山里の記憶11


武甲山に暮らす:守屋恒治さん



2007. 8. 16



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 秩父盆地を見下ろす武甲山。秩父の名山である。その武甲山も石灰岩の採掘で山肌を
大きく削られ、痛々しい姿を炎天下にさらしている。表参道を生川(うぶかわ)沿いに
車で走ると武甲山が目の前に圧倒的な迫力で迫ってくる。カーブを曲がると道はいきな
り石灰工場の中に迷い込み、1キロほど大きなトラックと一緒に工場の中を走る。工場
地帯を抜け林道に入ると、山深い緑に覆われひんやりと空気までも変わる。杉林の中に
湧き出す冷たい名水「延命水」を過ぎ、杉林の道を上ると表参道登山口の鳥居が出てく
る。鳥居の両側には2組のお狗様(おいぬさま)が出迎えてくれる。ここが武甲山登山
の起点で、ここから頂上まで「丁目石」が置かれ、山頂が五十二丁目となっている。 

武甲山表参道にある名水「延命水」は甘くて美味しい水。 登山道入り口の鳥居を守るお狗様(おいぬさま)。

 守屋恒治(もりやつねじ)さん(74)の家はまだこの上で、林道は傾斜とカーブを
急にして武甲山の懐深く入り込んでいく。林道の終点が恒治さんの家で、家の前には「
八丁目」の丁目石が置かれ、登山届けを入れる箱が設置されている。武甲山麓で最奥の
人家がここだった。家の横を生川(うぶかわ)の渓流が白く流れ、ケヤキやミズナラの
巨木に囲まれた池が段々に並んでいる。奥には手入れされたお茶畑が広がり、家の裏は
ワラビの畑が広がっている。庭の木々はまるで盆栽のように枝ぶりを競っている。山深
く薄暗い杉林の中を走り、ここに辿り着くと、まるで別世界だった。恒治さんはここで
60年間暮らした。                              

家の前にある登山道標。登山届けのポストもここにある。 8年前、炭焼きを教えてもらった炭焼き小屋。

 熊谷が日本最高気温40.9度を記録した8月16日、武甲山の懐深くにある旧武甲
鱒釣り場の自宅で恒治さんに会った。恒治さんは長くここに住み、武甲山と共に暮らし
てきたが、2年前に足を悪くして娘さんのいる八王子に引っ越していた。      
 今日は家族でお盆のお墓参りに来ていた。事前に連絡を取って、ぜひここで会って話
を聞かせて欲しいという願いを聞いて頂き、何度も通った懐かしい家で昔の話をたっぷ
りと聞かせてもらった。                            

 この家はもともと恒治さんの親戚の家で、恒治さんは昭和20年(終戦の年)14歳
の時に養子に入った。もともと家は近くだし、ちょくちょく遊びに来ていたのでそれほ
ど違和感なくここで暮らし始めた。子供の頃からすでに石灰工場が出来ていて、武甲山
には削岩の音が響いていた。仕事は主に林業や炭焼きなどの山仕事だった。個人の山や
350町歩ある県造林の下刈りや枝打ちが大半で、毎年仕事に困ることはなかった。5
〜6人が組になり、10町歩ずつくらい伐ったり、植えたりして日当で何人分といって
もらう形だった。                               
 炭焼きは冬の仕事で、雑木ならどんな木でも炭に焼いた。何軒かの商店と問屋に出荷
していた。出荷するときは連絡すると下の鳥居の所までオート三輪で取りに来た。その
時に米や酒を運んでもらうのが常だった。鳥居からは自分の足で何でも担ぎ上げた。当
時まだ家までの林道はなかったので自分で背負うしかなかった。セメント袋50kgを
2袋担いだこともある。100kgくらいの荷物は普通に背負って山を登っていた。家
の資材も池の資材も道具も全部自分で背負って運んだ。              

 秩父に映画を見に行くこともあった。当時まだ自転車が無く、歩いて秩父まで行った
。映画が終わって帰る頃には真っ暗になっていた。28歳の時に横瀬のヨシエさんと結
婚し、3人の子供に恵まれた。この集落には8軒の家があり、生川部落と呼ばれていた
。当時はお祭りからお葬式まで何でも集落内でやっていた。子供達は小学に上がると8
キロの山道を歩いて学校に通った。3年生くらいになると安心して送り出すことが出来
たという。当時まだ給食が無かったので、毎日お弁当を持たせて送り出した。先生が家
が遠いので心配してくれたが仕方ないことで「ちっちゃい時でもけっこう帰ってきてた
もんだよ・・」と恒治さんは笑って言う。山では逞しくなくては生きていけない。  

 30歳のころ鱒釣り場用に池を掘り始めた。ユンボなど無い時代だから全て自分の手
で掘った。大きな石を丸太のテコで動かすのが大変だった。底のコンクリートも自分で
張り、生川(うぶかわ)沿いに4枚の池を掘るのに2年もかかった。鱒釣り場の小屋も
東屋も全部自分で作った。昔は何でも自分でやるしかなかった。          
 鱒は成魚を漁協から買って入れていた。その後3センチくらいの稚魚を買ってきて育
てる方法も併用した。釣り堀には2棟の店も建てた。6つの部屋があり、飲食を提供す
る立派なものだった。客は近在の人が多かった。夏休みなどは涼しさを求めて、結構な
人出があった。何度も通ってくれて顔見知りになる人も多かった。登山客はあまり釣り
をする人がいなくて期待外れだった。                      

自分で掘った池と、自分で立てたバーベキュー小屋。 この日は家族で八王子から先祖のお墓参りに来ていた。

 当時高校3年生だった皇太子殿下がこの家に立ち寄った事がある。武甲山への登山で
、横瀬村長や県の偉いさんもたくさんやって来た。前日には警察が店の床下まで調べて
いた。見えない道にもずいぶんたくさんの警察がいたようだった。皇太子殿下が店に立
ち寄って奥さんが打った蕎麦を食べ、「おいしい・・」と言ってお代わりしてくれたの
がいい思い出だという。家の欄間にはその時の写真が2枚、誇らしげに掛けてあった。

 この頃はまだ生川(うぶかわ)でも川のりが採れていた。大きな岩があちこちにあり
、淵も3メートルくらいの深さがあった。「石屋がめった青石を採っちまうもんだから
川のりも採れなくなったし、川も浅くなったいねえ、いい川だったんだよ」と恒治さん
は昔を懐かしむ。今、生川では川のりは採れない。                

 畑ではアワ、ヒエ、小麦、大麦、ジャガイモ、蕎麦、野菜などを作っていた。ほとん
ど自給自足で、充分食べられるものはあった。蕎麦の花が咲いたときに全部鹿に喰われ
た事があったが、今ほど獣の害はなかった。終戦後食糧不足だったこともあり、山岸に
住む人はみんな鉄砲を持っていて、何かが出てくるとすぐにズドン!と鉄砲を撃った。
 下の村で猿が出たと大騒ぎしている時でも、ここには猿も鹿も何も出なかった。何で
も撃って食ったが、カモシカが一番旨かったという。まだカモシカがご禁制になる前の
話だ。その頃作ったカモシカの尻皮は暖かくて、山仕事で重宝したという。当時は狩猟
期間の決まりもなく一年中撃っていたから、獣が家や畑に近づくことはなかった。  

 何頭しか撃ってはいけないとか、何々は撃ってはいけないとか、いつまでしか撃って
はいけないとか変な規制が始まってから山がおかしくなった。           
「動物愛護だとかは都会もんの言うことで、ここら山岸じゃあ、そんな事言ってたら生
きてけないやね。ばかげな話で本末転倒さあ」と吐き捨てるように言う。      
 各地の畑が動物に荒らされ、何十万円もかけて畑を囲む柵を設置しなければ収穫すら
おぼつかない現実。恒治さんの言葉が染みる。この家の周囲も鹿除けのネットが張られ
ている。それでも鹿が入り、植樹したケヤキを喰って枯らした。野菜をここで作っても
完全に覆ってやらなければ収穫できない。収穫した蕎麦を猿に全部喰われた事もある。
昔と違って動物は遠慮しなくなった。それでも足が悪くなりさえしなかったら、ここで
暮らしていただろうと言う。                          

 登山客とのトラブルも増えていた。恒治さんの家の庭に平気で車を停め、1日置いて
おく人。集団で来て庭で休憩し、食事する人々。平気で庭に立ち小便して行く人。「あ
ら、ワラビが生えてる」と言ってワラビ畑のワラビを盗って行く人。話を聞いているだ
けで情けなくなる。                              
 武甲山は荒廃し、石灰石を取り尽くされ、やがて人々の視界から消える日が来る。最
終的に石灰岩の残壁は高さ800メートル、長さ5キロに達するそうだ。半分以上削り
取られた山がそのまま立っているとも思えない。いずれ崩れて「昔、武甲山という山が
あった跡」になってしまうのだろう。秩父の名山を削り取る人がもてはやされる時代な
のだから、登山客のマナー荒廃もあって当たり前なのかも知れない。        

 武甲山の山懐深く、60年の歳月をかけて手入れされた家、庭、畑、池、木々、その
宝石のような空間が主を亡くし茫然としている。人の手で造られたものは人の手が入ら
なくなった瞬間から茫漠とした自然に飲み込まれていく。武甲山が人の手によって削り
取られて破壊されていくその中で、人の暮らしの痕跡が消えていく。