山里の記憶155


ダリア園:黒沢明治(あきはる)さん



2014. 9. 9



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 九月九日、小鹿野町両神、日蔭(ひかげ)の「ダリア園」に取材に行った。観光でダリ
アの花を見に行った訳ではなく、ダリア園を運営する「花と緑を育てる会」の会長、黒沢
明治(あきはる)さん(八〇歳)に、開設までの苦労話を聞くためだった。      
 ご自宅に伺い、あがりはなに並んで腰掛け、お茶を頂きながら昔話を聞いた。この家は
日蔭集落の旧家で、集落のまとめ役のような立場の家だった。            
 祖父は明治の中頃からお蚕の種作りをしていた。峠を越えて富岡の製糸場に行き、蚕種
の作り方を勉強し、自宅で蚕種を生産し、大滝の奥や群馬の上野村まで売り歩いていた。
 富山の薬売りのような格好で春蚕、夏蚕、秋蚕と蚕種を売り歩いた。当時は養蚕がなん
ともの産業で、祖父が売りに行く蚕種をみんなが待っていたものだった。       

 戦争当時に秩父中の種屋が集まって会社を作ることになった。秩父蚕種有限会社が出来
たのだが、養蚕の衰退とともに縮小し、平成になって解散した。           
 祖父は鉄道の枕木を作る仕事もした。一年間に二万本の枕木を交換したという。主に秩
父鉄道の仕事だったが、空襲で焼けた京成電鉄や京王電鉄の枕木も納めたと聞いている。
 この枕木は栗の木で作った。秩父中の太い栗の木がなくなる頃、枕木はコンクリート製
のものに取って代わり、栗の木の需要はなくなってしまった。            

家の上がりはなでお茶をいただきながら、明治さんの昔話を聞く。 庭には自分で栽培しているダリアが咲いていた。畑にもダリアが。

 明治さんは昭和九年の生まれで、四人兄弟だった。昭和十六年に尋常小学校に入学した
が、戦時中でもあり勉強どころではなかったという。特に中学校の頃は竹の平分教場に通
っていたのだが、軍事教練やら労働奉仕やらで勉強どころではなかった。育ち盛りなのに
食う物がなく、学校で畑を耕すほどだった。とにかく食う物があれば良かった。    
 長男として家を継いだ明治さん。農家だったので食うには困らないのが良かった。当時
は炭焼きをやっていて、木炭も売れたし、山の木も薪も売れた。杉の木など太い物を二〜
三本売ればそこそこの生計が立てられたものだった。                
 みんなで山の手入れをして、畑で作物を作った。                 
「まったくねぇ…、あのままだったら杉が大きく育ってお大尽になるはずだったのに、今
杉を売っても大根と同じ値段だからねぇ……」とため息が出る。           

 明治さん二十五歳の時にお見合いで結婚が決まった。お相手は白井差(しらいざす)旧
家の娘だったヨミ子さん。ひとつ年上の二十六歳だった。              
 当時小鹿野にあった数少ない車を借りて、嫁迎えに行った。当時の習慣で、嫁の家で宴
会をして嫁迎えをし、自宅に戻って披露宴をするという時間のかかる祝言だった。   
「道が急でさあ、車が家の前まで行けなかったんだぃね。大変だったよ…」と笑う。  
「嫁さんの実家が、新しい家を作ったばかりだったのに、火事で焼けちゃったんだぃ。急
普請で新しい家を作ったんだよ。当時はお蚕がなんともの仕事だったから、それに間に合
わせる為だったんだぃね。いろいろ大変だったよ…」                

 今、日蔭耕地は十戸、約二十人の人が暮らしている。昔は百人近くの人がいた。   
「百人になったらお祝いでもすべぇか…なんて言ってたんだが、結局百人にやぁ届かなか
った…」昭和四十年くらいがピークだった。終戦で帰って来る人が多かったし、子供も多
かった。中国大陸から引き揚げてくる人もいたが、女子供ばかりだった。数は多かったが
、男っ気が少なかった。                             
 集落にあるお諏訪様のお祭りもにぎやかだった。傘鉾に飾る花を各戸に配って飾り付け
て、笛と太鼓を先頭にして行列が練り歩いた。集落全部を回って、山の神まで回ったもの
だった。花火も大きな台座を作って打ち上げた。終戦直後の花火はまだ珍しくて、近在の
人がみんなで見に来たものだった。                        
 お祭りは八月二十八日にやっていたのだが、今は九月の第二日曜日に変わった。全部で
二十人ではもう何も出来ないので、神主さんを囲んで何時間が話して過ごすようなものに
なってしまった。花火はもう五年ほど前からやっていない。             

 今のダリア園は昔は桑畑だった。養蚕がなんともの産業で、みんなが養蚕に精を出して
いた。養蚕が衰退するに従って、桑畑はコンニャク畑に変わった。ずいぶん長い期間、見
える場所はみんなコンニャク畑だった。最初は下仁田のコンニャク工場に出していたのだ
が、農協が工場を作り、両神でコンニャクの製品加工をするようになった。昭和四十年か
ら五十年代がコンニャクのピークだった。                     
 コンニャクが下火になるとキュウリやインゲンやナスを作った。しかし、狭い耕地ゆえ
に競争力が弱く、儲けにはつながらなかった。                   
「まあ、農協のために作ってるようなもんだったなぁ…」と振り返る。        

 そんな頃、両神村長だった千島一郎さんから「人を呼べるものを何か作れねぇかぃ?」
という呼びかけがあり、集落で検討した。最初は木蓮でも植えて花見の人を集めようとい
う事で木蓮を植えた。その時にはみんなで「四年もすれば木も大きくなって人も集まるべ
ぇ…」などと話していた。しかし、想像以上に木蓮の生長は遅く、また花の時期も短かっ
たので、まったく集客にはつながらなかった。                   
 次はチューリップを二年ほど植えて花を咲かせて人を集めようとした。しかし、これも
花の時期が短く、思ったような集客は出来なかった。                
 そんな時に現れたのが大塩野(おおしおの)の神林さんだった。神林さんは花に詳しい
人で、いろいろ話を聞いているうちに「ダリアはどうだろう?」という事になった。神林
さんは全国のダリア園の研究もしていた。                     

ダリア園に行く。午後なのに観光客がいっぱい入っている。 観光客がお土産用にダリアの鉢植えを選んでいる。

 個人的に一年植えて様子を見て、それから株を増やした。やったみたら予想通りに育っ
てくれたので本格的にやることに決まった。                    
 ダリア栽培の敵は台風などの強風だった。この耕地は山あいにあるので、強風が直接吹
き付けることがなかった。倒伏を防ぐための網掛けは必要だったが、全体が倒れるような
風が吹かない場所だったことがダリア栽培を決めたポイントだった。         
 神林さんの指導の下、花と緑を育てる会が発足し、明治さんは会長に就任した。   
 今、一万平方メートルの広さを持つダリア園には、三百種五千株のダリアが咲き乱れて
いる。                                     

 家での話はこれくらいにして、ダリア園に二人で向かう。午後の光をたっぷり受けて輝
くようなダリアの花を前にして栽培についての話を聞く。              
 毎日の手入れは、まず花摘みから始まる。咲き終わってしおれた花を全部摘み取る作業
だ。朝の八時から十時頃まで、四人でリヤカーを引きながら花を摘む。        
 脇芽欠きも大切な作業だ。ここのダリアは花を見てもらうために栽培しているので、一
輪ごとに大きな花を咲かせたい。その為には、次から次に出てくる脇芽を欠いて、中心の
一輪だけに栄養が回るようにする。花の高さも一定になるように脇芽を欠く。この作業を
見せてくれたのは組合員の黒沢副男さんだった。明治さんに言わせると「手入れの大将だ
ぃね」とのこと。副男さんは笑いながら作業の説明をしてくれた。          

明治さんが副男さんと手入れの打ち合わせをしている。 色とりどりのダリアが咲き乱れ、観光客を喜ばせている。

 もっと花を大きくする天下仕立てという方法もあるが、ここではその方法は採らない。
四本仕立てで花が多くなるように仕立てている。また、長い期間花を咲かせることに注力
しているという。                                
 奥の方では消毒が行われている。消毒をしているのが技術主任の神林さんだった。さっ
そく挨拶に行くが、作業中なので話は聞けなかった。                
 組合員は三十人いるが、実際に手入れ作業をしているのは六・七人だという。その人た
ちの手に、この観光地は委ねられているのだ。                   
 倒伏防止ネットの支柱は木だったが、順次鉄パイプに替えている。木は腐るが鉄は腐ら
ない。ダリア園はダリアの栽培を始めて八年、一般公開して六年目になる。様々な試行錯
誤の末に有名な観光地になりつつある。                      
 ダリアの手入れをしている人に観光客から「きれいですね〜」と声がかかる。こんな時
が一番嬉しいという。                              

 小鹿野町のおもてなし課という部署が観光の担当だが、むしろ両神の名前の方が通りが
良く、「両神山麓 花の郷」という名称で告知をしている。両神を前面に出して告知した
方が効果があるのだと明治さんが胸を張る。                    
 日蔭耕地が試行錯誤の末に手に入れた観光資源。自らの手で作り上げた観光資源だから
こそ「両神」の文字を刻みたい。そんな気持ちはよくわかる。