山里の記憶
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小豆すくい:坂本初枝さん
2013. 10. 8
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十月八日、定峰の峠の茶屋に行った。訪ねたのは坂本初枝さん(八十歳)で、初枝さん
が茶屋で出している「小豆すくい」を取材する為だった。
台風の影響か、季節外れに暑い日で、高層のウロコ雲と低層のわた雲が違う方向に違う
スピードで動いている。平日の定峰峠は車も少なく、しばし周囲の景色を楽しんだ。
茶屋は初枝さんとお嫁さんの晴美さん(五十五歳)の二人でやっている。手打ちうどん
と小豆すくいが茶屋を訪れる人を待っている。
毎日、初枝さんは手打ちうどんを自分で打つ。前日こねて一晩寝かせた生地を家から運
び、ここの厨房で手打ちうどんにする。小豆すくいはうどんを打つときに一緒に作る。
小豆すくいとは何か。秩父には小豆ぼうとうという郷土料理がある。これをアレンジし
て若い人たちにも食べてもらおうということで、平成二十年に東秩父村の商工会が新メニ
ューの開発委員会を立ち上げた。具の形を麺から変化させたものに変えた。どのように変
化させるかで議論になったが、誰かが麺の端と端をくっつけたら偶然、箕(み)の形にな
り、これがいいという事になった。
小豆ぼうとうの麺を変化させた具の形は、農具の箕(み)を摸している。
箕は小豆の選別をする道具だ。箕で小豆をすくう姿にかけて「小豆すくい」となった。
翌年から商工会はPRを始め、埼玉県のB級グルメ大会では一千食を完売するほどの人気
ぶりになり、九位に入賞した。新しいご当地グルメということになる。
当初は村のあちこちで作られて提供されていたのだが、具を作る手間やお汁粉を保存す
る方法などが難しく、今では峠の茶屋ほか何軒かだけになってしまった。年間を通して提
供しているのは、この峠の茶屋だけだ。
初枝さんは、うどんと一緒に具を作ること、お汁粉を一人前ずつ分けて冷凍保存するこ
とで、年間を通して販売できるように工夫した。お汁粉は使い終わったトコロテンの容器
を使っている。具も一人前ずつ楊枝に刺して冷凍する。こうしておけば注文があってもす
ぐに解凍して提供することができる。
茶屋の厨房で手打ちうどんを打ち始めた初枝さん。毎日打っている。
うどんと一緒に作った小豆すくいの具をゆであげて乾かす。
茶屋の厨房で、初枝さんがうどんを打ち始めた。麺棒で生地を伸ばし、薄くなったら麺
棒にクルリと巻いて更に伸ばす。うどん粉一キロに塩三十グラムを加えて固くこねた生地
が大きな薄い生地になる。
蛇腹に折りたたみ、包丁で切ってうどんの麺を作る。中央の三列ほどを小豆すくいの具
にするので取っておき、うどんは沸騰している鍋にすぐに入れて茹でる。一緒にやってい
る晴美さんとの連携も見事だ。毎日の事なので、流れるように作業が進む。
三列の生地を伸ばして重ね、五センチの長さに切ってほうとうの麺を作る。これを水で
端を濡らして、端と端をねじって重ねれば簡単に箕(み)の形になる。うどんを茹で終わ
る頃、全部の具が出来上がり、うどんを上げて空いた鍋に投入する。五分ほど茹でて浮き
上がれば出来上がり。竹のすいのうで具を鍋から上げ、布巾を敷いたザルに並べて水気を
切る。こうして乾かし、三個か四個ずつ楊枝で刺してくっつかないように冷凍する。冷凍
しておけばいつでも使える。
小豆はお汁粉を煮るように軟らかく煮る。煮上がったものを、一人前ずつ取り分けて冷
ましてから冷凍する。
お客さんが入ってきて小豆すくいを注文したので、私も注文して、作り方を見せてもら
った。晴美さんが手際よく、冷凍したお汁粉をレンジで解凍した。それを小鍋にいれて火
をつける。別の鍋で先ほどの具を熱湯で煮る。小豆が溶けたところに具を入れて更に煮込
む。鍋の中央がグツグツいってきたら出来上がりだ。冬は麺のゆで汁を少し加えて、汁に
とろみをつけるが、夏はやらない。小鉢に盛ってスプーンを添えて客に出される。
さっそく食べてみた。甘いぜんざいだ。爽やかな甘さと、厚い具の食感がいい。噛んで
いると小豆と麺が混じり合って小腹を満たしてくれる。登山者やサイクリストに人気だと
いうのがよくわかる。
注文が入ると、晴美さんが小豆すくいを作り始める。
一人前ずつ冷凍しておいたお汁粉と具を解凍して小鍋で煮立てる。
小豆すくいを食べながら、初枝さんに昔の話を聞いた。
初枝さんのお父さんは井戸掘り職人だった。井戸と言っても水の井戸ではなくて、温泉
の井戸掘りだった。そんな仕事の関係で、小さい頃は箱根で育った。強羅や仙石原の温泉
を掘っていたという。
しかし、戦争の影が濃くなり、「こんな仕事をしていては、いつ徴兵されるかわからな
いから…」ということで、お父さんは小田原の軍需工場に勤めるようになった。
初枝さんの家族は波多野に住んでいた。戦争中はB二十九の来襲に遭い、たばこ畑に逃
げたことをよく覚えている。「あわれなもんだったいねぇ、昔の暮らしは…」
終戦は波多野で迎えた。食べるものがなくて毎日ひもじかった。
昭和二十一年、胃潰瘍を患った父親が故郷に帰りたいと言い、家族は都幾川村の落合に
帰って来た。父は翌年に他界した。
初枝さんは十八歳の時に、くにあんちゃんと呼んでいた従兄弟の坂本一人(くにひと)
さんと結婚して、この東秩父村に嫁に来た。一人さんは八つ上の二十六歳だった。
初枝さんは「まだ若かったし、結婚なんて嫌だったんだぃ…」と言うが、周囲がそれを
許さなかった。昭和二十七年のことだった。その後、子供は長男、長女に恵まれた。
昭和四十六年の事だった。東秩父村から秩父に抜ける定峰峠が開通する事が決まった。
東秩父村で、その時に峠の茶屋を作ろうという話が持ち上がった。翌四十七年、一口五
十万円を十一人が出資して、定峰峠の開通に合わせて、峠の茶屋を作った。
白石出身の白石村長が音頭取りだった。
まだ道路は砂利道で、わだちが深くひどい道だったが、大勢の観光客でにぎわった。桜
の季節にはパトカーが来て、交通整理をするほどだった。峠には七軒の茶屋があって、ど
こも賑わっていた。まだ電気が来ていなかったので、ホンダの空冷エンジンの自家発電機
を使った。最初はなにもかも大変だった。
定峰峠は桜が大きくなって、桜の名所になった。観光客がいっぱい来るようになってい
た。この峠の茶屋も小屋が別に八つほどあったし、二階には宴会場もあった。忙しいとき
は本当に目が回るような忙しさだった。
大きなうどんのザルを抱えて、何度も急な階段を往復したものだった。全部が満員にな
った時など本当に大変だった。
メンバーの中で初枝さんが一番若かったので、頑張った。「初枝さん、ライスってなん
だい?」とか「お手元ってなに?」とかいう人と一緒にやっていたので、大変だった。う
どんが一杯百二十円だった。ちなみに今は七百円だ。
年間で利益を出資者に分配した。最高一日百万近く売ったこともあった。今では考えら
れないが、土日は五十万くらい普通に売ったものだった。
次から次にお客さんが来る店内で、初枝さんの話を聞いた。
取材が終わり、店の外まで見送ってくれた初枝さん。
そんな賑わいも途絶えて久しい。仲間も歳をとって、もう止めようという話が何度も出
た。それでも、一人さんが車の運転が出来たので、家族の回り番で茶屋をやってきた。そ
んな一人さんが十年前に肝臓がんで亡くなった。
初枝さんは、茶屋を止めようと思った。しかし、孫の鮎美ちゃんが「おばあちゃん、私
が手伝うから続けようよ…」と言ってくれた。
実際に鮎美ちゃんは十年手伝ってくれた。初枝さんは「孫に助けられたんだ…」と当時
を振り返る。鮎美ちゃんは今、管理栄養士の資格を取るために勉強中だ。
お客さんと気さくに話す初枝さんを見ていると、初枝さんと話す為にやって来るお客さ
んが多いことに気づいた。
「もう何十年やってるかんねぇ…、あと何年やれるかねぇ…」
「いろいろあったけど、今が一番楽しい…」と満面の笑顔で話す初枝さん。お客様との楽
しい会話も弾んで、取材はどんどん横道にそれてゆく。