山里の記憶110


秋ミョウガ:千島徳子さん



2012. 9. 13



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 今年は暑い日が続いている。何日か前に秋ミョウガの取材をお願いしていた上強石(か
みこわいし)の千島徳子さん(七十四歳)に電話したところ、「暑くって、まだミョウガ
が出ていないんだい・・」という話だった。あれから何度か夕立があったと聞いたので、
再度電話して実現した今日の取材だった。                     
 九月十三日、例年なら涼しくなる時期なのだが、今年は異常に暑い日が続いている。上
強石の徳子さんの家は、山の斜面に隠れるように建っている古い家だった。      

 玄関先に出ていた徳子さんに挨拶をしたら家に招かれ、お茶を飲みながら秋ミョウガの
話を聞いた。ミョウガには夏ミョウガと秋ミョウガがある。私の実家の畑にもミョウガは
あったが、全部夏ミョウガだった。お盆の時期には花が咲き、ダメになってしまう。  
 秋ミョウガは九月初めから採れ始め、一ヶ月くらい収穫出来るという。ピンク色の丸々
とした実が美味しそうだ。ミョウガは日が当たると黒っぽくなってしまう。落ち葉などで
隠れて日が当たらないようにすると、ピンク色のいかにも美味しそうなミョウガになる。

徳子さんが畑から抜き取って見せてくれた秋ミョウガ。 急斜面に作られたミョウガ畑を案内してくれる徳子さん。

 ちょうど帰ってきたご主人の嘉一郎さん(八十一歳)も交えて、ミョウガ談義に花が咲
いた。ミョウガ栽培は嘉一郎さんのお父さんが始めた。多いときは六百坪ものミョウガ畑
があったという。狭くて急な斜面にそれだけの広さの畑があったことが驚きだ。    
 収穫時期には大変だった。毎日大量のミョウガを採って洗う。洗った後の水切りが大変
だった。ミョウガの葉の内側に入った水を切るのに、手でひとつひとつ振るのだ。大量の
ミョウガを水切りすると手や肘が痛くなってつらかった。嘉一郎さんも手伝ったが、手首
を痛めてしまい「俺には後は継げねえなあ・・」と思った。             

 もともと草畑だった。お父さんが「草畑にしとくのはもったいねえ」とミョウガを植え
た。徳子さんも手伝った。斜面の草畑をむぐりで斜めにサクを切る。下から上に土を持ち
上げるようにサクを切るのがこの辺の常識だ。逆さうないともいう重労働だ。     
 二十センチから三十センチの深さにサクが切られる。徳子さんがそこにミョウガの苗を
植え付ける。サクの間隔は二メートルと広いが、すぐにミョウガの根が張ってくる。  
「ミョウガは草取りしたりする手間がかからなかったからねえ・・」下の道まで農協の車
が来て、東京にまで出荷していた。                        

 しかし、徐々に周囲に杉を植える人が増え、畑の日当たりが悪くなってきた。嘉一郎さ
んはミョウガ畑をあきらめるしかなかった。「うちも畑に杉を植えちゃったんだいね」 
「昔はえらあったんだけんど、今じゃあ見える範囲だけだいね・・」         
 秋ミョウガは今が最盛期で、これからはヅヤヅヤしたものが多くなり、花が咲くと中が
膿んでしまうものが出てくる。昔はそうなると売り物にならなかった。今、出荷はしてい
ない。                                     

 話が一段落したところで徳子さんがミョウガ畑を案内してくれた。家の横の斜面がミョ
ウガ畑になっていて、今が盛りのミョウガが荒々しく葉を茂らせている。ミョウガをひと
株抜いて見せてくれた。秋ミョウガは株の根元にコロコロと赤い実を付けていた。
 家の周りには様々な木々が植えられている。ユズの木には青い実が付いている。イチジ
クの木がある。徳子さんが指さす方向にはバナナの木があった。ハヤトウリのツルが頭上
を覆っている。「これから猿が出てくるんだい・・」「鹿もくるし、猪も出るし、まった
く大変なんだいね・・」イチジクの木は全体が網で覆われている。こうしておかないと人
間の食べる分が残らない。                            

ここは猿や鹿や猪が出る。鳥追いのフクロウ人形も責任重大だ。 お土産にと採ってくれた青いユズ。香りが辺りに漂う。

 家に戻ってお茶を頂きながら、二人から昔の話を聞いた。             
 嘉一郎さんは八人兄弟の長男として、この家で育った。木工の訓練所に行っているうち
に指導員として働くようになり、熊谷に転勤になる話が出た。その時に母親が「跡継ぎな
んだから家に帰って来い」と言った。                       
 嘉一郎さんは、兄弟が七人もいるんだから、誰かが継ぐと言ってくれると思ったのだが
誰もいなかった。仕方なく帰ってきた。その後は習い覚えた腕で大工として働いた。  

 大工として働く傍ら、仲間達と猟師として獲物を追うこともやっていた。ある時、一週
間も獲物を追い続けて山を渡っていた。髭も伸び放題ですごい顔になっていた。    
 仲間が山を越えて案内した先が、長若(ながわか)の般若耕地のとある家だった。その
家には若い娘とその両親が住んでいた。                      
 仲間が嘉一郎さんを連れてきたのはお見合いの為だった。しかし、嘉一郎さんの顔を見
た徳子さんの母は「お宅のせがれをもらうんかい?」と聞いてきた。これには嘉一郎さん
も困った。家にいたおばさんからひげそりを借りて髭をそり、顔を洗って見せた。   
 もう薄暗くなっていた。仲間は「俺は泊まっていくから、おめえはけえれ」と言う。 
「けえれって言われたって、道がわからねえ・・」と困った嘉一郎さん。結局、徳子さん
の家に泊めてもらった。                             

 徳子さんはその時、和裁を習いに行っていて帰りが遅かった。帰ってきた徳子さんに、
おばさんが子細を話す。徳子さんも困ってしまった。「ええ、あんなおじいとけえ・・」
「で、どっちの人なん・・?」嘉一郎さんはよほど老けて見えたようだ。その時に置いて
きたという写真を見せてもらったのだが、いい男ぶりの写真だった。まあ、一週間獲物を
追って山を歩いた後ということもあったのだろう。初対面は散々だった。       
 その何日か後の事だった。嘉一郎さんは父親に言った「おらあ、おっかあはいらねえか
らオートバイを買ってくれい・・」父親は何も言わず、そのまま結婚話を決めてきた。 

 徳子さんも言う。「早かったで・・二月十二日に来て、三月には式だったかんねえ」 
三月十二日だった。徳子さんはいきなり父親に「タンス買いに行くべえ」と言われ、小鹿
野の三橋に行く。何だかご馳走がいっぱい出て、狐につままれたようだった。     
 すぐに嫁迎えが来る。ハイヤーに乗って強石の下まで走り、荷物は細い道を背負い上げ
た。嫁入り道具を担いで急な坂を登る人も大変だった。               
 結婚披露の宴会は二日間続いた。家に入りきれないほど沢山の人がお祝いに来た。  
 宴会の翌日は里帰りというのが、当時の風習だった。なんとも忙しいこと。徳子さんも
懐かしげに思い出す。「小鹿野のおふうさんで髪結いをして、八木写真館で写真を撮った
んだいね。高島田で来て、里帰りは丸髷だったんさあ・・・」            

 結婚生活は大変だった。徳子さんが嫁に来たのは十九歳。家には十一人の人が重なるよ
うに生活していた。両親、兄弟、おじさん、おばあさん・・若い嫁は苦労の連続だった。
 朝は三時起きで、夜は十一時まで働く毎日。お風呂は、若い嫁が最後だった。休む間は
なかった。朝、暗いうちに山から木を背負い下ろした。牛の乳搾りと餌くれ。兄弟の子供
に弁当を作る。漬物と卵焼きくらいしかおかずがなかった。ご飯は毎日二升炊いた。  
 「子供が五年出来なかったから・・・働くだけだったいね・・・」淡々と話すが、昔の
嫁は本当に苦労したものだった。慣れない山仕事、植林、下刈り、何でもやった。   
「実家でいろいろやってたし、若かったから出来たことだいね・・・」        

お昼にと作ってくれたうどんを頂く。ミョウガの汁が美味しい。 家の前でいろいろ話を聞かせてくれた徳子さん。笑顔がすばらしい。

 二人の話が面白くて、ミョウガのことをすっかり忘れていた。聞きたかったのは、徳子
さんの得意なミョウガ料理の話。                         
 一番はミョウガの酢漬け。大きなビンに漬け込んだミョウガを見せてくれた。食べてみ
ると爽やかな甘さがクセのないミョウガを引き立てている。これは美味しい。     
 二番目は、大量のミョウガが採れた時に作るミョウガの佃煮。昨年作ったという佃煮を
食べさせてもらった。薄い味付けの佃煮だが、ミョウガのシャキシャキ感がしっかり残っ
ている逸品。作り方もしっかりと聞いたので自分でも作ってみようと思う。      
 手軽に出来て美味しいのがミョウガの卵とじ。刻んでさっと煮て、卵をふんわりとまと
わせるだけの簡単料理。汁を多くすればお吸い物になるし、味を濃いめにして丼にするこ
とも出来る。他の材料と合わせて、ご飯のおかずにすることも出来るすぐれもの。   

 秋ミョウガの取材に来たはずなのに、昔の話に聞き入ってしまった三時間だった。