面影画
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9月5日の面影画は菅野勝也さん
描いた人 菅野利子さん 六十四歳 妻
利子さんは今回の震災ではなく、七年前に病で亡くなった。勝也さんは津波で家も車も流され
て、何もなくなってしまった。せめて妻の面影を持っていたいと、知人から写真を借りて面影画
を申し込んだ。
利子さんは和野の生まれで、勝也さんとは見合い結婚だった。利子さん二十七歳、勝也さん二
十八歳の時だった。
利子さんは東京で和裁の仕事をやっていたのだが、結婚を期に高田に帰って来た。勝也さんは
大工だった。出稼ぎ仕事が中心で、北海道や東京に出稼ぎで働き、盆正月に戻る生活だった。家
を守っていた利子さんは、姑や姑ほか家族がたくさんいる中で大変な苦労をした。
そんな利子さんの様子を見て、勝也さんも決断する。「収入は半分になるけど地元で働こう・
・」大船渡の造船会社で大工の腕を見込まれて、働くようになった。利子さんは本当に喜んでく
れた。結局、その会社で二十年働いた。子供も三人に恵まれ、家庭も安定していた。
定年を迎えた勝也さん。その頃から利子さんが腎臓を病んでしまった。透析が欠かせない体に
なってしまった利子さん。夫婦で出かけることはかなわなくなってしまった。
一日四回の腹膜透析が欠かせなくなってしまい、徐々に食も細くなってきた。体がきつくなり
針仕事も出来なくなってしまった利子さん。
息子の発案で家を新築することになり、七月に建て前が終わり、十一月には落成することにな
っていた。そんな十月に、とうとう利子さんは入院し、十月三十日に腎不全で帰らぬ人となって
しまった。六十四歳だった。
これからと言う時に妻を失った勝也さんの落胆は大きかった。入りたかった新しい家から、畳
の上から送り出そうと、落成前の新居から利子さんを送り出した。
その思い出の家が何もかも、今回の津波で流されてしまった。
三月十一日、勝也さんはシルバー人材センターの仕事で、高田の松原で清掃作業をしていた。
午前中の作業を終え、荷物を下ろした時に地震が来た。
松原の松が全部ゆらゆらと揺れ、立っていられない。軽トラにすがり、かろうじて揺れに耐え
る。砂の足元が沈んで行く。一緒に作業していた人と軽トラに乗って急いで逃げた。
砂から黒い液状化した黒い水が吹き出した。道路に亀裂が入り、黒い水が吹き出している。
作業小屋に荷物を置いて戸締まりし、高台のシルバー人材センターへと走る。道路は渋滞して
いる。何とか四十五号線を突破し、センターにたどり着いてほっとしたのもつかの間、防災無線
の「津波が防波堤を超えた」というアナウンスが流れた。シルバー人材センターには続々と避難
する人が集まって来た。
津波はすぐにやってきた。事務所の中まで水が入った。水より先に瓦礫が流されて来て、車を
押して動かした。「ここはダメだ! もっと高い所へ逃げろ!」避難した人々は更に高い所へと
逃げた。
津波の第二波がひどかった。家がそのまま流されて行く。誰もが声を失った。
勝也さんはシルバー人材センターから更に高台に人々を避難させ、行動を共にしていた。最終
的には松原苑まで避難し、そこでその後のことを考えた。
着の身着のまま、作業服に長靴のままで一週間を過ごした。息子は大船渡から歩いて帰って来
た。娘も無事なことが分かった。そして、混乱が落ち着いたので、自宅を見に行った。
自宅は基礎のコンクリートと飛び出した鉄筋、土台しかなかった。何もかも津波に流されてし
まった。
冒頭に書いたように、勝也さんは、妻、利子さんの面影画を依頼にきた。せめて妻の絵だけで
も手元にと、妻の友人を訪ね、写真を借りてきてくれた。
利子さんは、和裁をやっていた関係で友人も多かった。着物を着て集まる会の写真が何枚か借
りられた。その中の一枚に、利子さんがにっこりと笑っている写真があったので、面影画はその
写真を元に描かせていただいた。
勝也さんのこれからの人生の伴侶となるような絵になってくれれば嬉しい。
9月5日の面影画は菅野勝也さん。
病気で亡くなられた奥さんを描かせていただいた。
勝也さんは今回の津波で家も何もかも流されてしまった。何もなくなってしまい、せめて妻の
肖像だけは持っていたいと、友人から写真を借りて、面影画に申し込んだ。
これから先を生きる支えが欲しかった。
和裁をやっていた奥さん。友達から借りた写真も、和服を着て集まる会のものだった。その中
の一枚に、にっこり笑った奥さんが写っていた。
絵は、この笑顔を元に描かせていただいた。
この絵が勝也さんのこれからを見守ってくれ、そして、勝也さんの背中を押してくれるように
なれば嬉しい。
家も何もかも流されて、亡き奥様の面影が欲しいと申し込んだ勝也さん。
ちょうど百人目ということで、共同通信社の取材が入った。