面影画
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9月8日の面影画は大畑信吾さん
描いた人 大畑 力(ちから)さん 四十三歳 長男
力さんは、男二人、女二人の四人兄弟の長男として育った。体が大きく、足も速かった。小学
、中学、高校と野球の選手だった。
高校時代に岩手県の大会で優勝し、当時、桑田や清原がいたPL学園と岩手県営球場で試合をし
た経験を持つ。野球が大好きな信吾さんの、自慢の息子だった。
高校を出て就職した金型加工会社の本社勤務となり、五年間、東京で働いた。二十三歳の時に
大船渡に帰って来て、高田の酔仙酒造に入社した。
帰って来てからは、地域の様々な活動に参加した。消防団にも入った。公民館の活動もした。
しかし、同級生よりも五年遅く始めた活動では、何をやっても一番下からのスタートだった。そ
れでも、力さんは嫌な顔ひとつせずに、黙々と続けた。
そんな力さんを信吾さんは、父親としてあらゆる面でサポートした。自分の後継者として、様
々な場に出し、活動の幅を広げさせた。力さんもそれに応え、理想的な後継者に育っていた。
結婚した力さん、娘二人に恵まれた。自分が大好きだった野球を一緒にやることは、娘だから
かなわなかったが、娘は小学でバスケット、中学では柔道部の道を選んだ。
結婚した相手は看護士だった。将来の自分の身を考え、昨年から酒もタバコも缶コーヒーもや
めて健康管理をはじめた。奥さんのアドバイスをよく聞く人だった。
信吾さんはそんな力さんの行動を「家庭人としてきちんとやろうという決意だったのではない
か・・」と言う。
三月十一日、力さんは酔仙酒造で働いていた。仕事は仕上げの瓶詰め前の行程を担当していた
。酔仙酒造は昔ながらの建物で、土壁だった。その壁が崩れ、社員は中庭に集まってから避難し
た。力さんは、一旦会社に戻り、片付けをしてから車で避難した。
みんなと一緒にすぐ高台に避難すれば助かったのだが、力さんは家に帰ることを選んだ。いつ
も通勤している四十五号線に向かって車を走らせた。
家は高台にあり、今回の津波でも被害はなかった。だからこそ、力さんは家に帰ろうとしたの
だろうと、信吾さんが言う。
巨大な黒い津波が高田の町を呑み込んだ。誰もあんな大きな津波が来るなんて考えてもいなか
った。
一週間後、弟の悟さんが力さんを発見した。赤いトレーニングシューズを履いていた力さん。
その靴に見覚えがあった悟さん。すぐに遺体を収容した。間違いなく力さんだった。
悟さんは消防団員として高田の町の被災者を収容していた。力さんの服には免許証が入ってい
て、本人とすぐに確認出来た。場所は高田の市街地中心部だった。
力さんの車はまだ見つかっていない。
今、その赤いトレーニングシューズは信吾さんが履いている。力さんの形見の品を身につける
ことで、息子を供養している。
二人の娘の父として、夫として、長男として、まだまだやらなければならない事がたくさんあ
った。もっともっと生きなければならなかった。
「無念だったろう、悔しかったろう・・・」信吾さんが涙ながらにつぶやく。
本当に無念で悔しいのは、信吾さんだ。本当に自慢の息子だった。後継者として何も不満はな
かった。出来る事なら、その人生を代わってやりたい。しかし、それはかなわない。
信吾さんは赤いトレーニングシューズを履いて、息子を思う日が続く。
信吾さんの落胆は大きい。心の空白を埋めることは出来ないが、この絵が少しでも信吾さんの
痛みを軽くしてくれれば嬉しい。
信吾さんにおくる、自慢の息子、力さんの生きた記録。
力さんのご冥福をお祈りいたします。
9月8日の面影画は大畑信吾さん。
津波で亡くなられた息子さんを描かせていただいた。
二人の娘の父親として、良き夫として、4人兄弟の長男として、まだまだやることがいっぱい
あった。まだまだ生きてもらわなければならなかった。と信吾さんが言う。
信吾さんの落胆は大きい。本当に無念で悔しいのは信吾さんの方だ。
心の空白はあまりに大きい。埋める事など出来はしないが、少しでもこの絵で痛みが薄くなっ
てくれれば嬉しい。
野球が大好きだった息子さんを亡くして落胆の深い信吾さん。
亡くなった息子さんが発見されたときに履いていた靴を履いて弔っている。