山里の記憶123


芋の味噌田楽:清水親子(ちかこ)さん



2013. 2. 15



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 二月十五日、秩父市荒川の清水親子(ちかこ)さんを訪ねた。親子さんは滝沢ダムで沈
んだ塩沢耕地の出身で、むかしよく食べていたという中津川芋の味噌田楽を取材させてい
ただくことになっていた。親子さんの家は武州中川駅の近くにある。親子さんは家の外ま
で出て迎えてくれた。雪でも降りそうな寒い日だった。               
 お友達の原嶋さち子さんと一緒に、納屋にしつらえた簡易囲炉裏で串に刺した中津川芋
を焼いてくれるとのこと。さっそく納屋に入って準備してもらう。          
 納屋にある簡易囲炉裏は、親子さんのご主人が作ってくれたもの。大きな鉄製の鍋を下
に置き、しっかり固定させて中に砂利と砂を入れた。鍋の上にはうどんの伸し板を四角く
切り抜いてマッコ(囲炉裏の縁)を作った。幅広いマッコがとても具合がいい。    
 その簡易囲炉裏にはすでに炭が赤く熾きていて、部屋も暖かい。          

 中津川芋は親子さんが作ったものは小さくて串焼きに向かないため、友人から分けても
らったとのこと。すでに茹でてある。中津川芋は別名赤芋とも呼ばれるが、茹でるとその
赤色は消える。これまた友人が作ってくれた長い竹串に芋を刺す親子さん。      
「この串は芋用なんだいね。魚は四角でいいんだけど、芋は丸くしないと割れちゃうんだ
いね……」と言いながら、ゆっくりと三個の芋を刺す。急ぐと芋が割れる原因になる。 
「塩沢にいたときは、両親が毎年中津芋を作ってたんだいね。お店に卸すほど作っていた
んだよ……」「焼いてからの方が味噌がよくつくんだい……」と言いながら、囲炉裏の灰
に刺す。炭の周りに芋の柱が立ち上がる。                     

手作りの囲炉裏で味噌田楽芋を焼いてくれた。 友人のさち子さんとワイワイ言いながらの芋焼き。

 さち子さんがエゴマの種を見せてくれた。白い種を少しつまんで食べてみた。淡い香り
がするが、特にくせはない。エゴマは紫蘇科の一年草で、形も何もかも青紫蘇そっくりの
野菜だ。その種を乾燥させて煎るのだが、ゴマほどの油の香りはない。しかし、エゴマな
らではの風味があり、芋田楽にはゴマよりも合う味噌ができる。           
 エゴマはゴミが多いのできれいにするのが大変だ。きれいにしたエゴマ、カップ一杯を
四回に分けて煎った。「三つはねれば煎れてるんだいね……」冷ましてからすり鉢に入れ
、味噌、砂糖、酒を加えてよく擂(す)る。味を見ながら擂り、固い場合は酒を加える。

 刺した串の芋が焼けて乾いたら、エゴマの味噌を木べらで塗る。「お店なんかじゃあ、
壺に味噌を入れておいて、そこに突っ込むだけなんだけど、味噌が少ないから木べらで塗
るんだいね……」これもゆっくりと均一に木べらで味噌を塗る。           
 味噌を塗り終わった串から順番に、燃えている炭の周りに刺してゆく。味噌を塗った芋
の串が炭火を囲むように立ち上がった。何だか急に豊かな気分になるのが不思議だ。  
 あとは焼けるのを待つだけだが、炭火で均一に焼けるには時間がかかる。まだ、味噌が
焼けた香りは全然立ってこない。でも、出来上がって食べるときの味はよくわかる。  

 芋が焼けるまでの間に、親子さんに塩沢にいた頃の話を聞いた。親子さんの父は山仕事
の元締めのような事をやっていた。大勢の人を使って、伐採や木出しや炭焼きなどの仕事
をしていた。気骨のある人で、軍隊で八年くらい過ごし、軍曹にまでなった人だった。 
 その父が軍隊に行く前に、生まれる前の親子さんの名前をつけてくれた。      
「親子(ちかこ)って名前は好きだいね。ひとりでも親子(おやこ)だい、いい名前をも
らったいねえ……」と笑う。                           
「弟が嘉親(よしちか)だから、親っていう字は決めてたのかもしんないね……」と、横
にいたさち子さんが言う。                            

 母は小さい人だったが、人一倍の働き者で、とても大きく見える人だった。小学生にな
った親子さんが本を読んでいたりすると「女が勉強なんかすることねえ…」と本を取り上
げたりする人だった。その本は、父が秩父で集金の時にお土産で買ってきてくれた少女ブ
ックだったり、少女画報だった。いろいろな付録がついていて、みんなと楽しんだものだ
った。母は厳しく、父は優しかった。                       
 子ども時代の親子さんに大きな衝撃を与えたのが、同じ耕地で暮らしていた友達のお母
さんだった。年に何度かやってくるそのお母さんは、アメリカ人のメイドをやっていた人
だった。都会の服装やお菓子、英語の歌、水着姿などなど、少女だった親子さんに都会を
強烈に意識させた人だった。親子さんは、東京への憧れを強く持つ少女に育った。   

 ダム測量を請け負った測量会社の出張所が近くに出来た。中学を出てその会社の食堂で
働くようになった。二年その出張所で働いた。測量の仕事が終わると出張所は閉鎖される
ことになっていた。次は横須賀に行くという。親子さんは頼まれて横須賀に行くことにな
った。都会を夢見る乙女にとって、渡りに船の申し出だった。おばあちゃんに泣かれたが
都会大好き乙女の決意は変わらなかった。                     
 横須賀では、追浜に会社がアパートを借りて女子寮にしてくれた。一人だけの生活が始
まった。必死で働いた親子さん。何もかもが楽しかった。忘年会を横浜の「黒百合」とい
うキャバレーで開いたことがあった。踊り子やバンド、華やかなステージ、何もかもが新
鮮で、刺激的で楽しかった。                           
 ある日、塩沢に帰ってきた親子さんの姿。大きな帽子をかぶり、紫色の鮮やかなワンピ
ース、白いバックに赤いハイヒールという孫の姿におばあちゃんはびっくりした。   
「だって、しかたないよねぇ、横浜や東京を通って帰ってくるんだから…」と笑う。  
 その後、横須賀に帰って働いていた親子さんに父から連絡が来た。         
「おばあちゃんがケガをしたから早く帰って来い!」                
 急いで帰って来た親子さんが見たのは、指の先をケガしたおばあちゃんの姿だった。 
 その後、二度と横須賀に行くことは許されなかった。               

 縁があって今のご主人と結婚し、荒川のこの地に新居を構えた親子さんだったが、塩沢
の実家ではとんでもない事態が起きていた。                    
 滝沢ダムの反対運動だ。父親が絶対反対同盟会の副会長になり、反対運動の先頭に立っ
たのだ。生まれ育った故郷がなくなる。その衝撃は大きかった。反対運動はその後二十三
年間という長きに渡って繰り広げられることになった。               

大変な人生をコロコロ笑いながら語ってくれた親子さん。 埼玉県知事からお父さんに送られた額。

 平成四年の十月、反対同盟会会長の意でダム建設側に同意し、水資源公団と調印した時
父は八十四歳を過ぎようとしていた。その時に詠んだ句が知事の琴線にふれ、記念碑とし
て残されることになった。記念碑の文は以下の通り。                
 我が想                                    
『 文化文政の頃より 生まれ育った 我が故郷 後に残して出て 我が心かなしき 』
                     平成四年十一月十日 八十四歳 山中高雄

 父母と一緒に暮らすようになった親子さん。ずっと通って介護してきた延長だった。こ
の地区の七軒は絶対反対同盟会の最後の七軒が集まっている。塩沢にあった墓地も、ここ
で共同墓地になっている。最後まで闘った仲間がずっと一緒に暮らしている。     
 父は九十歳まで、母は九十八歳まで生きた。親子さんの六十代は二人を介護する日々だ
った。親子さんは「最後まで介護出来たんで良かったいね。主人が一緒に介護してくれた
んが本当にありがたかったし、嬉しかった……」と控えめに語る。          
 ご主人の誠定(のぶさだ)さん(八十歳)は「オレはとてもお前のようには出来ねえ」
と言ってくれた。親子さんにとって最高のほめ言葉だった。             

塩沢の実家。ダムの底に沈んでしまった。 蕎麦がよく採れたこの畑もダムの底に沈んでしまった。

 親子さんが平成六年に書いた「ふる里の思い出」という文章の最後をここに転載する。
…………                                    
 塩沢、滝の沢、浜平地区の百戸以上の人々が去った後、山々に機械の音がなり、発破の
音が炸裂し、他所から来たたくましい男達の手で雄大なダムが築き上げられ、青々とした
水が満々とたまり、都会の人達の生命の源となるのです。三地区の人々が去った村には滝
沢ダムが観光の目玉となり、大滝村を繁栄させてくれるでしょう。          
 私達故郷を亡くしてしまう人々は、湖底に沈んだ村の事を胸に奥深くしのぶでしょう。
人々は時代の川の中で流れ、他所の土地に慣れてしまい、塩沢で暮らした事など知らぬ振
りして……いや或る日以前の村人と出逢った時に思い出の花が咲くのでしょう。