山里の記憶
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こんにゃく栽培:黒田嘉一さん
2012. 11. 4
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十一月四日、こんにゃく掘りの取材で小鹿野に行った。三山(さんやま)の三ヶ原(み
かばら)という場所にあるこんにゃく畑が取材場所だった。
畑で作業していた黒田嘉一さん(八十六歳)に挨拶をして中に入る。奥さんのキクヱさ
んと娘さんの他に、親戚の人がこんにゃく掘りの手伝いに来ていた。畑仕事を手伝いなが
らいろいろな話を聞かせてもらった。
嘉一さんの畑は三山の三ヶ原にあった。背後にあるのは白石山。
一年ものを掘る嘉一さん。全身の力で耕耘機を押す。
嘉一さんはこんにゃく作りの名人で、今までに二回も農林水産大臣賞を受賞している。
四年前と一昨年の二回で、明治神宮の授賞式に行ったことが良い思い出になっている。
二十五歳の頃からこんにゃく作りひと筋で生きてきた。もう六十年も働いていることに
なる。奥さんのキクヱさんもずっと一緒だ。夫唱婦随で支え合いながら働いてきた。
「こんにゃく栽培農家じゃあ、秩父で最高齢になったいねぇ・・・」八十六歳とは思えな
い明るい声で嘉一さんが笑う。
こんにゃくはサトイモ科の芋で、二年から三年かけて大きな芋に育てて出荷する。はる
なくろ、あかぎおおだま、みやままさりという三つの品種で日本全体の九十七パーセント
を占める。最近はみょうぎゆたかという新しい品種が出来たが、これは群馬県以外では栽
培出来ないようになっているので手が出せない。
こんにゃくの栽培は時間がかかる。普通のサイクルでは三年だが、嘉一さんは二年で出
荷する。五月に生子(きご)と呼ばれる種芋を植える。十センチ間隔、深さも十センチで
千鳥に植え、畝間は六十センチ空ける。最近はあかぎおおだまだけを作っている。
七月に開葉すると消毒を始める。病気が出てからでは遅いので、予防消毒と呼ぶ。十日
おきに十回くらい消毒する。夏の間はずっと消毒をしていることになる。主にボルドー液
での消毒だが、八月から九月にかけてはアブラムシ退治のためにスミチオンをかける。こ
んにゃくは病気に弱く、ひどいときには畑が全滅するので予防消毒は欠かせない。
施肥も難しい。施肥を間違えると、葉が茂っても実が小さいようなことが起きる。畑や
天候、気象条件によっても違うので、経験がものをいう。「やっぱり経験だいね・・」と
名人の言葉に重みが出る。
十月末に葉が枯れてきたら収穫する。一年ものには生子(きご)が出るので、それは別
に保管する。芋と生子(きご)は、ハウスで一週間ほど乾かし、火棚と呼ばれる納屋に移
す。カゴの上に紙を敷き、その上に芋を並べる。ひとカゴ二十キロ以上にもなる。これを
多段に並べた納屋でひと冬中ストーブを焚く。五度以下になると芋が凍みてダメになるか
ら、旅行することも出来ない。
そして、五月に畑に植えて秋まで育て、やっと出荷になる。時間も手間もかかる。
嘉一さんは今、あかぎおおだまを栽培している。病気に強く、二年で出荷できる大きさ
に育つからだ。昔はスライスして乾燥させ、荒粉という状態で出荷したこともあったが、
今は生の芋で出荷している。
奥さんと娘さんが芋の根を取り、生子(種芋)を取り分ける。
二年ものを掘るには深く掘るため、奥さんが耕耘機に乗る。
この畑では一年ものと二年ものを栽培している。こんにゃくはすでに葉が黄色くなり、
倒れているものもある。葉を片付けてから芋を掘る。掘るのは、耕耘機につけた専用の掘
り機だ。嘉一さんが耕耘機を運転して一年ものを掘る。ゆっくり進む耕耘機の後に付けら
れたスキ状の刃が土に入り、浮いた芋を、刃の後の網がガタガタと掘り出す。自然に芋が
上に残るという優れものだ。
二年もののこんにゃく芋を掘るのは大変だ。芋が大きく育っているので掘り機の刃を深
く差し込まなければならない。耕耘機の頭部分になんとキクヱさんが立ち乗りする。
「これがねえ、おばあでねえとダメなんだいね・・」と嘉一さん。まるで曲乗りで、落ち
たら危険だが。キクヱさんは慣れたもの。「重さがちょうどいいんだいね・・」と笑う。
娘さんが「簡単そうに見えるんで、あたしも乗ったことがあるけど、落っこちたいね」
と笑いながら言う。夫婦の阿吽の呼吸があればこその作業。六十年一緒にやってきたから
こそ出来る夫婦の技だ。
二年ものは、掘り出した芋の生子(きご)を折って、芋の根を取り、芽を竹のへらでか
き取り、畑に広げて乾かす。芋は乾いたら南京袋に入れて、三十キロを計って出荷する。
嘉一さんはあちこちに畑を借りてこんにゃくを作っているので、十一月いっぱいこの作
業が続く。「腰が痛くってねえ・・大変なんだい・・」とつぶやく。
三田川で十人、両神で三十人ほどこんにゃく農家があるが、八十六歳の嘉一さんが頑張
っているので、同業者から「嘉一っつあんががんばってるんで、若いもんはまだまだ引退
出来ないやねえ・・」などと言われている。
昼のサイン音が鳴り、嘉一さんから「昼にすべえ!」と声がかかる。みんな腰を伸ばし
て、畑の中央に集まる。南京袋が座布団替わりに敷かれて、畑のまん中が食卓になった。
キクヱさんが昨夜から作った、この畑で採れた芋で作ったこんにゃくを煮たもの。大き
ないなり寿司や野菜の煮物、漬物がずらりと並ぶ。畑の中で豪華なお昼だ。
コンビニのお握りを食べながら、二人にいろいろ昔の話を聞いた。
畑のまん中で家族みんなで食べるお昼。ごちそうがズラリと並ぶ。
掘った芋と生子を一時乾燥するハウス。冬は専用の火棚で保管する。
嘉一さんは畑仕事が好きだった。そして、夢があった。満州に渡って、思う存分広い畑
を耕すことだった。大きな農業をやりたかった。周りの人に止められて満州に行くことは
なかったが、その思いは消えなかった。しかし、戦争の終わりに悲惨な引き揚げ者の姿を
見て「行かなくて良かった・・」と思った。
嘉一さんは十九歳の時に徴兵された。終戦の前の年だった。伊豆大島に六月に入った。
空襲が多かったが、その夏に戦争が終わり、無事に九月には帰ってきた。
キクヱさんは田ノ頭(たのかしら)の生まれで、八人兄弟の下から二番目だった。小さ
い頃は体が弱かったが、大きくなるに従って丈夫になった。
嘉一さんとは親戚で、従兄弟同士の間柄だった。親戚のおじさんが世話(紹介)してく
れて、一緒になることになった。「本当は大農家には行きたくなかったんだけどね・・」
と笑いながら、当時の本音をつぶやく。
物のない時代だった。キクヱさんは嫁入り道具のタンスがなかった。おじさんが杉の木
でタンスを作ってくれると言ってくれたが、何とか皆野で桐のタンスを見つけた。
おじさんが自転車で二回に分けてタンスを運んでくれた。きちんとした桐のタンスを嫁
入りに持参出来たのが嬉しかった。
新婚生活も貧しかった。日本全体が貧しかった。水道がなく、水は沢から竹の筒を地中
に埋めて送った。二百メートルもの距離を竹で送っていたが、時々モグラが竹筒を詰まら
せた。昭和二十九年に嘉一さんは水道を共同で作った。近所の三軒で鉄のパイプを使った
水道を自分たちで作った。これで生活は格段に便利になった。
やっとバスが走るようになった頃だった。長男が百日咳にかかってしまった。乳を飲み
ながら咳き込み、息も絶え絶えになる長男を背負い、毎日バスで飯田の近藤医院に通った
キクヱさん。「本当に死んじゃうんじゃないかって心配だったいねえ・・・」長男は幸い
なことに全快し、元気に育ってくれた。
「昔は、えら山の上の畑でこんにゃくを作ったんで、運ぶんが大変だった。ソリに乗せ
てロープを掛けてずり下ろすようなことをしたもんだった・・」一町歩もの畑を借りて、
こんにゃくを作った。畑で泥落としをする手間も惜しんで家に運んだ。家には専門に泥落
としをする人がいたほど、たくさんのこんにゃくを作った。
六十年二人でこんにゃくを作った。
「長いことやったから、腰が曲がっちゃったいねぇ・・」曲がったその腰は嘉一さんの
勲章だ。八十六歳にして現役。八十三歳の妻と今も畑に出て、二人で立派なこんにゃくを
作っている。その姿は、本当にすばらしい。
男一人、女三人の子供を育て上げた。大学にも出した。頑張ってこんにゃくを作ること
で子供を育てあげた。今では孫が九人、ひ孫が十人と大きな一族になった。
子供達も孫達もみんな、嘉一さんとキクヱさんとこんにゃくに感謝している。