面影画
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9月3日の面影画は佐々木一成(かずしげ)さん
描いた人 佐々木玲子さん 八十一歳 母
玲子さんは庭が自慢の大きな家に住んでいた。十数年前に亡くなった夫が作った庭は、大きな
石が数多く配置され、懸がいの松などが植えられた本格的な庭だった。年に一度庭師が来て、一
週間くらい泊まりがけで手入れをしていた庭だった。
家は高田の市民体育館の近くだった。海からは五百メートルほど離れていたが、散歩に行くに
は良い距離で、よく松原まで散歩したものだった。
玲子さんは世田米(せたまい)のお寺が実家だった。兄弟は七人、今は五人が健在だ。高田に
嫁いできて、嫁ぎ先の佐々木家は、兄弟で商売(食料品店)をやっていた。野菜を買い付けて、
貨車やオート三輪であちこちに卸したりする仕事もした。昭和四十五年にはアイスクリームの製
造販売もやった。のちに、水産加工の会社も始めた。全ての仕事がスーパーの経営につながって
いた。
その頃に始めた家具屋を玲子さんがやることになり、素人だったが、自宅兼店舗で三人の子供
を育てながら、従業員の方々に支えられ家具屋をやった。体力を使う配達などもこなし、タンス
なども普通に運ぶ人だった。
良いときも悪いときもあったが、そこで二十五年間、家具屋を営業した。体の丈夫な人だった
から出来たことだと思う。
我慢強く、ほがらかで、やさしい人だった。そして、自分がこうと決めたことは誰が何と言お
うとやり通す人でもあった。
一成さんは仕事の都合で盛岡と高田を行ったり来たりしていた。二人の妹と連絡を取り合いな
がら、玲子さんとよく旅行に行った。玲子さんは旅行が好きで、三年前にも、東京に用事があっ
たのだが、そのまま姫路城を見に行こうという事になり、新幹線で姫路まで行って、そのまま高
田に日帰りするような事も平気でやったこともある。
一成さんが持参したフォトアルバムには、あちこちに出かけて写真に収まっている玲子さんが
たくさん写っていた。
妹夫婦と箱根に行こうと計画し、この三月に準備していたところだった。
三月十一日、玲子さんは高田の自宅にいた。そのときの様子は誰も分からない。知り合いの人
が、歩いて避難所になっている市民体育館に向かう玲子さんを見ていた。
この日、一成さんは盛岡にいた。地震の直後から電気が消え、テレビが映らない。携帯電話も
通じない。わずかにラジオで沿岸地域が大変なことになっていると知った。
震災二日後、やっと電気が通じた。テレビで見る被災地の様子は目を覆うようなものだった。
数日後に電話がつながった。世田米の親戚の人が玲子さんを捜しに行ったが見つからなかったと
言う。気が気ではなかったが、高田に行く為のガソリンがなかった。
それから何日かして、やっとガソリンが手に入り、妹と一緒に高田に来た。その後も頻繁に妹
と入れ替わり立ち替わり探したが、玲子さんは見つからなかった。
避難所になっていた市民体育館は津波の襲撃を受け、壊滅していた。大勢の人が避難していた
が、生き残った人は三人だけだった。
五月初めに玲子さんらしい遺体が上がり、DNA鑑定をしてもらった。時間がかかったが、二ヶ
月後認定された。新盆を前に、やっと葬儀を上げる事が出来た。
一成さんのもう一つのフォトアルバムには、津波に破壊された自宅が写っていた。庭の巨石は
そのままに瓦礫に埋め尽くされた家の土台。津波の破壊力が凄まじい。何もかも流されてしまっ
た。立派な庭を持つ家の写真と、瓦礫の原になってしまった写真を見比べる。これが津波の仕業
なのだ。
一成さんは玲子さんの面影を絵にすることで、新しい一歩を踏み出そうとしている。父が作り
母が守って来た家の再建。大きな目標だが、まずは一歩からだ。
この絵が、その背中を少しでも押してくれれば嬉しい。
一成さんにおくる、優しかったお母さんの記録。
玲子さんのご冥福をお祈りいたします。
9月3日の面影画は佐々木一成(かずしげ)さん。
津波で亡くなられたお母さんを描かせていただいた。
一成さんが持参したアルバムには被災前の自宅と被災後の自宅跡が写っていた。巨石の並ぶ立
派な庭を持つ家の写真は素晴らしかった。
お父さんが丹誠込めて作った庭。年に一度庭師が一週間かけて手入れをしていた庭。
一方、庭石だけが瓦礫の中に残された家の跡。周辺一帯が何もなくなって一面の瓦礫しかなく
なっている写真。津波の破壊力と被災の現実。何もかもが破壊されてしまった。
この絵を描く事で一成さんは次の一歩を踏み出そうとしている。父が作り、母が守って来たも
のを再建する。大変なことだが、まずは一歩から始まる。
お母さんが残したものを再建したいという一成(かずしげ)さん。
雨が降るとテントの中は湿気でなにもかも濡れてしまう。