山里の記憶147


草まんじゅう:沢登(さわと)千代子さん



2014. 3. 16



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 三月十六日、大滝の栃本にヨモギまんじゅうの取材に行った。取材したのは沢登(さわ
と)千代子さん(八十五歳)だった。先週来た時に取材の依頼をして、約束の時間に家に
伺ったら、炬燵の上に出来上がったヨモギまんじゅうがズラリと並んでいた。     
 耳の少し遠い千代子さんに話を聞くと「黒沢さんは忙しい人だから、手間がかからない
ように先に作っておいた…」とのこと。これには頭を抱えてしまった。        
 それから何度も説明して、作るところを取材したいのだと説明し、やっと納得してもら
い、最初から作ってもらうことになった。確認しなかったこちらの問題だと反省。幸いな
ことに、米粉もあんこも残っていたので助かった。                 

 千代子さんは栃本でおまんじゅう作りの名人として名高い。聞けば、グリーンスクール
という秩父市の施設で長年おまんじゅう作りの講師をしているとのこと。一年で百回以上
もおまんじゅう作りをしている。おまんじゅう作りと言えば千代子さんの名前が挙がる。
 そんな千代子さんに今回お願いしたのはヨモギまんじゅうなのだが、千代子さんは「草
まんじゅう」と呼んでいるので、ここからは「草まんじゅう」という表記にする。   

炬燵で千代子さんといろいろ話す。明るいおしゃべりが止まらない。 両手がクルクルと動き、草まんじゅうが出来上がる。話も止まらない。

 米粉は熱湯でこねる。菜箸でかき回すように粉を湿らせ、そこからは手でこねる。  
「熱くないですか?」と聞いたら「熱くったって、これでなきゃあ米粉は駄目なんだい」
と気にもしない。熱湯を適宜加えながら、こね鉢で米粉が練られてゆく。       
 こね終わった生地を、蒸かし器の湯ぎぬ(セイロ布巾)の上にちぎって握った形で並べ
て行く。じつに手際がいい。                           
 「もう慣れてるからねぇ…」手も口も一緒に動く。「つみっこにして並べるんだいね」
「いつもやってるから目見当、手見当なんだいね…」「もう慣れてるから計ったりしない
けど、いつもそれがちょうどいいんだいね…」「もう七十年からやってるんだから…」 

 蒸し器に蓋をして十分間蒸す。十分経ったら解凍したヨモギをその上に乗せて更に十分
間蒸す。台所が蒸し器から上がる湯気でいっぱいになる。ヨモギは春に摘んで茹でてアク
を抜き、冷凍しておいたもの。千代子さんの冷凍庫には小分けに冷凍されたヨモギとノゴ
ンボウが一杯入っている。全部昨年の春に冷凍したものだ。             
 最近、ヨモギを鹿が食べるようになって採れる量が少なくなってきた。知り合いがノゴ
ンボウ(オヤマボクチの若葉)を栽培していて、その葉を分けてくれる。       
 草まんじゅうとしてヨモギではなくノゴンボウを使うこともある。ノゴンボウは食感は
いいのだが、ヨモギのような香りがない。またヨモギよりも固くなる。本当はヨモギだけ
でやりたいのだが、自分で摘む分だけでは足りないので、困っている。        

 十分間蒸した生地とヨモギを湯ぎぬでこね鉢に移す。熱いので、太いすりこぎを使って
つぶす。熱いうちにやらなければならないので、千代子さんも忙しい。すりこぎでつぶし
ながらしゃもじでまとめる。お湯を加えながらヨモギと生地が混ざり合うようにこねる。
 ある程度まとまってきたら「上じゃあ力が入らないんだいね…」と言いながらこね鉢を
床に下ろして、両手に全身の体重を乗せてこね始めた。八十五歳とはとても思えない力強
さだ。熱いうちにこねなければならない。この、こね具合と湯の加減が千代子さんのおま
んじゅうが、ずっと置いておいても固くならない秘密かもしれない。         

 おまんじゅうのあんこも毎回作る。「いつでも作れるように米粉と小豆は切らしたこと
がないんだいね…」あんこは前の日に作る。小豆と熱湯を専用の保温ポットに入れてひと
晩置いて煮る。こうすると柔らかさが違うと言う。                 
「砂糖なんかも目見当なんだいね」「あんこ作るんもいろんなやり方があるからねぇ」 
 千代子さんはイスに座って、ヒザに乗せたこね鉢からひとにぎりずつ生地をちぎり、手
のひらで平らにして、あんこを入れてクルクルと包む。片栗粉でクルクルと形を整えれば
草まんじゅうの出来上がりだ。この草まんじゅうは、蒸したりせずこのまま食べる。  

 次々と両手でクルクル草まんじゅうを作り上げながら、千代子さんの話が続く。   
「いつだったか、ノゴンボウまんじゅうを作る教室をやったんだいね。みんなでやったん
だけど、いいのが出来なかったんだいね。湯の量を計ったり、砂糖の重さを計ったりして
るうちに、なんだか変なものんなっちまってさぁ…。大勢でやるのはどうも駄目だいね。
自分の家でやれば間違いなくいいのが出来るんだけどねぇ…」            
 どうも、みんなでやったまんじゅう作りが納得いかなかったようで、しきりにその話を
くりかえす。すべてを目見当でやっている千代子さんにしてみれば、レシピ通りにやろう
とする参加者のやり方が納得出来なかったようだ。                 

 草まんじゅうが出来上がった。炬燵に運び、千代子さんがお茶を入れてくれる。出来た
ての草まんじゅうをひとつ頂く。まだほんのりと温かい。              
 ぱくりと食べる。ヨモギの香りが口いっぱいに広がる。もっちりとした生地の中から甘
いあんこが口に広がる。ヨモギの香りともっちり米粉、あんこの甘さが渾然一体となる。
すばらしい春の味。お茶を飲みながらペロリと一個食べてしまい、二つ目に手が伸びた。
「作りたての草まんじゅうは旨いよね…」笑いながら千代子さんもお茶を飲む。    

千代子さんが昭和四十年に嫁入りした時の嫁入り行列の写真。 四十代で急逝してしまった米市さん。横笛が得意だった。

 「珍しい写真があるんだよ」と言いながら千代子さんが一枚の写真を見せてくれた。千
代子さんが結婚したときの写真で、花嫁行列がこの家に入るところが写されていた。  
「これがあたしなんだいね。上のお父さんの家から下りてきて家に入るとこだいね…」 
 写真を見ながら懐かしそうに話し出す千代子さん。そんな千代子さんに、その当時の話
を聞いてみた。写真は昭和四十年のものだった。                  
 千代子さんはこの家に生まれてこの家で育った。兄が二人いて、千代子さんが家を継ぐ
はずではなかったのだが、どういう関係か婿を取って家を継ぐことになった。結婚したの
は同じ栃本の米市(よねいち)さんだった、千代子さんは三十歳という晩婚だった。  

 「みんなに喜ばれるいい人だった。何でも出来る人で、歌も上手かったし、横笛なんか
も吹いたんだよ…。人前であがるなんてことはない人だったいね…」         
 米市さんが披露宴で横笛を吹いてる写真もあった。みんな聞き惚れたものだという。 
 そんな頼りになる米市さんだったが、四十代で急逝してしまった。もう三十七年前のこ
とになる。子供二人とおばあちゃんを残しての急死だった。その後の千代子さんは苦労の
連続だった。子供のために働く毎日だった。                    
「若いうちは苦労したんよ……。でも、苦労したけど今が静かで幸せだいね…」    

 炬燵でそんな事を話していると、友人の時子さんが栃餅を持って訪ねてきた。時子さん
は栃本の下隣の上中尾(かみなかお)耕地に住んでいて、時々千代子さんを訪ねてくる。
 同級生で毎日のように電話で話し、何日かおきに訪ねてきて話し込む。何でも知ってい
る親友がいることのありがたさを千代子さんがしみじみと言う。           
「ときちゃんがこうして来てくれるんが嬉しいんだいね。昔から一緒に遊んでたし、何で
も知ってる人だから。ときちゃんも苦労したんだよ…」               
 時子さんも「千代ちゃんがいるから楽しいし、ここがいいんだいね…」「千代ちゃんは
頭がいいし、料理も何でも上手いし、人がいつも遊びにくるんだいね…」と笑う。   

草まんじゅうを食べたら、ヨモギの香りが口いっぱいに広がった。 友人のときちゃんと並んで記念写真。子供の時からの親友だ。

 そうそう、千代子さんはグリーンスクールでのまんじゅう作りの講師だけではなく、四
年続いている民家の学校(村おこしのグループ)の講師もやっている。昔話をしたり、若
い参加者が畑を耕したり芋作りをするのを指導したりする。             
 栃餅を作ってみたいという若い人がいて、千代子さんが準備して臼でついて餅を作った
こともあった。二人でふた臼ついた餅作りが楽しかった。              
 「若い人が来てくれて、みんないろいろ話して行くんだよ。足が痛いの、耳が遠いのと
言っても幸せなことだいね…」「ここにいれば好きなことが出来るからねぇ…」    
「今年も芋作りを助けに来てくれるっていう人達がいてね、今週末にでもやろうかって言
ってるんだいね。ありがたいことだよ」いろんな人と一緒に写った写真を見せてくれる。
 大勢の人に囲まれて、今が幸せだという千代子さん。最後にこれだけはハッキリ書いて
欲しいと強調したこと、それは「おまんじゅう作りは私の生きがいなんだいね…」という
こと。誰からも名人と言われるが、自分自身が生きがいとしているからこその味だった。