山里の記憶154


水車を作る:千島 茂さん



2014. 7. 23



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 七月二十三日、大滝の六本松にある山麓亭に千島茂さん(七十九歳)を訪ねた。山麓亭
の傍らに立つ水車小屋についての話を聞くためだった。この水車小屋は茂さんが設計し、
同級生の大工棟梁浅香里治さんが建築したものだ。道路の反対側の沢から引いた水で水車
を回し、そば粉を挽き、発電もしているという。水車は松と檜で出来ており、直径は三メ
ートル十センチもある大きなものだ。                       
 この水車について、茂さんが語った言葉が平成十七年三月二十五日付の埼玉新聞に掲載
されているので引用する。「森へ帰ろう」というタイトルのエッセイだ。       
『私は余生は森に入りたいと考え、水車作りに没頭している。自家の山、沢のほとりで水
車を回し、発電し、うすを突き、粉を挽き、焼き畑を切り開く。粗末な”きこり”の館で木
工を楽しみ、木漏れ日の差し込む中で、木のぬくもりとともに過ごしたい』      

雁坂トンネルへの道にある山麓亭。大滝らしさを感じさせる佇まい。 中津川芋の田楽が名物。店頭で焼いている。

 茂さんは平成六年から二期、大滝村の村長を務めた。大滝村を水源の村として自立する
為の施策を考えられる限り実行してきた。大滝村への思いは人一倍強い人だ。そんな茂さ
んから水車作りの顛末を聞く。山麓亭の涼しい風が抜ける座敷でのインタビューだった。
「きっかけ? 水車を作りたかったんだい。二之瀬に壊れた水車が放ってあったんで、そ
れを譲ってもらってさ、持って来たんだい。大変だったんだよ、トンネルが通んねえとか
電線がぶつかるとかさ…」話はいきなり水車作りの話に入った。話に無駄がない。   

 この壊れた水車を原型にして新しい水車を作る。大滝に運んだ水車を解体し、シャフト
の確認をする。水車を回転させて、その回転する力を動力として、何をするかによってシ
ャフトの形が変わる。茂さんの頭の中にある構想が新しいシャフトになる。      
 大輪の自宅二階の畳を上げ、ベニヤ板を敷き詰め、そこで原寸大の図面を描き始める。
直径三メートル十センチの水車を原寸大で図面に描き起こす。            
 輪板、水受タナ板、水受底板、ゴコウ、カラミ、それぞれを原寸大で書き出す。大きな
ポスターの裏が製図用紙になった。何日も何日も図面と格闘した。          

 出来上がった図面を託したのが浅香里治さんだった。最も信頼している大工さんで、山
麓亭の建築にも関わってもらっていた。しかし、材料の手配に困った。水車を作るには松
の根曲がり部分の板が必要だった。常に水に濡れた状態になるため、水に強い松が必要だ
ったのだが、秩父にはなかった。松が多いという東北に問い合わせたのだが、良い材はな
かった。結局、群馬の製材所で望んだ板がやっと確保出来て、水車作りが始まった。  

 パーツを正確に作る必要があった。重さを均一にするために、板の上と下を交互に使う
ことでバランスを取った。松に限らず、一枚板は上と下では比重が違うので、混ぜて使わ
ないと重さのバランスが崩れる。全体が正確な円になること。バランスが均一なこと。そ
れが揃わないと、回転がスムーズでなくなる。少しの水で回転させるためには、とにかく
全体を正確に作り上げることだった。パーツの制作に一年かかった。         
 最後の仕上げも大変だった。車軸を固定して組み上げるのだが、パーツが重いため、と
もすると動いてしまったり、回転してしまったりと神経を使う作業だった。組み上がった
パーツを固定して、回転軸を確かめる。バンドで締め上げて、回転させ、僅かなゆがみも
ないように、ガイドすれすれになめらかに回転するように調整した。ブレがなくなったと
ころで「ここだ!」と各パーツを固定した。こうしてやっと回転する水車が完成した。 

 出来上がった水車は、大輪のガソリンスタンドに運んで設置した。水道の水で回してい
たのだが、見ている人が「動力で回してるんじゃね?」と聞くほど、その回転はスムーズ
だった。実際に親指一本分くらいの水流で回転する水車で、そのバランスは完璧だった。
 軽く回っているのだが、その重量はすごいパワーを生む。水車の完成を見て、茂さんと
浅香里治さんは水車小屋作りに入った。場所は六本松山麓亭の一角と決めていた。   

 水車小屋は栗の材で作ろうと決めていた。柱はもちろん、壁も屋根も栗板で作ろうと決
め、その準備をしていた。材料集めが大変だった。村の家々に保管してあった栗柱、栗林
で立ち枯れになっている栗の木、滝沢ダムで移転する家を取り壊す際に出る栗柱や栗板の
屋根材を譲ってもらった。移転で取り壊す家のうち二軒が栗板で屋根を葺いていたので、
ずいぶんたくさんのササ板を集めることが出来たが、まだ足りなかった。そこで、昔のサ
サ板作りを思い出し、日野の鍛冶屋で割りナタを作ってもらってやってみたのだが、上手
くいかなかった。考えてみれば、栗の木を薄く割るのは生の木でなければならず、それを
乾燥させていたのでは屋根作りに間に合わないからだ。               

 大変な苦労と手間がかかったササ板集めだった。結局、足りない分は製材して作ったの
だが、屋根材としては製材したものより、割ったものの方が優れていた。縦に割った不規
則な溝が、雨の排水を誘導し、水切りを良くする。雨の後の乾燥も速い。製材した栗板は
平滑すぎて、接着面が毛細管現象をおこし、排水も乾燥も割り板に負ける。      
「昔の人の知恵ってのはすごいよね…」茂さんの口からそんな言葉がもれた。     
 ササ板を押さえる竹は冬伐りの竹を長瀞から運んだ。一番太いものを半割りにしてトヨ
を作った。ササ板を押さえる石は、安定した形のものを選んで重石とした。      
 栗の柱は外側に自然な肌を出すように製材した。角の柱は二面を製材。中の柱は三面を
製材し、梁は二面を太鼓に製材した。腰板は製材で出る「せご(端材)」を利用した。 
 水車小屋の中の柱はヒノキを使った。ウス周りの作り付けもヒノキで加工した。これは
精度と強度が必要なので、ヒノキが良かった。                   

出来上がった水車を、大輪から山麓亭に運んできた。 茂さんが設計した水車小屋が出来上がった。

 水車小屋の基礎工事は平成十七年四月から始まった。新しく作ったシャフトは水車の動
力を利用して、突きウス二台、粉ひき、発電が出来るように加工されていた。     
 発電の機械は風力発電の機械を応用した。こちらは三扇機工(株)と(株)石田製作所
に発注して製作してもらった。発電に関しては回転数の関係で、調整が上手く行かず、何
度も何度も微調整を繰り返し、最終的には安定して発電できるようになった。     
 平成二十一年五月、苦労して作った水車を水車小屋に取り付け、茂さんの水車小屋が完
成した。水車でそば粉を挽き、手打ちの蕎麦を作る。蕎麦打ちの体験教室などもこれで出
来るようになった。茂さんが目指す山里の再現だ。「極力、昔の人の生活に近づけたい。
山と木の恵みやありがたみが感じられる場所に出来れば…」という場所がやっと出来た。

 そして五年の月日が流れた。茂さんに、ここまでして水車小屋を作りたかった理由を改
めて聞いてみた。間髪を入れず「水車を残したかったんだぃね…」という答え。    
 そして、当初考えていた事と実際に出来てからの感想を聞いてみた。そば粉は水車で挽
くのではとても足りず、製粉したものを買っている。今、水車でそば粉は挽いていない。
 発電は実験的なもので、電灯が点くくらいの電力しか供給できない。        
 茂さんからは「まあ、こんなもんだと思ったよ…」という答えが返って来た。ただ、そ
んな軽い答えで済む事ではないような気がしてならなかった。            

水車小屋の内部。突きウスが二台、挽き臼、発電機がある。 色々な話を淡々と聞かせてくれた千島茂さん。

 茂さんは政治家として大滝村の事だけをずっと考えてきた。水源の村として自立する道
をずっと探って、築き上げてきた。みんなの力と知恵を絞って村の活性化を考えてきた。
 大滝が大滝らしくあるにはどうすればいいのか。木と森と山を生かした村作りはどうあ
るべきなのか。ずっとずっと考えて実践してきた。                 
 しかし、平成の大合併の結果、大滝は秩父市となった。秩父市の一地方となってしまっ
た大滝。大滝が独自の道を模索することはなくなった。               
「合併がねぇ……、大滝が何か出来るという時代じゃなくなったぃね……」「村を活性化
してやるっていう若い人がいないんだぃ」「正直、ダムでこれだけ人がいなくなるとは思
わなかったよね…」そんなつぶやくような言葉に、茂さんの忸怩たる思いがにじみ出る。

 この六本松に作っている水車小屋や木こりの館など、山麓亭の附帯施設は茂さんの大滝
への思いが詰まっている。水車はここのランドマークだ。              
 ここは大滝だ、大滝らしさをここに残すんだ。そんな思いが詰まっている。中津川芋の
田楽も、木鉢も、鹿角も、水車もみんな大滝なんだ。長身痩躯を折り曲げながら蕎麦を運
ぶ茂さんの姿から、そんな叫びが聞こえてくるような気がしてならなかった。