山里の記憶
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吊るし柿作り:田じまヨネ子さん
2007. 11. 13
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11月の晴れた日、小鹿野の田じま(こざとへんに鳥)ヨネ子さん宅に伺った。柿の
実が熟す前に採って、「吊るし柿」を作るという事だったので、その様子を取材させて
もらう為だった。家からちょっと離れたところに田んぼがあり、柿の木はその田んぼに
植えてあった。19年ものの蜂矢(はちや)だそうだ。俗に桃栗3年柿8年といい、柿
の木は実が成るようになるまでが他の果樹に比べて長い期間が必要だ。また、実の成る
年と成らない年があり、毎年収穫できるというものでもない。今年は期待していなかっ
たのだが、良い成りだったという。
去年は裏作で、柿に限らず実ものはほとんど成らなかった。そういう年は山の木の実
も成らないので、猿や熊が里まで出てくることが多い。今年は今のところ昨年ほどの被
害は出ていないようだ。昔は成った柿をどこの家でも吊るし柿に加工して軒先に干した
もので、この地方の冬の風物詩でもあった。しかし最近は人手が無いせいか、柿の実を
そのまま放置する家が多くなった。晩秋の山里に実る赤い柿の実。風景としては美しい
のだが、山の動物が里に出てくるのは、こうした柿の実を求めてのことが多い。また、
樹上で完熟した柿は野鳥の大好物であり、動物や野鳥にしてみれば飽食の現代人に大感
謝というところだろうか。
大きな渋柿「蜂矢」、甘くて美味しい干し柿になる。
柿を採るヨネ子さん。木が小さいので楽に採ることができる。
田んぼの畦の柿の木は19年ものとはいえまだ小さく、手が届く範囲に実が成ってい
て、柿採りは楽なものだった。昔は木に登り、長い竹竿を駆使して1日仕事で柿を採っ
たものだった。長い竹竿の先は二股になっていて、その先で器用に柿の付いた枝を折り
、落とさないように地上に運ぶのが難しい技だった。上手く挟めないと柿は地上に落下
し、穴が空いたり割れたりした。上手に柿が取れると誉められたものだった。
柿の木は意外に折れやすいので体の軽い子供が主に登って柿採りをさせられた。木の
上で枝が折れ地上に落下したり、落下しそうになった経験は誰でも持っていた。枝の上
で精いっぱい体を伸ばして柿を採るのだから仕方ないことでもあった。今では大きな柿
の木の実を苦労して採る人は少なくなった。年寄りには危険だし、手間も時間もかかる
。冬が暖かくなった事で、干し柿が昔のように出来なくなった事も影響している。
柿の実は全部採りきらず必ず何個か残す。ヨネ子さんは言う「昔から【木守り】(き
まもり)って言って、いくつか残しておくんだいねぇ。全部採っちゃあいけないんだい
ね・・・」自然の恵みを収穫し感謝するとともに、動物たちへの配慮で実を残すことを
【木守り】(きまもり)という言葉で表現する。最後に残った柿を採ろうとして木から
落ちたりする事故を防ぐ意味もあったのかもしれない。むかし、雪が降った朝に熟れた
柿の実をついばむヒヨドリやスズメが集まって、ピーヨピーヨとにぎやかだった事も思
いだした。真っ白な雪を冠した赤い柿の実が青空に映えてきれいだった。
採ってきた柿は枝をTの字に剪定し、ヘタをむしり取り、皮をむく。昔は専用のピュ
ーラ−(皮むき器)があって、それを使っていたが、ヨネ子さんは包丁でむく。私も一
緒に包丁で皮をむく。リンゴの皮をむく要領で次々に皮をむいていく。皮むきをしなが
らヨネ子さんと昔話に花を咲かす。若い頃の話や苦労した話などなど。日当たりの良い
玄関先で作業しているとポカポカと温かく、眠気を誘ってくるが、ヨネ子さんの昔話が
楽しくて時間を忘れた。目の前には皮をむいた白い柿がどんどん山になっていった。
ここでヨネ子さんにちょっとしたアクシデントが発生。包丁の角で指を傷つけてしま
ったのだ。ヨネ子さんが独り言のように言う。「刃物を使うときにはナムアミダブツを
3回唱えてから頂くんだったいねえ・・・うっかり忘れちゃったいねぇ、まったくうっ
かりだいねぇ・・」指にカットバンを貼りながらつぶやいていた。
小さな柿の木2本でバケツ4個の柿が採れた。大豊作!。
皮をむいた白く艶やかな実が山積みになっていく。
秩父音頭の歌詞に「秋蚕(あきご)しもうて麦まき終えて、秩父夜祭り待つばかり」
と歌われているように、秋蚕が終わり、麦まきを終えて、吊るし柿作りが終わるとお祭
りが楽しみだったという。秩父には沢山のお祭りがあるが、中でも大きいのが【秩父夜
祭り】。昔は小鹿野から歩いて出かけたという。それが終わると飯田の八幡様。別名【
鉄砲祭り】とも言われる勇壮なお祭りも歩いて見に行った。昔は今よりずいぶん寒かっ
た。夜祭りの時などは足が凍るのではないかというくらい寒かった。今は昔と比べてず
いぶん暖かい。お祭りを見に行くのは楽だが、干し柿などは良いものが出来なくなった
。暖かくて腐ってしまうものが多くなった。干し柿作りは寒い方がいい。
足元のバケツにむいた柿の皮がどんどん溜まっていく。昔はこの柿の皮を干して食べ
たものだった。ほんのり甘い干し皮は子供達のいいおやつだった。干したサツマイモや
柿の皮は貴重な甘いおやつで、誰のポケットにも入っていたような気がする。ヨネ子さ
んのお姉さんは甘味料として大根を漬ける時に一緒に干した柿皮を漬けていたそうだ。
昔の人は何でも利用したとも言えるが、考えてみると果物の栄養分は皮に多く含まれて
いて、特に赤い色素のベータカロテンは皮に多い。皮を食べるのはとても理にかなって
いる行為なのだが、今は干す場所も手間も無くなり、柿の皮は捨てられるだけの存在に
なっている。
皮をむいた柿は60センチくらいのビニールヒモの両端に結びつける。昔は庭のシュ
ロの葉を細く裂いてひも状にしたもので縛ったものだが、今は丈夫で簡単なビニールヒ
モを使う。柄が取れてしまった柿は棒を刺してそこに結びつけるか、針で糸を通すよう
にヒモを通して吊す。同じような大きさの柿を揃えないと吊した時にバランスが悪い。
今年の柿は出来が良く大きい。手の感覚で重さを揃えながら全ての柿を2個ずつ結ぶ。
この段階でカビ予防の為に熱湯に10秒くらい浸すという地方もあるが、秩父では熱湯
に浸けることは無かった。それだけ秩父の冬は寒かったという事だと思うが、今後は熱
湯に浸けてから吊す人が多くなるかもしれない。
むいた柿の実はビニールヒモで2個ずつ結ぶ。
雨が当たらず、風通しの良い場所に吊る。
私の家の渋柿には蜂矢(はちや)と鶴の子(つるのこ)があった。蜂矢は大きいので
二個をヒモで結んで振り分けのように竿に掛けて吊した。鶴の子は蜂矢より小さいので
、縄の目に柄を差し込んで1メートルくらいの長さで振り分けで吊した。どちらも11
月末から家の軒先に吊され、寒風にさらされ、12月中旬から乾燥具合を見ながら屋内
に移される。屋内で熟成と乾燥を進ませると、正月ころには表面に白い粉(こ)を吹い
て美味しい干し柿になった。するめや餅などと並んで正月の氏神様のお供えに欠かせな
い山里の恵みだった。おやつやつまみや料理の甘味として利用された。もちろんお土産
としても価値の高いものだった。
ヨネ子さんは柿を納屋と母屋の間の軒下に吊す。昔は納屋の日の当たる正面に吊した
のだが、猿やヒヨドリに食べられてしまう事が多くなったので、日陰だが風通しの良い
この場所に変えた。昔のように動物が遠慮しなくなったので、干し柿作りも大変なのだ
。振り分けにして吊してあるので、ヒヨドリが一つを食べるともう一つは反対側にずり
落ちてしまい、両方ダメになる。納屋と母屋の間だったら鳥も猿も入ってこない。
正月頃までに出来上がった干し柿は楽しみに待っている親戚に送る。柔らかくてほん
のり甘い干し柿はとても喜ばれるそうだ。干し柿にすると、カロテンは2倍になるそう
で、食物繊維が豊富ということもあり、すぐれた健康食品として注目されている。今、
小鹿野町では半乾燥の干し柿として「アンポ柿」作りを農協などでは主導している。室
内の扇風機で乾燥する干し柿なので、気候・天候に関係なく商品が作れるメリットがあ
る。昔ながらの吊るし柿は徐々に少なくなってきている。
山里の風景として民家の軒先に吊るし柿がある景色は郷愁をさそう。冬の到来を前に
最後の紅葉の山々を背景に、しゃくし菜を採り、吊るし柿を吊る光景は秩父の風物詩と
も言える景色だった。どの家でもやっていた。そんな風景が少なくなりつつあるのを寂
しく思うのは、外の人間の勝手な思いこみだ。でも、子供の頃、皮をむきながら熟した
部分をかじったあの味や、出来上がる前の柔らかい干し柿を盗み食いしたあの味は今も
忘れることができない。