お伊勢参り1


念願のお伊勢参り。その一日目は松阪に立ち寄った。



念願のお伊勢参りに出かけた。一生に一度行ければ良いと言われていたのは昔の話。今
は新幹線と近鉄特急で4時間弱の旅になる。でも、まあ気分は一生に一度のお伊勢参り
ということで、いろいろな伊勢の味を味わってきた。ルートは松阪で牛肉を食べ、二見
浦で夫婦岩を見て温泉に泊まり、二日目にお伊勢参り、三日目は鳥羽の観光というルー
トだった。二泊三日の一般的な観光コースだと思う。               

朝7時に家を出て東京からのぞみで名古屋へ行く。名古屋からは近鉄特急で松阪に行く
。近鉄の地下ホームで朝から缶ビールを飲んでいる女性二人連れがいた。いやはや、お
ばさんパワー恐るべし。小雨模様の天気、特急の指定席は最前列。景色も何も見えない
。仕方がないのでデッキで立って外を見る。電車の旅では車窓に流れる景色を見るのが
最大の楽しみだ。風景の中にその地方の文化や歴史が感じられて楽しい。この頃は田畑
の状況も興味深く観察している。車を運転しての旅行とその辺が違う。       

名古屋からこの近鉄特急で松阪へ向かう。 松阪牛専門店「牛銀」、風格ある佇まいが素晴らしい。

●牛銀で松阪肉を食べる                            

伊勢松阪に到着。ちょうど12時になっていたので、タクシーで牛銀(ぎゅうぎん)へ
向かう。このお店は松阪牛を食べるならこの店と言われるくらい有名な店で、事前にチ
ェックしていた。2名だと予約できないので心配していたのだが、平日ということもあ
り、すんなりと座敷に迎え入れられた。明治35年の創業で、創業当時のままの建物は
歴史と風格を感じさせる。座敷には4つのテーブルがあり、その一つに案内された。テ
ーブル毎に仲居さんが付き、いろいろ説明してくれる。              

一人前での注文は出来ないので、あみ焼きとすき焼きを2人前頼む。目の前に炭を熾し
てあみ焼きの準備が始まる。炭はクヌギの最高級品を使っている。熾し方も理にかなっ
ていて、あみ焼きとすき焼きがちょうど良い火力で出来るように工夫されていた。あみ
焼きは黒毛和牛のヒレ。全体にサシの入ったヒレ肉。こんな肉は初めて見る。仲居さん
が「入荷しないこともあるんですよ」と言っていたが、そうだろうなと思う。サッと炙
る程度のレアで食べる。ポン酢タレに付けて口に運ぶ。噛むと肉汁が溢れ、口の中で溶
けた。3回噛んだら無くなった。目が点になり、カミさんの方を見るとカミさんも目を
まるくしている。「こんな肉、初めて・・・」                  

あみ焼きはサシが入った黒毛和牛のヒレ肉。炙る程度で。 これが天下の松阪牛。一枚30センチくらいある。

すき焼きは2人前で4枚の松阪肉。味付けはわずかの砂糖と生醤油のみ。鉄鍋が綺麗に
磨かれている。最初に2枚の松阪肉を焼いて、取り分けてくれた。念願の松阪肉を口に
運ぶ。何という美味さだろうか・・・こちらも3回噛んだら肉が消えた。一枚の大きさ
が30センチはありそうな肉だったが、4口で終わった。いやはや、何という美味さな
のか例えようもない。こんな肉があるのか・・・さすがに値段だけのことはある。  

肉汁で野菜が焼かれて取り分けられた。ニンジンも玉ねぎも甘くて美味しい。「二回目
のお肉は、お野菜の出汁も入るので味にコクが出るんですよ」と仲居さん。二回目の松
阪肉を焼いてくれた。言われた通り、コクのある濃い味に出来上がっていた。最初の肉
とは明らかに味が違う。こちらも絶品、またしても4口で終わった。最後は豆腐を焼い
て、肉汁をすべて吸い込ませて食べる。この豆腐も絶品だった。          

磨かれた鍋でジュウジュウと。味付けは砂糖と生醤油で。 牛銀の横の町並みも風情がある。

仲居さんとの楽しい会話も味を増し、爽やかな吟醸酒が味を増幅させてくれた。老舗の
味を守るのが大変だという話にうなずき、子供や孫の話で盛り上がった。時間を忘れた
ひとときだった。老舗でありながら気安いもてなしが有り難い。2時間ほどゆったりと
過ごし、ほろ酔い加減で勘定を済ませて外に出ると、雨が上がっていた。外観を改めて
見ると、明治35年創業という風格を感じ、思わず写真を撮っていた。この界隈も昔の
茶屋街でもあったのか、風情のある建物が並んでいて興味深かった。        

●松阪城の石垣を見る                             

そのまま歩いて松阪城へ向かう。雨の上がった歩道をしばらく歩くと、蒲生氏郷が築い
た松阪城趾に着く。この城は石垣が見事で有名な城だ。天守閣はない。大手門口から城
の中に入る。石垣が四方から包み込んでくれるようだ。お城の石垣というのは来場者を
威圧するような石垣が多いが、この城の石垣は平城ということもあり、何となく感じが
違う。優しいのだ。この美しい石垣を積んだのが有名な穴太(あのう)衆という一団だ
った。滋賀の琵琶湖周辺に住んでいた穴太(あのう)衆を蒲生氏郷が招き入れ、この石
垣を積ませた。穴太(あのう)積みと呼ばれるこの石垣はどんな地震でも崩れることは
ない。その腕の確かさをこの城で示した穴太(あのう)衆は徳川家に認められ、以後、
全国にその名を轟かし、築城の現場で腕をふるうことになる。           

優美な石垣が特徴の松阪城。蒲生氏郷の居城。 通路をやさしく包み込むような石垣が美しい。

ここ松阪城を築いた穴太(あのう)衆は、文禄二年には蒲生氏郷とともに会津に赴き会
津鶴ヶ城を築いている。会津鶴ヶ城の石垣が美しく優しく感じられるのも納得できると
いうものだ。城跡にいたボランティアのガイドさんにいろいろな話が聞けて楽しかった
。14歳で結婚し、40歳で亡くなった蒲生氏郷は生涯一人の女性しか愛さなかったと
いうことで、若い女性に人気があるらしい。また、早死にしたのはこの城の石垣に古墳
の石を利用したり、伊勢神宮の神木を切って築城したりしたからだと言われている。ク
リスチャンだった蒲生氏郷には「祟り」などという概念はなかったのかもしれない。 

ボランティアガイドさんの説明も楽しかった。 石段もなだらかで優しい。

ガイドさんのお陰で思いの外充実した松阪城見学となった。石垣に興味があったので立
ち寄った見学だったが、ガイドさんの話は多岐に渡り面白かった。徳川吉宗とここ松阪
出身の大岡越前の守との関係。松尾芭蕉は忍者だったという話。伊勢木綿の話。松阪牛
の話。松阪は元々「まつざか」だったのを徳川家康が「まつさか」に改名させた話。大
阪も元々「おおざか」だったのを「おおさか」に改名させたものらしい。伊勢周辺の様
々な話が聞け、有意義な歴史散歩となった。無給でこれだけの奉仕をして頂いて本当に
感謝の気持ちでいっぱいになった。振り返りながら城の石垣を後にして、駅までの道を
ゆっくりと歩く。日が射して暑いくらいになっていた。              

二両編成のJR参宮線。これでも快速。 二見浦駅。タクシーが無かった。

松阪駅からはJRの参宮線に乗って二見浦(ふたみうら)を目指す。1時間に1本の電
車「快速みえ」に運良く間に合い、予定より早い時間に二見浦駅に着いた。駅からタク
シーで宿に行こうと思ったら、駅前にタクシーがなかった・・・。まあ、仕方ない。地
図で見ると近そうだったので歩くことにした。ここは夫婦岩で有名な海岸通りで、駅前
から夫婦岩への参道が続いている。両側の店をのぞき込みながら楽しいブラブラ歩きが
出来た。                                   

ふと目に留まった一軒「打ち刃物・菊一文字規宗」。思わず飛び込んで目を皿のように
してショーケースをのぞき込む。包丁も鉈も鎌も鋸も素晴らしいものばかり。    
でも、ここは伊勢。重い物は買いたくない。目に付いたのが「カイサキ」小型・薄刃の
出刃包丁。結局これを衝動買い。アジやキスを捌くのに良さそうだ。        

「蘇民将来」の話を聞かせてくれたおばあちゃん。 夫婦岩の写真を撮った。波が打ち寄せていた。

20分ほど歩いて夫婦岩に着いた。思ったより遠かった。海の上の夫婦岩は写真で見た
のとまったく同じ形でそこにあった。お参りしようと思ったのだが、この夫婦岩の神社
はご神体だか、眷属だかがカエルのようで、そこいらじゅう石のカエルだらけだった。
これにはさすがに閉口して、お参りどころではなく、早々に通り抜けた。何を好んでカ
エルごときに手を合わさなければならないのか・・・プンプン。しかし、ホテルはまだ
この先なのだ。ああ、駅から電話して迎えを頼めば良かった・・・と激しく後悔。カエ
ルのお陰で夫婦岩の印象が最悪になった。                    

●蘇民将来(そみんしょうらい)のいわれを知る                 

夫婦岩参道の一軒の家の前でおばあちゃんから玄関の飾り物について話を聞いた。松阪
でもそうだったのだが、藁を編んだきれいな飾り物がど家にも着いていた。お祭りだか
らというものでも無さそうで「何だろう?」と気になっていたのだ。おばあちゃんの話
に蘇民将来(そみんしょうらい)のお守りだと知った。旅行のガイドブックにも何だか
そんな話が書いてあったので、ホテルに着いてから読んでみた。そういえばこのホテル
は「蘇民の湯・ホテル青海」という名前になっている。この周辺ではここだけが天然温
泉になっていたので選んだのだが、近くには蘇民の森・松下社という神社?があるよう
だ。2000年のクスノキがあるとも書いてある。                

「蘇民将来」の飾り札。 いろいろな形がある。

フロントで場所を確認して散歩がてら蘇民の森を見に行く。歩いて5分くらいでそれら
しい場所に着いた。しかし、蘇民の森・道の駅はあるのだが、肝心の蘇民の森がどこだ
か分からない。道の駅の裏手を覗いて見たら、小さな神社らしき物が見えたので行って
見た。入り口に立て札が立っている。その奥にある木が2000年のクスノキだった。
主幹が枯れ、巨大な根回りに太い幹が何本も立ち上がっていた。高さが無い分、それほ
ど大きくは感じないが、根回りは12メートルあるという。巨大なクスノキの残骸だっ
た。そしてその裏手が蘇民の森・松下社の神社だった。              

樹齢2千年と言われている大楠。 蘇民の森・松下社の鳥居。

清浄に掃き清められた境内に玉砂利が敷きつめられ、神明作りの社殿がひっそりと建ち
、何か大きな存在感を放っていた。ここが蘇民将来の伝説の地なのだ。ホテルのパンフ
レットに書いてあった蘇民将来の伝説とはこういうものだった。          

戦い敗れて旅の途中だった神(スサノオノミコト)がこの地に立ち寄り、裕福な弟、巨
旦将来(こたんしょうらい)と貧しい兄、蘇民将来に一夜の宿を請うた。裕福な弟はそ
れを断り、貧しい兄は心を込めてもてなした。翌日、神は茅の輪を兄に授けて、明日こ
こを疫病が襲う。これがあれば難を逃れられると言い残し、その通りになった。それ以
来この地方では「蘇民将来子孫家」と書いた札を玄関に掲げ、厄よけにしている。  

神明作りの社殿。ひそやかに、毅然と建っていた。 神域はゴミ一つ無く掃き清められていた。

その蘇民将来の札を一手に作っているのがこの松下社だという。あくまで伝説なのだろ
うが、ずいぶんと残酷な神様ではある。どうせ助けるなら皆助ければ良さそうなものな
のに、自分に良くしてくれた人間だけ助けるなんて、これじゃ脅迫と変わりない。いや
、神話だから疫病になっているが、実際は皆殺しにしたのかもしれない。スサノオだっ
たら、その方が分かりやすい。弟だということをいいことに、高天原で乱暴狼藉を働い
てアマテラスオオミカミから追放されたくらいだ。気性からして、皆殺しくらいはやり
かねない。いずれにせよ、蘇民の森がここにあり、蘇民将来の伝説がここに伝わってい
る。今もこの地方の人々は伝説とともに生きている。               

その昔、神話は「祟り」という恐怖の道具を作り出し、人々の心を支配した。神話の持
つ残酷面だが、この地に来て、自分自身も普通にその「祟り」を恐れる心を持つことを
改めて自覚し、根の深さを知った。「祟り」は大きければ大きいほど、丁重に祀らなけ
ればならなかった。戦い敗れて、この世に多くの恨みを残したものほど「祟り」は大き
かった。「祟り」の大きさは敗れたものの強大さを表し、民衆の畏怖心を表している。
そう考えると、民衆がかつて強大な力を持ち、戦いに敗れたものを忘れさせないために
「祟り」という道具を利用して鎮魂しているのではないか・・と思うこともある。  
「祟り」は奥が深い。                             

蘇民の森全景。こんもりと深い。 ホテルの窓から見た夕日。夫婦岩に夕日が沈む。

ホテルに帰り、温泉に浸かり、やっと人心地ついた。波打ち際に建つホテルの露天風呂
で波の打ち寄せる音を聞いていると、遠く古代への思いが伝わってくる。夕日が一瞬海
を赤く染め、夫婦岩がシルエットになって浮かんだ。荘厳で何ものにも例えがたい風景
が目に焼き付いた。なぜにこの一瞬だけ日が射したのだろうか、じつに印象的な夕日だ
った。海の夕日が赤い余韻を残して消えていった。さあ、風呂から出たら夕食だ。  


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