山里の記憶100


わらじ作り:串田利作さん



2012. 2. 26



絵をクリックすると大きく表示されます。ブラウザの【戻る】で戻ってください。


 二月二十六日、皆野町大淵の串田利作さん(七十七歳)のお宅を訪ねた。今日はわらじ
作りの取材をさせて頂く事になっていた。利作さんは笑顔で迎えてくれて、暖かい炬燵で
いろいろ昔話を聞かせてくれた。                         
 利作さんは吉田の石間(いさま)で生まれた。小学、中学と地元の学校に通い、高校は
小鹿野にあった秩父農高の小鹿野分校(今の小鹿野小学校のところ)に通った。自転車で
巣掛峠(すがかりとうげ)を越えて立ちこぎで三十分で走り抜けたというから凄い。  
 当時は砂利道で、デコボコ道だったが、若さはそんなものは気にもしなかった。   
「今から思うとよく通ったもんだいね、三十分だかんねぇ・・」必死だったと笑う。  

 高校時代に学校行事で両神山の雪中登山をしたことがある。道に迷って雪の中で夜を過
ごすことになってしまった利作さん。火を起こして木を燃して暖を取ったが、両足が凍傷
になってしまった。「生の木でも良く燃えたいね・・」と笑うが、今だったらとんでもな
い事だとニュースになるところだ。まあ、昔の学校はそのくらいのことは普通にやってい
た。学校から下吉田をグルリと回り、巣掛峠を越えて走る一万メートルマラソンなどとい
うのもやった。厳しい学校で、身体も精神も鍛えられたものだった。         

 そんな高校を卒業した時、世間は大変な就職難だった。利作さんは埼玉県立の蚕業試験
場で一年間勉強し、蚕業技術普及員の資格を取った。当時の日本では生糸産業が一大輸出
産業で、養蚕はどこでもやっている一般的な仕事だった。              
 資格を取って製糸会社に勤めた利作さん。月給は一万円なかった。サンマの開きが十円
くらいの時代だった。忙しく働き、成人式は川越で迎えた。秩父に帰って来る事も出来な
いくらい忙しかった。                              
 その後、埼玉県養蚕販売農業協同組合連合会という長い名前の団体職員となった利作さ
ん。大きな団体だったので、各市町村に駐在職員がいた。利作さんは当初北本に配属にな
ったのだが、地元の方が何かといいだろうということで、野上農協に駐在職員として配属
された。これが利作さんにとってありがたいことだった。              

 二十六歳の時に同じ年の八重子さんを下吉田から嫁に迎え、皆野町の大淵に新居を構え
、新しい生活を始める事になった。そのままずっと団体職員で職を全うすることになる。
 当時は養蚕で生計を立てる家が多かった。利作さんが担当していた野上だけで百八十軒
の農家が養蚕で食べていた。養蚕そのものもそうだったが、生糸で布を作る機屋(はたや
)も多かった。秩父銘仙が大流行し、財をなす人も出た。              
 秩父郡市だけで百人を超える指導者がいた。秩父蚕糸、片倉工業など大きな会社も隆盛
を誇っていた時代だった。利作さんの仕事は本当に忙しかった。           

 養連を退職後二年働き、その後は高齢者事業団で十年弱活動していて、事務局長も長く
務めた。その高齢者事業団の活動の中でわらじ作りを始めた。            
 上吉田の義理の兄がわらじを作っていて、そこで作り方を教えてもらった。自分で買っ
て来て、どう作られているのかを研究したりして、見よう見まねで始めたことだった。
 ただ、わらぞうりは子供時代からよく作っていたので、要領はすぐにわかった。平成十
一年からわらじを作り始めて、もう十四年も作っていることになる。         
 八人兄弟の下から二番目だった利作さん。昔は自分のわらぞうりは自分で作ったものだ
った。囲炉裏端に並んで、兄弟で競争でわらぞうりを編んだ。風呂が沸いても「お前が先
に入れ!」とか言い合って、親に怒られたものだった。自分で編んだわらぞうりを履いて
学校に通った。学校の上履きもわらぞうりだった。                 

暖かい掘炬燵で、いろいろな昔話を聞かせてくれた利作さん。 ブルーシートを広げ、わらじを編む準備をしてくれた八重子さん。

 利作さんは、家の板の間にブルーシートを広げ、そこでわらじを編んで見せてくれた。
わらじ編み用の専用台を足で固定し、そこに三メートルの縄を二重にかけて編み始める。
この芯になる縄は結ぶヒモにもなる緒縄で、丁寧に編まれており、両側が徐々に細くなる
ように編んである。これを芯にしてわらじが出来る。                
 利作さんが使っている藁はわらじを編むための専用の藁だ。専用といっても、わざわざ
これ用に栽培しているのではなく、親戚が作っている餅米の稲から藁を作っている。  
 餅米の藁は普通の稲の藁よりも柔らかい。早めに刈り取って青みを残し、はざに掛け、
その上にビニールをかけて雨に濡れないようにしてもらっている。雨に濡れると色が悪く
なり、品質が落ちてしまう。親戚だからこそお願い出来ることであり、感謝している。 

 編み始めは布を藁に巻いて、補強したもので編み始める。布は風呂敷を細く裂いたもの
を使っている。布の色がわらじのデザインにもなるので、出来上がりを考えて色を選ぶよ
うにしている。今日は紫色の濃淡で色を選んだ。                  
 最初に編むのがつま先に当る部分になる。消耗が激しい場所なので、布を藁にかぶせ、
布が表に来るように編む。この巻いた布が補強材になる。固くしっかりと編むことが求め
られる。四本の縄の間にそれぞれ指を入れて編む間隔が狭くならないようにしながら、ぎ
ゅっぎゅっと、強く締め込みながら編み進める。藁は四本を使って編み込む。追加する藁
は必ず中央から加え、元部分が裏側に行くように加えていく。            

指先に力を込め、ギュッギュッと編み込んでゆく。手がリズミカルに動く。 「このくらい必要なんだいね」と、緒縄の長さを見せてくれた。

 リズミカルに動く利作さんの手が力強い。すぐにつま先を終えて土踏まず部分にまで編
み進んだ。ここでわらじの乳(ち)という緒縄を通す輪を作る。布で藁を巻いたヒモを作
り、それでわらじの両側に輪を作る。                       
 更に五センチほど編み進んで、また両側に乳(ち)を作る。今度の輪は少し大きめの輪
にする。この輪を作る布の色が全体のデザインを際立たせる。わらじ職人の個性が出ると
ころだ。しっかり乳(ち)を作ったら更に編み進み、かかと作りに入る。       

 かかとは大事な場所なので、つま先と同じように布で藁を巻きながら編む。足の大きさ
に合わせて形をつぼめて行き、最後は布で巻いてよったヒモでグルグルと五回ほど巻いて
締める。上に立つように締め上げ、最後は下から上に抜き通して止めれば出来上がり。 
 二つの輪が出来ていて、これが返し輪(耳縄とも呼ばれる)となる。その長さを調整し
て両側の乳(ち)に差し込めばかかとが完成する。                 
 つま先から伸びている緒縄を小さい方の乳(ち)に通し、大きな乳(ち)に突っ込んだ
返し輪の先端に通す。両側の緒縄を通せばわらじの完成となる。ここまでくると「ああ、
わらじだ」という感じがする。                          

二時間ほどで一足のわらじを編み終わった。すごい集中力だ。 出来上がったわらじ。さっそく履かせてもらい、歩いてみた。

 わらじはかかとで履け、という言葉がある。実際に履いてみてその言葉の意味が分かっ
た。利作さんに教わったように両足にわらじを履いて、実際に道路を歩いてみた。最初は
鼻緒部分が痛く感じたが、すぐに慣れ、普通に歩けるようになった。         
 親指が多少地面に触れるのが気になるが、特に問題はない。これなら普通に履けるなあ
などと思いながら家に帰り、わらじを脱いで裏側を見て驚いた。つま先の消耗がすごく激
しいのだ。我々が普通に靴で歩くときは、つま先で地面を蹴るように歩く。こういう歩き
方をするとわらじのつま先はあっという間にすり減ってしまう。           

 「わらじはかかとで履け」というのは、つま先を蹴るように歩くのではなく、足裏全体
で、またはかかとに体重をかけるように歩けという事なのではないか。考えてみれば、昔
の人は今のような歩き方をしていなかった。例えば相撲のすり足のような歩き方をしてい
たと聞く。今のような歩き方は明治以降の軍隊教育で矯正されて西洋式に変えたためだ。
 また、アスファルトの道はなくすべて土の道だった。土がわらじの藁に入り込み、今考
えるよりもすり減る事は少なかったのだと思う。足裏は石のように固かったはずだ。  
 わらじはかかとで履けという言葉は、そんな昔の人々に思いを馳せる言葉でもあった。

 わらじを履いて歩いてみて、昔の人の旅する姿を思う。この履物で日本中の人が日本中
を歩いて旅していたのだ。靴を履いた歴史はまだ百年ちょっとでしかない。      
 今、実際にわらじを履く場面は少ない。しかし、お祭りのササラや獅子舞、お神楽など
伝統芸能やお祭りには欠かせない履物だ。作る人はどんどん少なくなっている。利作さん
のような人が残っていかないとわらじを作る人がいなくなってしまう。        
 昔の人はこのわらじで旅をして、生活をして、生きてきた。近年は渓流釣りや沢登りに
も使われてもきた。その作り方を伝承し、後世に伝える事は文化と歴史の伝承でもある。