山里の記憶134


ナスの油味噌:千島皆子さん



2013. 8. 22



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 八月二十二日、秩父市の久那にナスの取材で行った。取材させて頂いたのは千島皆子
さん(七十五歳)で、ナスの油味噌ほか、様々なナス料理を取材することができた。 
 曇っていたのだが、蒸し暑い日だった。家に伺って、紹介していただいた友人の清水
さんを交えて、昔の話をいろいろ聞いた。                    
 皆子さんは大滝の浜平耕地で生まれて育った。子供の頃から元気な子だった。当時は
子供がたくさんいて、小学校は歩いて一時間、中学校は歩いて一時間半の距離だった。
 車などない時代で、子供でもみんな普通に何時間も歩いたものだった。      
 浜平は河原が広くてきれいだった。夏休みなどは、毎日みんな河原で遊んだものだっ
た。危なくない淵があって、水遊びもした。浜平のお祭りも良かった。       
「あの頃は本当に楽しかった…」と皆子さんと清水さんが顔を見合わせながら言う。 

 今日はナスの油味噌の取材に来たので、そろそろ、そちらに話題を振ると、すぐに畑
に行こうと言う。裏の畑でご主人が待っているとのこと。急いで畑に向かう。    
 畑で野菜の手入れをしていたご主人の章さん(七十九歳)に挨拶をする。几帳面だと
いう章さんが手入れしている畑はとてもきれいな畑だった。            
 百日草が豪華に咲きみだれ、たくさんの夏野菜が実っていた。ナスは言うに及ばず、
シシトウ、キュウリ、トウモロコシ、カボチャ、青唐辛子、モロヘイヤ、オクラ、キウ
イフルーツなどなど。丹精込められた野菜や果物が実っていた。          
 作業小屋は章さんが手作りしたもの。きちんと農具が整理整頓されている。小屋の横
には大きな栃の木が二本あって、実がたくさんなっていた。            
 ナスを持ちきれないほど収穫して、青唐辛子(シシトウ?)も収穫して家に帰る。 

畑でナスを収穫する皆子さん。畑は几帳面な章さんがやっている。 この作業小屋は章さんの手作り。道具も整理整頓されている。

 皆子さんが、昔から夏に作っていたというナスの油味噌。「自己流だから…」と謙遜
するのだが、その作り方は鮮やかなものだった。                 
「あたしはおおざっぱなんで、切るのも味付けも適当なんだいね…」と言いながら、ナ
ス五本を洗ってヘタを取り、包丁でサクサクと切る。「青唐辛子も入れるといいんだい
ね…」と言いながら七本の青唐辛子(シシトウ?)も洗って、切らないで加える。  
 フライパンに油を大さじ二杯ほど入れて、強火でナスと青唐辛子を炒める。ジャーっ
と音が立つ。しばらく炒めていて「水を少し入れてナスを柔らかくするんだいね…」と
言いながらヤカンの水を少し加えてフタをする。火は中火にする。三分ほどそのまま置
き、ナスの固さを見る。固ければもう少し煮る。                 
 調味料と出汁の素を加える。味噌と砂糖は大さじ三杯より多いくらい。      
「味付けは目見当なんだいね…、父さんが甘いのが好きなんで、甘めだいね…」   
 出汁の素は小袋で二つ加える。火は中火のまま炒め回す。台所にいい匂いが広がる。
「出来たね…」フライパンの油味噌を皿に盛る。旨そうだ……、写真を撮る。    
 皆子さんが、付け合わせにとナスとキュウリの自家製ぬか漬けを出して切っている。
ぬか漬けのナスが何とも言えないきれいな青色だった。旨そうだ。これも写真を撮る。

ナスを切って炒める皆子さん。料理はいたってシンプルだ。 味付けの主役は味噌と砂糖。味噌はこれだけ加える。

 ナスの油味噌は、夏に欠かせない料理だった。私の家でもよく作った。甘辛い味付け
と、柔らかいナスが、ご飯によく合い、何杯でも食べられた。           
 出来上がったナスの油味噌をテーブルに運んでさっそく食べる。皆子さんの料理はご
主人が甘党なので、味付けが少し甘い。それがまた後をひく。鶏肉を使った混ぜご飯と
一緒にバクバクと食べてしまった。ナスのぬか漬けも、じつにサッパリしておいしい。
 友人の清水さんがナスの餡かけ煮を作って来てくれた。これもおいしい料理だった。

「サッパリした料理っていうなら、焼きナスだいね…」といいながら、皆子さんが台所
でナスを焼きはじめた。網でしっかり焼くと、ナスから湯気が噴き出してくる。   
 全体が焼けたところで、水道の水を流しながら手で皮をむく。よく焼けているとスル
リと皮がむける。皮を全部むいて、包丁で切り目を入れれば出来上がり。これに生姜醤
油をかけて食べた。温かくてサッパリしていてじつに旨かった。          
 料理の話としては、ナスの天ぷら、ナスのゴマよごし、ナスの浅漬け、揚げナスの煮
物などの話を聞いた。皆子さんが一番好きなのは、ナスを揚げて甘辛の醤油だれでから
めながら煮るナスの揚げ煮だという。                      

ナスの油味噌の出来上がり。甘辛さがご飯によく合う。 部屋には、狩猟をやっていた章さんが獲った鹿の剥製がある。

 いっぱい食べて苦しくなったおなかを抱えて、皆子さんと章さんに昔の話を聞いた。
 章さんは中学を卒業して、すぐに営林署の仕事をしていた。大滑(おおなめ)沢の飯
場で働いていた。その頃は大滑沢だけで百人以上の人が働いていた。忙しいときは静岡
方面から助っ人がたくさん来ていた。天然林の伐採と運び出し、杉、桧木の植栽、下刈
りなどをやっていた。請負業者もたくさんいて、とてもにぎやかな現場だった。   
 飯場も公会堂のようにしっかりした建物で、ヒノキのお風呂があった。三十人くらい
の人が寝泊まりすることができた。章さんも山泊まりすることが多かった。手先の器用
な章さんは、山泊まりの暇な時間にカンスゲでスカリを作ったりしていた。     

 章さんが二十四歳の時だった。その飯場に飯炊きの仕事で来たのが皆子さんや清水さ
んたち三人娘だった。三人は二十歳の若さで、山奥の飯場では光り輝いていた。   
 この時に章さんは皆子さんを見初め、その年に結婚が決まった。         
 皆子さんは浜平から、章さんのいる塩沢の家に嫁いだ。そこは清水さんなど、友人が
たくさんいる耕地だったので、皆子さんも嬉しかった。              

 皆子さんは二十一歳の時に長男、二十四歳の時に長女に恵まれた。子供達を育てるの
に必死だった。子供を学校に出すため、三十歳から外の会社に働きに出た。     
 その会社は松倉産業といい、荒川の上田野にあった。皆子さんは、塩沢から上田野ま
で三十三年間通った。手袋工場では検査の仕事をした。サッシ工場では束ねるなどの作
業を行った。社員でフルタイムで働いた三十三年だった。             
 途中、家を新しく建てたり、ダムの反対運動に翻弄されたりと、大変な事も多かった
が、六十三歳まで会社を勤め上げた。                      
 しかし、長男を事故で二十七歳という若さで亡くしたのが悔やまれてならない。今で
も長男のことを考えると胸が痛む。大学を出て技術者になった、りっぱな長男だった。
 長女は川越に嫁いで、元気でやっている。                   

 家のあった塩沢耕地は滝沢ダムの水没地区だった。皆子さんが二十歳の時にダム建設
の話が出て、それから二十三年間の反対運動が続いた。塩沢耕地全体が揺れ動いた二十
三年間だった。様々なことがあった。あまり思い出したくないこともあった。    
 紆余曲折があり、久那に家を求めて出てきたのが平成二年のことだった。章さんはこ
こから大滑の現場にジープで二年通った。                    
 章さんの弁当は毎日、皆子さんが作っていた。営林署の仕事は体力仕事なので、ご飯
をたっぷり詰めた。おかずは塩イカや塩マスなどのしょっぱいものをメインに、味噌漬
けなどが多かった。梅干しも必ず入れた。                    
 章さんは黙々と働いた。昭和三十八年頃から木材自由化の影響が出始め、山仕事をや
っていた人たちの多くは林道工事の仕事や、砂防堰堤工事の仕事、道路工事の仕事をす
るようになっていった。トラックの運転手になった人も多かった。         
 章さんは幸い、職員として採用され、国家公務員になっていたので、他の仕事に回る
ことはなかった。営林署で働き、狩猟をたしなみ、黙々と山で生きてきた。     

 三年前から皆子さんは腎臓を患い、二日に一回透析に通っている。透析は四時間くら
いかかり、その日は一日だるくて動けなくなる。それでも夕方には起き出して、夕飯の
支度をする。自分の体の調子を、自分で判断しながら日々を過ごしている。少しずつ何
でも食べるのが調子を維持する秘訣だと言って笑った。              
 五年前に金婚式だった。久那に越してバタバタしていたので、市のお祝いには申し込
まなかった。式に出ることよりも、二人で静かに祝った。             
 手先が器用でいっこくな章さんが、手塩にかけた畑で作る野菜を、料理して食べるこ
とが毎日の楽しみだ。章さんは、ナスの料理では油味噌と天ぷらが好きだという。  
「酢の物はあんまりすきじゃねぇんだぃ…」という章さんに「あたしは大好きさぁ…」
と皆子さんが答えた。