くらい働いてい
たこともある。高田に戻り、漁協の運営するガソリンスタンドやアワビセンター、養殖の卸、販
売課など様々な仕事をこなし、現在は漁協の運営する定置網の事務職に従事していた。
知人の紹介で朋子さんと知り合い、交際を重ね結婚に至った。記念日を忘れないようにと、十
二月三十一日に入籍したことは良い思い出だ。
結婚式は自宅でやった。朋子さんの実家に「嫁迎え」に行くという、昔ながらのしきたりで行
われた。「嫁迎え」は仲人さんを先頭に、赤い酒樽と赤いキンキ二枚を捧げて行列で行く。お嫁
さんの家で三献を済ませ、お嫁さんはしずしずと行列にしたがって新郎の家に向かう。
新郎の家では玄関から入れるのはお嫁さんだけで、他の人は縁側から上がる。そして披露の宴
会が始まる。実際の披露宴は高田のキャピタルホテルで行ったのだが、式は実家で上げた。
朋子さんにとって何もかも新鮮な、昔ながらのしきたりだった。
朋子さんの家には大きなヤエザクラがあり、五月の結婚式だったのにもかかわらず、ヤエザク
ラが満開だったことをよく覚えている。いつもよりずいぶん早い満開だった。まるで結婚式に合
わせてくれたようだった。
持参してくれた結婚式の時の写真がある。奥に朋子さんが玄関から入るところが写っており、
手前に正面を向いた幸徳さんが、やや緊張した面持ちで写っている。
「正面を向いた写真がこれしかなくて・・」「これ、妹さんが撮ったんですよ。妹思いの人だっ
たので、気を許して正面から撮らせたんだと思うんですよね・・」
他の人の写真はいっぱい撮るのに、自分の写真はない人だった。
結婚してから二人であちこち旅行に行った。幸徳さんは温泉が大好きだった。秋田の乳頭温泉
は、全温泉を制覇した。角館も好きだった。弘前の桜を見に行ったのは最近のことだ。
リアス式海岸の道をずっと走って青森まで行ったこともある。いつも二人は一緒だった。
生活の上でも朋子さんは幸徳さんに頼り切っていた。家電やパソコンや車の知識が豊富で、何
でもわかる人だった。みんなにやさしい人で、みんなから慕われた。大きな声で笑い、場を和ま
せる心配りをする人でもあった。
三月十一日、定置網へは通常朝三時過ぎには出かけるのだが、この日、定置網はドックに入っ
ていたため、五時過ぎの出勤だった。
大きな地震があった。朋子さんは心配になり携帯に電話したが幸徳さんは出なかった。忙しい
のだろうと思って、朋子さんもそのままにしていおいた。
そして、津波警報が出て、巨大な津波が高田の町を襲った。海岸線はひとたまりもなく津波に
呑み込まれた。
幸徳さんは消防団に入っていた。あねは橋のたもとに分団の本部があり、そこに向かったと思
われるが、そこにいた人はみな被災して、帰らぬ人となってしまった。
高田の町だけで消防団員が五十人も亡くなってしまった。
幸徳さんも車もまだ発見されていない。
後で朋子さんが携帯電波復活と同時に確認したところ、幸徳さんから最後のメールが入ってい
た。「 PM3:00 だいじょうぶか?」それが最後の言葉だった。
八月四日、お盆に入るからということで内々で葬儀を執り行った。誰にも連絡しなかったにも
かかわらず、漁協の人ほとんどからひとりひとりのお悔やみをもらった。
本当に人望のあった人だった。
話す間ずっと朋子さんは泣いていた。
無理もない、二年十ヶ月の結婚生活。生まれたばかりの長女を残して、三十九歳で夫が亡くな
る。こんな不条理な話はない。何もかも依存していた、理想的な夫が、突然帰らぬ人になってし
まった現実を、朋子さんはまだ受け入れられない。
でも、確実に次の一歩を歩き出さなければならない日が来る。幼な子を育てるひとりの母とし
て。その時に、この絵がそっと背中を押してくれれば嬉しい。
朋子さんにおくる、最愛の夫、幸徳さんの生きた記録。
幸徳さんのご冥福をお祈り致します。
8月18日の面影画は菅野朋子(ともこ)さん。
津波で亡くなられたご主人を描かせていただいた。
結婚してまだ二年十ヶ月、生まれたばかりの長女を残して39歳の若さで亡くなってしまった
ご主人。朋子さんは話している間、ずっと涙が止まらない。
無理もないことだ。慰めの言葉もない。
なぜ、あの人が死ななければならなかったのか。繰り返し繰り返し考えるという。今日にでも
ふっと帰って来そうな気がして・・・と涙する。
今はただ時間が心の痛みを薄くしてくれるのを待つだけだ。
涙を流しながら話してくれた朋子さん。幸せになって欲しい。
弟家族が東松山から陣中見舞いに来てくれた。箱一杯の差し入れを持って。