山里の記憶126


日窒鉱山の暮らし:品川 正さん



2013. 2. 3



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 二月三日、下小鹿野の品川正さん(七十三歳)を訪ねた。正さんは日窒鉱山で生まれて
育ち、鉱山に就職して三十三歳で山を下りるまで鉱山で働いていた。日窒鉱山の事につい
ては詳しく知っている人だ。今日は、日窒鉱山での暮らしについて聞くのが目的だった。

 正さんが生まれたのは昭和十五年の一月だった。父は、鉱山が柳瀬商工と呼ばれていた
時代から鉱山で働いていた。食堂や風呂の薪作りや炭焼きが仕事だった。       
 母は群馬の中里村の出身で、八丁峠を越えて嫁に来た。結婚前は製糸工場で仕事をして
いたが、鉱山に来てからは畑仕事や薪作り、鉱山の土方仕事などをしていた。     
 鉱山には歯医者、内科、外科の病院はあったが、産院はなかった。お風呂屋のおばさん
と相川さんの二人のお産婆さんがいた。                      
 正さんが生まれる五年前、鉱山に学校が出来ていた。大滝村立小倉沢小中学校だ。鉱山
の本格的な操業が始まり、徐々に人が増えていた。正さんが生まれた昭和十五年には秩父
鉱山が本格営業に移行した。正さんはまさに鉱山の隆盛と共に鉱山で成長していった。 

 子供時代は畑仕事の手伝いをさせられた。小さい畑が何カ所か山の中にあり、父は肥料
運びなどを厳しく手伝わせた。父の手伝いで山から薪を運んだり、子供ながらに忙しく、
遊ぶ暇はなかった。夏休みなどは父から「今日はあそこの畑に馬カゴで牛糞を三回運べ」
とか草むしりを言いつけられた。正さんは言う「日曜や夏休みは親父がうるさくて、あん
まり好きじゃあなかった……」                          
 土木工事が多かった鉱山では、工事用の石拾いがいいアルバイトだった。川で砂利を拾
い、専用の箱型の背負子で運び、家毎に決められた箱に溜める。一立方メートルの箱いっ
ぱいになると会社が運んで行き、後でお金が支払われた。正さんは母と一緒に時間があれ
ば砂利運びをした。                               

最盛期には四百人以上の生徒がいた大滝村立小倉沢小中学校。 会社と学校の合同運動会が秋の一大イベントだった。

 昭和二十七年三月、正さんが六年生の時だった。学校が火事で焼けた。木造校舎はあっ
という間に火が回り、焼け落ちてしまった。別棟の中学校の校舎は無事だった。    
 その後建てられた小学校の校舎は二階建てで瀟洒な建物だった。大滝村立小倉沢小中学
校は鉱山の最盛期には四百人を超える生徒が通っていた。              
 小学校は中津分校という形だったが、中学校は違った。中津川の中学生は尾根を二つ越
え、一時間から二時間かけてこの山奥の小倉沢中学校に通った。中学校として立派な施設
や先生がいたからだ。                              

 中学に上がった正さん。アルバイトをする日々だった。鉱山には個人のお店もあった。
駄菓子屋や果物や魚を扱っている商店のような店だが、多くは鉱山で働く人の奥さんがや
っていた店だった。そんなお店に荷物を運ぶアルバイトだった。           
 索道の停車場から頼まれた荷物を担いで店まで運ぶ。何でも運んだ。重さでお金になっ
た。一貫目で三円だった。中学生にとっては貴重な現金収入で、授業を終えたらすぐにア
ルバイトに向かったものだった。                         
 新聞配達のアルバイトもやっていた。新聞は索道で毎日運ばれてきた。三人で配達する
のだが、正さんの担当は五十軒から六十軒あった。ルートは本抗から大黒抗で、ルート沿
いに配達する新聞の種類を並べた。読売、毎日、朝日の各新聞をどの家に配るかを全部記
憶して、回る順番にまず並べてから歩き出した。山の中で高低差があるので結構大変なア
ルバイトだった。放課後の仕事で、鉱山では新聞は夕方に配達されるものだった。   
 日曜日は索道が休みで、新聞は西武バスで出合いまで運ばれた。だから、日曜日は出合
いまで歩いて新聞を取りに行かなければならず大変だった。             

 十月の楽しみは運動会だった。小中学校と会社の合同運動会が華やかに開催された。鉱
山の最盛期には三千人を超える人がいた。運動会はみんなの娯楽でもあった。     
 会場は学校の校庭で、生徒たちは運動会の前は朝礼の後全員で校庭の石拾いをした。当
時は素足で各種競技を行っていたので足を保護するため、運動会の前々日には校庭におが
くずを撒いたものだった。準備万端で当日を迎えるのが常だった。          
 運動会の写真を正さんが見せてくれた。すごい人の数だった。           
「学校と会社の合同だったから、すげえ数の人だったいなあ……」          
「この写真はフォークダンスだいねえ、オクラホマミキサーって言ったっけか……」  
「女の子と手をつなげるんがドキドキしたもんだいね……」どこの中学生も同じだった。

社宅は、六畳と三畳の和室と板の間で、土間と囲炉裏があった。 下の山から竹を採ってきて、七夕飾りを盛大につけた。

 鉱山には竹がなかった。鉱山の七夕は八月七日、旧暦の七夕だ。夏休みには毎朝ラジオ
体操をしていた。七夕の前の日、ラジオ体操の後で中津に山を越えて竹を取りに行ったこ
とがある。尾根を越えたところに竹林があって、そこの竹を伐って持ち帰り、みんなで竹
飾りを作った。後には索道で竹が運ばれた。その後、鉱山に竹を植えた人もいた。   
 中学時代、正さんは野球が好きだった。病院の先生がコーチで教えてくれたし、鉱員の
中で野球をやっていた人が教えてくれたりもした。校庭が狭くて野球をするのにいろいろ
工夫した。打球が川を越えたらホームランとか、フェンスと川の間が二塁打とかゲームの
野球盤のようにルールが出来ていた。試合の時は対岸にあらかじめ人を配してやった。 
 学校では学年別で試合をした。中学三年の時初めて対外試合をした。日曜日だったので
正さんは畑に肥やしを運んだ後だった。カゴなどの荷物を置いて、河原で着替えてすぐに
試合をした。試合の後は、また河原で着替えてそのまま畑に向かった。試合の結果よりも
、河原で着替えたことをよく覚えている。                     
 中学三年の修学旅行は江ノ島と鎌倉だった。朝の三時に歩き出し、八丁峠を越えて坂本
に出た。そこからバスに乗ったのだが、日向と日陰の間の木橋がバスが重いと通れないと
いうことで、全員下りて歩かされたのをよく覚えている。              
 江ノ島へは当時は歩いて渡った。江ノ島に行ったときに、第五福竜丸の久保山無線長が
亡くなったというニュースが流れたことをよく覚えている。             
 中学卒業の昭和三十年四月一日に日窒鉱業(株)秩父鉱業所に入社した正さん。配属は
探査係だった。鉱山では十八歳になるまで坑内に入ることが許されず、外で地質調査や電
磁探査の仕事をしていた。昼夜二交替の勤務は覚えることがいっぱいで楽しかった。  

 五月十五日は鉱山中がにぎやかになるお祭りの日だ。山神祭(さんじんさい)という山
の神のお祭りで、有名人を呼ぶ歌謡ショーがハイライトだった。歌手の大津美子や三浦洸
一、藤島桓夫(ふじしまたけお)、漫談の牧伸二などが来たことがある。       
 この時ばかりは秩父、大滝、群馬などから人が集まり、お風呂などはイモを洗うような
賑やかさだった。一応鉱山の会社内での催事であったが、関係者の親戚ということで多く
の人が芸能人見たさに山奥に集まった。とにかくにぎやかで華やかな一日だった。   
 山の神は鉱山の上手にあった。小さな社(やしろ)だが、鉱山にとっては大事な神様だ
った。いつからか隣にお稲荷さんがまつられていた。どこからか来た人がまつったものの
ようだが、今はもう一つの社も建っていて、三柱の神様がまつられている。      
 神社の前庭で酒盛りが行われるのだが、この前庭は弓道場としても使われていた。神社
の右横に弓道場があり、山側に向かって矢を射った。正さんの写真にも弓を構える男たち
の姿が写っている。前庭の川側斜面には巨大な栃の木が覆い被さるように立っていた。 
 集会場では毎週日曜日に映画が上映されていた。秩父の昭和館で上映された映画が次の
クールとしてここで上映された。                         
 毎年十二月には山からモミの木を伐り出し、集会場の中央に据え付けた。電飾や飾り物
でクリスマスツリーを作り、ダンスパーティーが開かれた。雪でぬかるんだ道を着飾った
女性たちが長靴で、手にハイヒールを持って会場に集まってきた。          
 山奧だけど、ここは都会だった。                        

共同炊事場が川沿いに建てられていた。家の煮炊きは囲炉裏でやった。 道路沿いに掲示板が立てられていて、様々な告知が行われた。

 二十六歳になった正さんは縁があって守子さんと結婚することになった。大滝の大輪出
身の守子さん二十五歳の時だった。当時、母親と二人暮らしだった正さん。新妻を社宅に
迎え入れた。守子さんが言う「一時間半かけてバスで行ったんだい。山の中だったけど、
想像も出来ない、かけ離れた世界だったいね……」                 
 ふたりの鉱山での生活が始まった。子供は男の子二人に恵まれた。そのままずっと続く
かと思われた鉱山での生活だったが、時代がそれを許さなかった。          
 昭和四十八年、日窒鉱業は秩父事業所の子会社化に踏み切り、鉱山の生産は極端に縮小
された。正さんと守子さんが鉱山を去ることを決めた年だった。