面影画
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6月7日の面影画は鈴木勝井さん
描いた人 鈴木信子さん 75歳 妻
朝、ゴミ焼き場で勝井さんに会った。「ばあさんが夢に出てきたんだ。おじいちゃん、
おじいちゃん、て呼ぶんだよね。目が覚めたらちょうどトイレの時間だったんだよ。死ん
でまで夢に出て来るんだから世話焼き女房だったんだよ・・・」
問わず語りにつぶやいていた言葉を、たまたま横で聞いていた。
今日の作業は9時から。
約束の時間に来られたのは、勝井さんと息子の憲章さんだった。さっそく信子さんの話
を聞く。
信子さんは24歳のとき29歳の勝井さんと結婚した。勝井さんは28歳から定年まで
教師を勤め上げた。本人曰く「女房には苦労かけっぱなしだった。若い頃は競馬やったり
、麻雀やったり、あんまりいい亭主じゃなかった。本当にいい女房だったんだよ。これか
ら奥さん孝行しようと思った矢先にこんなことになっちゃって・・・」言葉が続かない。
去年、金婚式で家族みんなに祝ってもらった。今日はその時の写真を持参していただい
た。
人生で一番嬉しかったのは息子が生まれた時だった。女系家族で男の子が生まれたのは
60年ぶりだった。勝井さんも信子さんも本当に嬉しかった。子供は男の子と女の子の二
人に恵まれ、孫が六人いる。子供からも孫からも世界一のおばあちゃんと慕われていた。
中でも、孫の秀君はおばあちゃん子だった。幼稚園の頃、誰に教わったのか「百円けん
ねえばぶっちめっちょ」などとおばあちゃんに迫って百円をせしめた。信子さんは「はい
はい」と言って百円を渡すのが常だった。「しゅっこ、しゅっこ」と呼んで、本当に孫に
甘いおばあちゃんだった。
料理上手で何を作っても美味しかった。料理をしてる姿が良かったと勝井さん。憲章さ
んが思い出すのは、そばつゆが美味しかったこと。有名な薮屋のそばつゆよりも美味しい
と言ったら、信子さんはとても喜んでいた。
信子さんは彫刻をやっていた。彫刻入りの手鏡を兄弟や親戚に作って配って喜ばれた。
彫刻仲間との付き合いも楽しそうだった。中のよい人が4人いて、よく話していたものだ
った。
地区の芸術祭で入選した作品もあった。勝井さんは、その作品を探そうと家のあった場
所を見回ったが何も見つからなかった。
3月11日、大きな地震だった。戸棚が倒れ、その片付けをしていたが、長い揺れに4
人は庭に飛び出した。松原から鳥が飛び立ってこちらに飛んで来るのが見えた。「ああ、
松原まで津波が来たか・・」とその時は思った。
しかし、一旦舞い降りようとした鳥達がまた再び飛び上がるのを見て、事態が尋常でな
い事が分かる。勝井さん、信子さん、憲章さん、秀君は懸命に逃げた、竹林の斜面を上に
必死で逃げた。バリバリっとまるで戦車の大群が追って来るような音が後ろからした。
20歳の秀君は若さで身軽だった、自分の力で逃げ切った。勝井さんは信子さんの手を
握って走る。勝井さんの手を憲章さんが握って走る。憲章さんは「おやじ、がんばれがん
ばれ」と叫ぶ。勝井さんはそんな息子に「逃げろ、逃げろ」と叫ぶ。三人は頭まで水をか
ぶった。そのとき、しっかり握っていたはずの信子さんの手が勝井さんの手から滑った。
「あっ・・」勝井さんの頭は真っ白になった。どうしようもなかった。
「家内は私を逃がす為に手を離したんだろう・・・」「私は家内に生かされた・・・」
もうだめだった。何も聞けなかった。涙で顔が上がらない。インタビューは中断した。
市政発展功労者に勝井さんが選ばれたとき、一番喜んでくれたのが信子さんだった。フ
ラワーロード陸前高田を16年続けられたのも、信子さんの内助の功あってのものだった
。勝井さんは毎日信子さんを思い出している。
孫の秀君が描いた申込書の言葉・・「誰にも似ていなく、世界で一番やさしい人」
勝井さんにおくる、すばらしい奥様の記録。
信子さんのご冥福をお祈りいたします。
6月7日の面影画は鈴木勝井さん。
津波で亡くなられた奥様の信子さんを描かせていただいた。
勝井さんは、息子の憲章(のりあき)さんとふたりで見えられた。信子さんのことを聞
かせていただいたのだが、今日の取材はきつかった。途中で、涙が出てしまいどうしよう
もなくなってしまった。しっかり話を聞かなければいけないのに、こんなことではいけな
い。
暑い中で集中して絵を描かせていただいた。
出来上がった絵は自分でも満足できる絵で、勝井さんも喜んでくれたので嬉しかった。
読売新聞の取材が入っていて、最後に一緒に写真を撮ってもらった。
本当にばさんが言ってるみたいだと言ってくれた勝井さん。
取材のカメラマンが夕参りに付き合ってくれた。