山里の記憶113


めし焼きもち:富田かねさん



2012. 10. 19



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 十月十九日、めし焼きもちの取材で秩父の小鹿野に行った。取材させて頂いたのは、富
田かねさん(八十四歳)だった。挨拶をして家に入り、お茶を頂きながら取材の主旨を話
すと、ベランダに招かれた。秋晴れで、午後の陽射しが暖かい。           
 ベランダには火鉢が置かれ、炭がすでに熾してあった。金網が上に置かれ、出来ていた
めし焼きもちの種が金網の上に乗せられた。                    
「焼くだけだかんねぇ、すぐに食べられるんよ・・」といきなり食べる展開になってしま
った。ここは流れに任せるしかない・・と、もちが焼けるのを待つ。         

 焦げ目が付くまで焼かれたもち。まさに焼きもちだ。焼きもちにつけて食べるタレとし
て、蕗味噌と甘味噌が置かれていた。「昔からこの甘味噌をつけて食うもんだったいね・
・」と言われて、甘味噌をつけて食べてみた。じつにおいしい焼きもちだった。    
 昔、めし焼きもちと言えば、残って冷えたご飯にうどん粉を混ぜ、堅めに溶いて、たら
し焼きのようにホウロクやフライパンで焼いたものを言った。いや、正確には、我が家で
はそう呼んでいた。どうもこのめし焼きもちは、それとは明らかに違う。       

ベランダに置かれた火鉢の炭火で、でめし焼きもちを焼く。 外はカリカリ、中はもちもち。これは美味しい焼きもちだ。

 おいしい焼きもちを頂き、お茶を飲みながら、かねさんに昔の話を聞いた。     
 かねさんは小鹿野町の藤倉、倉尾の太駄(おおだ)で生まれた。八人兄弟の下から二番
目だった。昔は倉尾に限らず、どの家も貧しかった。                
 母親は群馬の財閥の娘だった。峠を越えるのに、他人の土地を歩かずに済むくらいの山
持ちの娘だった。父親はカゴ作りの職人だった。スイノウや腰籠(こしご)、デーマンカ
ゴを頼まれて作っていた。理髪もやったし、蚕の掃き立てもやった。何でも出来る人で働
き者だったが、唯一の欠点があった。ばくち打ちだった。              
 山の中で隠れて丁半ばくちをやる人だった。昔は、隠ればくち場が山の中のあちこちに
あり、ひんぱんにばくちが行われていた。ばくちに狂い、身上(しんしょう)をつぶす人
もいた。父親はその中に出入りする人間だった。そのため、母親は大変な苦労をした。 

 父親は多くの借金を残し、四十八歳で亡くなった。尺八の材料の竹を依頼人と山に見に
行っている時に心臓麻痺で倒れ、帰らぬ人となってしまった。十二月二日のことだった。
 借金の返済をするために、姉三人が奉公に出た。かねさんは「あたしなんか楽させても
らって・・・」と言葉が少ない。当時は製糸工場で働く人が多かった。借金のある家に奉
公して借金を返済する人も多かった。                       

 太駄は倉尾の最奥の集落で、今では三軒ほどの家があるだけだ。その山奥で八人の子供
を育てる苦労。ましてや父親がばくち打ちでは、母親の苦労は大変なものだった。   
 その頃は、みんな畑のある家に手伝いに行って、そのお礼でもらう小麦や大麦で食いつ
なぐ生活だった。米はなかった。かねさんが子供時代も同じような環境だった。    

 倉尾には尋常高等小学校が二つあった。かねさんが通った学校は八谷(やがい)にあっ
た。すごい山の上に学校が開拓した畑があって、生徒はそこで働いていた。みんな勉強な
んかしないで働いている事が多かった。クラスには三十人の生徒がいた。       
 四年生が終わり、働きに出ることが決まっていたが、当時の先生が「かねちゃんは優秀
で、もったいないから中学に行きなさい・・」と言ってくれ、お金も出してくれた。  
 柴崎梅子先生だった。良い先生に恵まれた。生徒全員の体操服をミシンで縫ってくれた
先生だった。困っている生徒に弁当を出してくれた先生でもあった。九十六歳まで生きて
みんなに慕われた先生。かねさんは今でも、先生の手紙を大切に持っている。     

 中学校を出ると熊谷の軍需工場で働いた。ピストンリングを作る工場だった。寄宿舎の
ような住まいでの生活。母親が恋しくて友人と二人で、熊谷から皆野まで電車で来て、皆
野駅から倉尾の太駄まで歩いて帰ったことがあった。夜中に、何時間もかけて歩いた。 
 家に帰って、いくらも休まずに、母親から炒り豆や切り干しなどをもらって、また歩い
て皆野まで戻った。片道二十キロ以上を歩いたことになる。             
 電話もない時代、歩いて帰るしか母の声を聞く方法はなかった。それだけ母親に会いた
かった。倉尾の畑仕事で鍛えた足腰があったから出来たことでもあった。       
「こう見えても、昔は大きくて力持ちだったんだい・・」と十九歳のころの写真を見せて
くれた。そこにはふっくらとした、若さではち切れんばかりのかねさんが写っていた。 

 時は戦時中、終戦も間近だった。熊谷は終戦の前日、八月十四日に大空襲を受け、焼け
野原になった。防空壕は何の役にも立たなかった。身を守るために布団をかぶって、その
まま窒息した人も多かった。多くの人が焼け死んだが、かねさんは奇跡的に無事だった。
 終戦後、自宅に戻ったかねさんは何でもやった。力持ちだったから炭背負いもやった。
農家の畑の手伝いもやった。「倉尾はこんな坂で農機具が使えないんで、自分で掘るしか
ないんだいね。逆さっ掘りだから体力がつくんだい・・」と明るい。「足なんか、こんな
太かったんよ・・」と両手で丸を作って見せる。                  

 そんなかねさんに春が来た。泉田(いずみだ)の若い大工さんが近所の家で仕事をして
いた。その大工さんがかねさんを見初め、結婚することになったのだ。        
 お相手は富田良一さん。かねさんの一つ下だった。ふたりが結婚したのはかねさん二十
五歳の時。ふたりは近所に家を借り、つつましい生活が始まった。          
 良一さんは若かったが、腕が良かった。結婚してすぐに水車を作ってくれた。これで生
活がずいぶん楽になった。建具も作ったし、何でも出来た。             
 二人は新婚旅行にも行った。行く先は秩父。自転車に二人乗りで、倉尾から山を越え、
谷を渡り、秩父まで走った。秩父まで走って疲れ切ってしまい、入った店でカツ丼をふた
りで二杯ずつ食べたのがいい思い出になっている。                 

水を使わず、野菜の水分とご飯の粘りだけで、しっかりこねる。 こね上がった種を五等分して、平たく丸く成形するかねさん。

 話がなかなか途切れなかったが、取材の目的を忘れないように、めし焼きもちの話に切
り替えた。昔は冷蔵庫がなかったから、朝炊いて残ったごはんが傷むことが多かった。そ
んなご飯でも捨てることは出来ず、多少は我慢して、めし焼きもちや雑炊にして食べたも
のだった。めし焼きもちは、囲炉裏端で火にかけたホーロクなどで焼いた。焼いたのが冷
めたら、囲炉裏の灰にくべて温かくして食べたものだった。             
 しかし、かねさんのめし焼きもちは根本的に違う作り方をしている。        

 かねさんのめし焼きもちの作り方が見たいと言ったら、八十四歳とは思えない身のこな
しで、すぐに「じゃあ、作ってんべえかい・・」と言って席を立った。        
 台所に入って、すぐに作業に入ったかねさん。「めしさえあれば、こんなもん簡単に出
来るんだからねえ・・」と言いながら、ネギとキノコをザクザクと切り刻む。     
 「何だっていいんだいね、あるものを使えばいいんだから・・」茶碗一杯のご飯をボー
ルに入れ、そこに刻んだ野菜を加える。そこに味噌少々と小麦粉を加えて練るように混ぜ
る。最初はしゃもじで混ぜ、次に手でこねるように混ぜる。粘りが出てくるまで、しっか
りこね混ぜる。水を使わず、野菜から出る水分とご飯の粘りだけでお餅を作るような感じ
感じで種が出来てきた。確かにこれはお餅だ・・・。                

丸い種を鍋で茹でる。煮えて浮き上がったら出来上がり。 デイサービスでかねさんが百個も作った貝のストラップ。

 こね上がった種を五等分して、それぞれを丸く平らに成形する。その種を煮立った鍋に
入れる。茹でるのだ。「浮き上がってきたら出来上がりだい・・」と作業が一段落して手
を洗うかねさん。我が家のめし焼きもちは、たらし焼きのように焼くだけだった。まさか
茹でる手間が加わるとは思わなかった。これは確かに美味しいはずだ。        
 種がぐらぐらと煮上がった。それをザルに取る。「これを炭火で焼いて、タレをつけて
食べるんだいね・・」「長女が小学のころ、これが好きでねぇ、よく作ったもんだいね」
 しっかりこねてあるから、ご飯粒もわからないし、食感ももちもちしている。それをこ
んがりと焼いて、工夫したタレをつけて食べる。これは、ご馳走だ・・・。      

 かねさんは今、デイサービスに通っていて、貝のストラップ作りをしている。八十四歳
にして針に糸を通し、裁縫をする。秋のお祭りに出すのだと、ひとりで百個も作った。 
 明るく元気な八十四歳。いつまでも元気でいて欲しいと思った。