面影画
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9月11日の面影画は菅野典子さんと松峯育美さん
描いた人 千葉明美さん 四十代 同僚
明美さんは高田の郵便事業株式会社に勤めていた。郵便局が民間会社になり、そこでゆうパッ
クなどの集荷、出荷、発送、配送をする会社だ。明美さんは業務企画室の総務を担当していた。
絵を依頼に来た典子さんと育美さんも同僚だった。明美さんは姉御肌のかっこいい人だった。
女らしく化粧はきちんとしているだけれど男っぽい人で、サッパリとした性格は、女の人に人気
があった。
独身で、お茶やお花もやっていたのだから、男性に人気もあったと思うのだが、女の子の方に
人気が高かった。「行こうよ、行こうよ」と食事や飲み会に誘ってくれた。典子さんも育美さん
もよく一緒に食事や飲み会に行ったものだった。
気仙沼でお母さんと二人で暮らしていた明美さん。会社の事は家で言わず、家の事は会社で言
わなかった。公私をきちんと分ける人だった。一年前、お父さんを亡くしたが、悲しみを表に出
す人ではなかった。
典子さんが思い出す事。ぐずぐずしていると「のりこ!」って呼ばれ、よく目をかけてもらっ
た。女性らしく常にきれいにしている人だった。食事の後も、すぐきちんと化粧した。ぱきっと
切って話してくれる、目標にしたい人だった。
育美さんが思い出す事。悩みを聞いてくれ、的確なアドバイスをしてくれた。ハッキリ言って
くれるので、大好きな人だった。
三月十一日、三人は高田の郵便局の職場にいた。大きな地震があり、局は大混乱になった。
三時十八分まで局の駐車場に集まっていた職員。お互いに「寒い寒い」と肩を寄せ合っていた
。明美さんもこのときはまだ一緒だった。
育美さんは携帯で大津波警報を聞いた。典子さんは防災無線の「津波が水門を超えた・・」と
いう放送が聞こえた。緊急事態だった。みんなは自分の判断で逃げた。高台の一中に向かって逃
げた人もいる。局の二階に逃げた人もいた。それぞれの判断で必死で逃げた。
みんな自分が逃げるのに必死で、後で聞くと記憶が飛んでいる人もいるほどだった。精一杯の
行動だった。局と事業会社あわせて十三人の職員が亡くなった。
育美さんは言う「会社の方針ですぐに仕事を再開することになったんです。亡くなった人のと
ころに他から人が来て、普通に仕事するのに・・・何だかすごく違和感があって・・」
典子さんも言う「こんな状態で普通に仕事している自分に・・何て言うか・・腹がたつってい
うか・・うまく言えないんですけど・・」
本来なら十三人もの職員が亡くなった大災害で、喪に服す期間でありながら、郵便事業という
職種ゆえにすぐに再開が求められた。それは分かる。そうしなければならない使命感も分かる。
しかし、そこで働く人の心の中は、果たしてどんな状態だったのか。それを分かって、ケアしな
がらの仕事再開だったのかどうか。
個人の心の負担は大きい。切り替えられる人ばかりではない。悔やむ気持ちと悼む気持ちとに
攻められて自分の心のバランスを崩す人も出る。
どうか、一度落ち着いて、亡くなった同僚を弔って欲しい。みんなで思い出してあげて、話す
場を作って欲しい。何度もそれを繰り返す事で気持ちが切り替えられる。
この絵を二人は明美さんのお母さんに渡したいと言っている。私はむしろ、二人に必要なので
はないかと思っている。二人ともまだ気持ちを切り替えられていない。
典子さんと育美さんにおくる、尊敬する先輩、明美さんの記録。
明美さんのご冥福をお祈りいたします。
9月11日の面影画は菅野典子さんと松峯育美さん。
津波で亡くなられた同僚を描かせていただいた。
二人は会社で被災した。その時一緒だった同僚で、尊敬する人の面影画を描いて欲しいと依頼
に来た。二人はこの絵を亡くなった同僚のお母さんに贈りたいと言っている。
二人はまだ、今回の震災で受けたダメージを克服出来ず悩んでいる。お母さんもそうだけれど
二人にも何かの救いが必要だ。
これだけの大きな被害、なかった事にすることは出来ない。
だからこそ心のケアが必要になる。心の傷の修復は人によって処方が違う。
この絵が二人の心を修復を出来るかどうか分からないが、少しでも痛みを和らげてくれれば嬉
しい。
職場の先輩の絵を申し込んでくれた育美さんと典子さん。
高寿園の中庭。この草原をじっと眺めて、静かに心を落ちつかせる。