山里の記憶
121
竹ホウキ:小指(こざす)竹茂さん
2013. 1. 17
絵をクリックすると大きく表示されます。ブラウザの【戻る】で戻ってください。
一月十七日、小鹿野町の両神小森に小指(こざす)竹茂さん(八十三歳)を訪ねた。竹
ホウキを作る名人がいると聞いて、昨年の夏に取材を申し込み、この日その取材が実現し
た。夏場に切る竹では良い竹ホウキが出来ないので、冬になるのを待ってくれという竹茂
さんの言葉だった。先週一度来て決めた日が大雪で、三日後の今日に順延した。
大雪が降った後なので、まだ山も畑も何もかもまっ白な朝だった。道以外の雪はまった
く溶けていない。日陰の道は凍っていて怖かった。
家の前に出ていた竹茂さんに挨拶をする。すぐに作業をしましょうという事になってい
ささかあわてる。先週一度来て話をしているので、主旨はわかってもらっている。生真面
目な竹茂さんはずんずんと作業を進め、取材はスムーズに進んだ。
家の前で作業することに決め、納屋から材料を持ち出す。材料となるのは、竹の柄と枝
が数種類。柄は一メートル三センチに切られている。枝は太く短い親竹と呼ばれる材料と
、ホウキの穂になる枝が長いものと短いもの。それぞれが束になっている。種類は孟宗竹
のみ。真竹もあるのだが、孟宗竹の方が腰があってホウキとして使うとき持ちがいい。
道具はペンチ、ドライバー、剪定バサミ。そして、針金三種類と太いビニールヒモ。ビ
ニールヒモは黒、赤、緑と三種類あるが、今日は赤を使う。
「お客さんにも好みがあるからねえ、何種類か使い分けるんだいね・・」とのこと。
納屋から作業場に材料を運ぶ竹茂さん。材料は孟宗竹の枝。
枝をひたすら差し込む、何段も何段も。これが立派な穂になる。
作業は竹の柄の本(もと)方向二十四センチの位置に親竹を六から七本、細い針金で止
めることから始まった。親竹は太く短い枝で、大きな節がある。その節が本の位置で揃う
ように、なおかつ等間隔になるように針金で結ぶ。
まず一番目の結びが二十センチの位置に結ばれた。その上四センチの位置にビニールヒ
モを三重に回し、イボ結びで結ぶ。これが二番目の結びになる。
穂となる長い枝を一番目の針金に差し込む。とにかくぎっしりと満遍なく全体に差し込
むことが大切。ドライバーですき間を作ってでも、強引に差し込む。竹の枝には右向きと
左向きがある。これを揃えると美しい仕上がりになる。
枝が入らなくなったら、穂先を思い切りヒモで縛って仮止めする。本(もと)から十六
センチの位置にビニールヒモを二重に巻き、きつく絞ってイボ結びで止める。この時、一
番目、二番目の結び目の位置を揃えて一直線にすると見映えが良くなる。これが三番目の
結びとなり、仮止めはここでほどく。
今度は二番目の結びに枝を差し込む。差し込む際に節が揃うようにすると、出来上がり
が美しくなる。ドライバーですき間を作りながら、びっしりと枝を差し込む。枝が入らな
くなったら、また穂先をまとめてヒモで縛って仮止めする。
三番目の結びから四センチ先の位置、本(もと)から二十センチの位置に柔らかい針金
を使って二重巻きして止める。これが四番目の結びとなり、仮止めをほどく。
今度は三番目のヒモに細い枝をすき間なく差し込む。ここでも、ドライバーを使ってす
き間を広げて枝を差し込む。節を揃えることが出来れば美しい仕上がりになる。枝を差し
込むのは最後になるので、ボリュームや腰を確認しながら、全体の形を整えるように枝を
差し込む。枝が入らなくなったら、穂先をヒモで縛って仮止めする。
仮止めをしてから、ドライバーで竹の目を揃える。「昔はこんなめんどうな事はしなか
ったもんだいね、今はこんだけ丁寧にやらないとね、見映えが大事だから・・」
「外国産が安いんでねえ、でも外国産のはすぐに抜けたりするから、注文がこっちに来る
んだいね・・・」話しながらも手はキビキビと動いている。
最後の結びは二箇所。硬く太い針金で、四番目の結びの四センチ先を二重巻きして止め
る。もう一箇所は、二番目のヒモと三番目のヒモの中間で二重巻きして止める。これで全
体の形が出来上がった。結び目は本(もと)に折り返し、全部直線に並ぶようにする。
仕上げに本の出っ張りを切り落とす。見違えるほどきれいになる。
私が苦戦している時、またたく間に二本目を仕上げた名人の技。
最後の仕上げ行程が二箇所。一つは固定のための釘打ち。四十五ミリの釘を二番目のヒ
モと六番目の針金の間に打つ。固定のポイントは親竹を打ち抜いて、柄に打ち込むこと。
こうすれば古くなっても緩んだり回ったり、抜けたりしない。
もう一つは本(もと)の不揃いな枝をきれいに切り揃えること。竹用の目の細かいノコ
ギリで一本ずつ出っ張った枝の本(もと)を切り落とす。刃が走って柄が傷つかないよう
に慎重にゆっくりとノコギリを引く。これで見た目がぐっと美しくなる。
「切りすぎて柄に傷が付くとみっともないから慎重にやるんだいね・・」と名人の言葉。
一通り見てから、メモを見ながら自分で作ってみることにした。竹茂さんが横からアド
バイスしてくれる。解らなかったのが「いぼ結び」。何度もやってもらったのだが、どう
も要領を得ない。これは後で自習しなくてはならない。
竹の枝を差し込むのに夢中になり、節がどうしても揃わない。節を揃えて美しいホウキ
を作るということがいかに難しいかよくわかった。
出来上がった竹ホウキは「初めてにしては上手く出来てるよ、売れるんじゃない・・」
と嬉しい言葉。もちろん売るつもりはなく、自分で使う。
苦労して作り上げたマイホウキ。名人にほめられてにっこり。
炬燵で昔の話を聞かせてもらった。苦労して三人の子供を育てた。
作業が一段落して炬燵に入ってお茶を頂く。竹茂さんにいろいろ昔の話を聞いた。小学
校の工作の時間に、出浦先生が竹ホウキの作り方を教えてくれたのが最初だった。でも、
いまの作り方と同じだったかどうかはっきり覚えていない。
本格的に作り始めたのは三十四歳の時だった。一日に五十本から八十本も作った事があ
った。年間で三千本もの竹ホウキを作って、あちこちに納品した。家には孟宗の竹林がた
くさんあり、毎年出荷していたから枝はいくらでもあった。
冬の間にホウキの材料になる枝を作って、一年分を貯蔵する。多いときは納屋を借りて
貯蔵したこともある。忙しく竹ホウキを作ったのは十年ほどだった。
その後はこんにゃく作りが忙しくなって、竹ホウキ作りはやらなくなった。こんにゃく
は荒川に畑を借りて大々的にやった。六十アールもの畑でこんにゃくを作った。持ち前の
研究熱心さで成績も良く、昭和四十四年には農林大臣賞を受賞して明治神宮に行ったほど
だった。こんにゃくは荒粉でも出したが、多くは生で出荷した。
一番多いときで八十五アールを奥さんと二人で耕した。しかし、猫もしゃくしもこんに
ゃくを作るようになり、値段が下がってしまった為、採算が合わなくなり結局止めた。
その後は小鹿野の製材所で二十年間働いた。木材の引き取りや、製材所内で製材の仕事
をしていた。
もともとおじいさんが東京の武井商店から持ってきた竹が最初だった。土地に合ったの
か、どんどん増えた。孟宗竹だったが、地の竹よりも筍が白くて柔らかかった。筍は飛ぶ
ように売れ、近隣の人々に請われるまま竹を分け与えたおじいさんだった。今では「野沢
の筍は旨い」と評判になるほど地域の名物になった。
思えば、おじいさんが竹茂という名前をつけたのは、自分が植えた竹を守り育てて欲し
いと名付けたのではないだろうか。道楽者のおじいさんだったが、何よりのものを残して
くれた。おじいさんの竹が生活を支えてくれた。
竹は田んぼのハザ用やカゴの材料として、多いときは年間何千本も出荷した。国体の国
旗用の竹竿を大量に出荷したこともある。長男の三一(みかず)さんはその竹竿にペンキ
を塗った事を憶えている。家族総出の仕事だった。
竹と筍と竹ホウキ、こんにゃく作りで子供三人を育てた。長女は若い時に秩父の矢尾百
貨店で働いていた。笑顔の明るい元気な娘だった。人気者で友の会の人数も一番だった。
結婚で辞めるとき、上司から本当に惜しまれたものだった。
長男は一緒に暮らしている。何でも頼りになる一家の大黒柱になってくれた。いい嫁に
も恵まれて幸せに暮らしている。
次男は足が速く、陸上選手だった。マラソン選手で一世を風靡した。あのメコネンと優
勝を争ったこともある。今は実業団陸上部の監督をしている、竹茂さん自慢の息子だ。
「ケガさえなかったらオリンピックに出られたんだ・・・」オリンピックの場で息子の
晴れ姿を見たかった・・今まで何度もくり返された父親のつぶやきだ。
「三人とも立派に育ってくれた・・・」親としてこれ以上のことはない。