山里の記憶
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ブルーベリージャム:岸ヱイ子さん
2012. 5. 15
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五月十五日、秩父市下吉田にブルーベリージャムの取材に行った。フルーツ街道の中程
にある岸ヱイ子さん(七十歳)の家を訪ねた。本当は糸つむぎの取材をする予定だったの
だが、ヱイ子さんの都合でブルーベリージャムの取材に変更した。
えいこさんはブルーベリー農園を経営していて、収穫したブルーベリーでジャムを作る
ことがある。熟練の技を取材できる機会は少ないので、嬉しい展開だった。
ヱイ子さんの農園には八百本のブルーベリーが植えられている。十五年間、ブルーベリ
ーを育ててきて、収穫シーズンには大勢の観光客が訪れる。
育てている品種はノーザンハイブッシュ系の「ブルークロップ(早生品種)」、「エチ
ョータ」と「デューク」はいい粒が揃う品種。ラビットアイ系の「ウッダード」も育てて
いる。収穫は六月下旬から七月にノーザンハイブッシュ系が収穫され、八月にウッダード
が続く。長い期間収穫を楽しめるのが農園経営の基本でもある。
このフルーツ街道には、様々な果樹が栽培されていて、多くの観光客に人気がある場所
だ。ヱイ子さんの農園もその一角で、人気のブルーベリー農園となっている。
自宅前の広い作業場にジャム作りや豆腐作りの器具が並んでいる。ヱイ子さんはここで
ジャムを作ったり、タケノコを煮たり、豆腐を作ったりしている。
自宅横に大きな業務用の冷凍庫があり、ブルーベリーが保存されていた。今回はその中
の五百グラムの袋を取り出した。「二人分作るんだからこれでいいよね・・」問わず語り
のヱイ子さん。テキパキと動きが素早くて、追いかけるのが大変だ。
大きな冷凍庫から保存しておいたブルーベリーを出すヱイ子さん。
色々話ながら、外に作られた専用の作業場でジャム作りを始めた。
ホーローの鍋はジャム専用の鍋。これにコップ半分の水を入れ、強火にかけ、冷凍のブ
ルーベリーを入れる。火はずっと強火のまま。「強火で急速に煮た方がジャムの出来上が
りがいいんだいね・・」忙しく鍋の回りを動くえいこさん。火の前を離れるときは私が交
替で鍋の中身を木べらでかき回す。
五百グラムのブルーベリーに対して、砂糖が百五十グラム。計って投入する。ブルーベ
リーは冷凍しておくと皮が硬くなる。一般的なブルーベリージャムは糖度が四十度くらい
だというが、ヱイ子さんのジャムは糖度を五十度くらいに仕上げる。
ヱイ子さんは甘さの調整に水飴を使う。この水飴がヱイ子さんならではの味を生む。作
業台の下には一斗缶の水飴がデンと置かれていた。水で手を濡らしたヱイ子さん「これは
ね、水で濡らさないとダメなんだい・・」と言いながら、水飴の上を手でかき取るように
して、ひとつかみの水飴を取り上げて、鍋に投入する。
焦げないように鍋をひんぱんにかき混ぜる。「水飴を使うと照りが出るんだいね・・」
その照りが、他の人のジャムにはない。
ここでジャムを買っていった人が、あまりに美味しいからと生協に持ち込み、これを販
売できないかと、生協の担当者から連絡が来たそうだ。生産規模が大きすぎて、その注文
を受けることは出来なかったが、味の証明にはなったとヱイ子さんは胸を張る。
水飴を入れてかき混ぜながら、今度はレモンを切って、果汁を絞り入れた。五百グラム
のブルーベリーにレモン一個分の果汁が加えられた。そして、そのまま煮詰めてゆく。
隣のガス台に寸胴鍋をかけて湯を沸かす。瓶詰め用のビンとフタ、そしてビンにジャム
を入れる時に使う上戸を煮沸消毒し始めたヱイ子さん。その手際が素晴らしい。まるで流
れるように作業が進んで行く。日頃やっている事だからこそ遅滞なく体が動くのだろう。
「熱いうちに詰めないとだめなんだい・・」と目の前でビン詰めしてくれたヱイ子さん。
なんだかあっという間にブルーベリージャムが出来上がってしまった。
鍋に残ったジャムを指ですくってなめてみた。上品な甘さとブルーベリーの酸味が程よ
くマッチした、じつに美味しいジャムだった。
これを厚いトーストに盛って食べるのはどんな快感なんだろうか。
水飴を加え、レモン汁を加え煮詰めてゆく。手はずっと動いてる。
煮沸したビンに出来上がったジャムを熱いうちに詰める。
ヱイ子さんは自分で豆腐も作る。豆腐用の木枠がきれいに洗われて置かれていた。自宅
で豆腐を作る人を探していたので、今度は豆腐作りの取材もお願いしたいものだ。
ヱイ子さんの豆腐は知り合いに配るためのもの。もらった人がみんな「旨かったでぇ、
えれえ旨かったでぇ・・」とほめてくれる。豆腐屋さんに教わった方法に自分なりの工夫
を加えて作る、ヱイ子さん自慢の手作り豆腐。こちらは販売する予定はないとのこと。
家の炬燵に戻ってヱイ子さんに昔の話を聞いた。ヱイ子さんは私と同じ岩殿沢耕地の出
身だった。十二歳違いで、何と、子供の頃一緒に遊んでもらったらしい。話に出てくる人
の名前は聞き覚えのある人ばかり。もちろん、私の母親や父親の事もよく知っていて、懐
かしい話に花が咲いた。
ヱイ子さんは昭和四十一年に三歳年上の重義さんと結婚した。ヱイ子さん二十五歳の時
だった。重義さんは農協で働いていた。
ヱイ子さんが嫁に来たときこの家には九人が暮らしていた。男衆(おとこし)が多かっ
たので食事が大変だった。食べる物は畑で作っていたが、作ったおかずがなくなってしま
うことも多く、ヱイ子さんは「困ったもんだったい・・」と振り返る。
養蚕や椎茸つくりが主な仕事だった。家では四十グラムの掃き立てをやった。ひいおじ
いさんが蚕を育てる名人で、たくさん出荷したものだった。ひいおじいさんの時から、良
い桑を育てる事が良い繭を作ることだと教えられた。良い桑をくれていれば良い繭が出来
るものだった。
朝のボヤまるきはヱイ子さんの仕事だった。山でボヤ(木の枯れ枝)を集めてきて、そ
れで朝ご飯を作る燃料にする。毎朝の日課だった。体は健康で、頑丈だった。風邪をひく
くらいで大きな病気もなかったことが何よりだった。
水は井戸があったので川に汲みに行くことはなく楽だった。しかし、その井戸も大水が
出ると、畑の堆肥や肥料分が流れ込んで使えなくなる井戸だったので、水質管理には気を
使った。時には遠くの沢まで水を汲みに行くこともあった。水道が出来てからはそんな心
配をするこもなくなった。
長くやってきた養蚕だったが、ある時コンニャクの消毒で使うボルドー液が付いて桑が
ダメになったことがあった。一回薬の付いた桑を食べると蚕は繭を作らなくなった。良い
桑を食べさせて、良い蚕を作って来たヱイ子さんの養蚕は、桑がダメになれば出来なくな
る。思い切って、この時から養蚕を止めた。
近所の新井製作所で働き出したヱイ子さん。HONDA製オートバイのレバー部品や日立
の精密機械の加工が仕事だった。手先が器用で信頼される仕事ぶりは、高く評価され、新
人や外国人従業員の教育や訓練を任されるところまでいった。新井製作所には十五年間、
四十五歳まで務める事ができた。
農園の入り口にあるモッコウバラがきれいに咲いていた。
手塩に掛けて育てているブルーベリーの木が八百本もある。
ヱイ子さんに裏の農園を見せてもらった。家の横から細い道を登ると、そこに「ブルー
ベリーガーデン鶴巻」があった。ちょうど花盛りのブルーベリーにミツバチが飛び回って
いた。「今年はミツバチが飛んで来て良かったいね・・」一昨年と昨年はミツバチが急に
いなくなった。ミツバチがいないときは箱で買ってこなければならなかった。それほどミ
ツバチは農園に欠かせないものだ。
そして、大きな花には大きな実が付く。花が多いのは八個くらい残して取り除くと大き
な実が付く。「でもこれ、めんどくさいんだよね・・」とヱイ子さんが笑う。
農園の入り口にはモッコウバラのアーチ。横にはテッセンとクレマチスのドーム。ドー
ムの中にはブルーベリーが植えてある。隣の畑はムクゲの木で囲まれている。「花の時期
とブルーベリーの収穫時期が重なるんでいいんだいね・・」とヱイ子さん。
農園に来るお客様のために、花の手入れも欠かさない。