山里の記憶156


お浄めの麩料理:高橋幸子(ゆきこ)さん



2014. 9. 17



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 九月一七日、両神の煤田(すすだ)にお浄めの麩料理の取材に行った。取材したのは高
橋幸子(ゆきこ)さん(八十一歳)だった。                    
 お葬式の時に耕地の女衆が作るお浄めの精進料理で、秩父地方ではお葬式に欠かせない
料理だった。最近は自宅でお葬式をすることがなくなり、消えつつある料理のひとつだ。
会館で行う葬儀では、仕出し形式の料理が多くなり、この麩料理が出る事もなくなった。
今回、やっと作ってくれる人に巡り会い、胸をなで下ろしての取材となった。     
 秩父地方では誰もが食べたことのある料理なのだが、残念ながら料理名がはっきりしな
い。正式な名前は?と聞くとみんな首をかしげる。                 
「さあて、なんだっけかねぇ…」「お浄めのお麩料理だよね…」「あの酸っぱいやつ」 
「そういやぁこの頃は出ないねぇ…」「昔は必ず出たもんだったけど…」「お葬式ってい
えば、あの麩だよね…」誰かに尋ねる度に、こんな会話が何回も交わされた。     

 今までにこの料理を何と呼ぶか聞いたところ、料理名は一〇を超えた。甘酢、酢だれ麩
、切り麩、麩だれ、精進麩、麩の甘酢よごし、麩の胡麻和え、酢のもの、麩の酢のもの、
麩の甘酢、麩の胡麻酢和え……などという料理名が上がった。            
 どれもありそうで、また「しいて言えばこんな名前かねぇ…」という料理名になってい
る。また、名前から料理方法の違いを感じるものもある。でも、誰もが「あのお葬式の麩
料理」と言えばわかる料理でもある。                       
 当然ながら各地で微妙にレシピは変わるだろうし、誰それが作ったのが一番旨いという
名人もいた。すでに食べなくなって久しい料理で、味は記憶の中にしかない。     

元気に歩き回る幸子さん。近所ではユキちゃんと呼ばれている。 家の前の畑にはゴマが実っていた。きれいに手入れされた畑だった。

 居間に上がり、挨拶をしてお茶を頂きながら娘の克予(かつよ)さん(四十七歳)を交
えて昔の話を聞く。昔のお葬式を思い出しながら、いろいろな話をする。この家で、自宅
で葬儀をしたのは祖父が亡くなった時が最後だった。平成十一年の事だったから、その当
時でも珍しいくらいだった。                           
 煤田(すすだ)耕地九軒の人がみんな来て仕切ってくれた。一軒の家から米五合を持ち
寄って夫婦二人出る習わしで、お勝手もにぎやかなものだった。           
 かて飯の五目御飯を作りパックに詰めて出したのが喜ばれた。ゴボウのきんぴらや煮物
を作った。ポテトサラダや仕出しのオードブルなども喜ばれた。三角のコンニャクを煮た
もの、さいの目に豆腐を切ってネギを入れた味噌汁もお葬式の時ならではのものだった。
「普段の時にさいの目に豆腐を切ると葬式みてえだって怒られたもんだった」と克予さん
が言う。赤いものが禁忌で、きんぴらはゴボウだけだった。             

 この時にかならず作る料理が麩の甘酢料理だった。その作り方を幸子さんが実演してく
れた。台所で「これで作るんだいね…」と出したのが袋入りの「ほうらい麩」と大量のゴ
マだった。ゴマは自家製で、香りが良いと胸を張る。                
 さっそくフライパンでゴマを炒る。大量のゴマなので一回ではなく何回かに分けて炒る
ようにする。計ってみたら八十グラムのゴマを使っていた。             
 克予さんが大鍋に湯を沸かす。湯が沸いたら火を止め、ほうらい麩を全部入れて湯に浸
す。このまましばらく置いて麩を戻す。戻した麩は大きなザルに広げて冷ます。冷ました
麩は水気を切っておく。                             

 炒ったゴマを大きなすり鉢に全部入れてすり始める幸子さん。すりこぎはサンショウの
木で作ったもの。「婿さんが珍しいからって伐って作ってくれたんだぃ…」と嬉しそう。
確かにこの太さのサンショウの木は珍しい。いったい何年ものなのか、すごいものだ。 
 リズミカルに動く幸子さんの両手。台所にゴマのいい香りが立ちこめる。「昔はゴマを
すってると玄関に入った時からいい匂いがしてすぐわかったもんだぃね…」「今はこんな
大きなすり鉢でゴマをする事もなくなったぃね」「口当たりがのめっこくなるようによく
するんだいね…」にぎやかに話しながらすり鉢のゴマをする幸子さん。        

 すり終わったゴマに調味料を加える。この時は砂糖一カップ約百十グラム、醤油が五十
CC、酢は三十CC(五十CCくらいでもいい)をすり鉢に加えた。幸子さんが全部を加え
たゴマをまたする。「あんまりユルユルにならないようにするんだって、じいちゃんによ
く言われたんだぃね…」                             
 幸子さんの記憶では酢を入れていなかったと言うのだが、私と克予さんが「いや、酢は
絶対入っていた」と言って酢を入れてもらったが、本当に良かったのかどうか……。  
 この料理の事をあちこちで聞いた。多くはゴマと甘酢の料理と話してくれたが、浦山の
ある家ではゴマを使わなかったという話を聞いた。ゴマは使わずに甘酢に麩を浸した料理
だったという。また勝沼のある家でも「ゴマは使わなかったなぁ…」という人がいた。 
 先に書いた料理名の多さから考えても、様々な調理法があるはずで、幸子さんが「酢は
入れなかった」と言うのもあながち違うと言い切れないものがある。         

すったゴマに砂糖、醤油、酢を加えて更にすったもの。これを麩にかける。 出来上がった麩料理を食べてみた。記憶の中の味よりもずっと旨かった。

 出来上がった甘いゴマ酢を麩にかけて、染みこんだところを食べてみた。記憶の中の味
よりもかなり旨い味になっていた。もっと強烈な甘酢で鼻にツンとくるような味で記憶し
ているが、きっと地域で違う物なのだろう。                    
「これ本当においしいですね」と言うと幸子さんは「味付けは昔のことなんで忘れちゃっ
たいね。でも、こんなもんだったと思うよ」と応えてくれた。            
 お葬式の時にしか食べない料理を再現する事が良いことなのかわからないが、消えてし
まう味である事を考えると、取材できて良かったと思う。              
「まあ、お茶でも飲みながら味が染みこむんを待って、食べてみたら違うかもしれないか
ら…」「そうだよね、食べる時はもう時間が経ってるからけっこう染みこんでピタピタに
なってるもんだったよね…」と克予さんも言う                   

 という事で居間に戻り、お茶を頂きながら幸子さんの昔話を聞かせてもらう事にした。
 幸子さんは川向こうの耕地山田大久保の生まれで、八人兄弟の七番目だった。元気で明
るく、よく働く子供だった。小学時代は戦争の混乱で勉強どころではなかった。中学を出
て家の手伝いで働いていた。そんな幸子さんを見初めたのが結婚相手となる高橋愛治さん
のおじいさんだった。「よく働く女の子がいる」そんな感じだったのだろうと幸子さんは
笑う。畑が近くにあったので毎日顔を合わせていた。                

 おじいさんに見初められ、結婚が決まったが、姉が出産間近だったので、姉の出産が終
わってから祝言をしてもらった。幸子さん二十五歳、愛治さん二十四歳の時だった。  
 嫁に来たこの家は大家族だった。両親、祖父母、三夫婦で十年暮らした。      
 大家族の大百姓で、朝から晩まで体を粉にして働いた。体が丈夫だったので元気に働く
ことが出来たので良かった。お蚕をやって、田んぼをやって、コンニャク作りもやった。
 コンニャク作りは荒川のいのしし亭近くの畑を借りてまで作った。当時はコンニャクが
いい値になり、現金収入を得られる大きな仕事だった。               

居間で昔の話をしてくれた幸子さん。ご主人の愛治さんは熱心に本を見ている。 自作の手提げカゴを見せてくれた克予さん。農業委員で活躍中。

 牛も飼っていた。多い時は十五頭もの牛を飼っていた。ところが、順調だった生活が一
変した。愛治さんが四十五歳の時に重度のぜんそくを発症してしまったのだ。入退院を繰
り返す生活が続いた。幸子さんは牛飼いを止めようかと思ったのだが、簡単に止める事は
できなかった。結局二十年間、愛治さんの病気と闘いながら牛飼いを続けた。     
 この時、都会に出ていた長女の克予さんが帰ってきて、牛飼いの手伝いをしてくれた事
が何より嬉しかったと幸子さんは言う。                      
 愛治さんが六十五歳の時に牛飼いを止めて、牛を全部売った。その翌年に牛の値が急に
下がった事を考えると、本当に良い時期に牛を止めたものだと思った。愛治さんのぜんそ
くは少しずつ良くなり、今は普通に生活できるように回復している。         

 おじいちゃんは九十四歳まで生きた。おばあちゃんも九十三歳まで生きた。両親もそれ
ぞれ九十歳以上まで生きた長寿の家系だ。幸子さんも愛治さんもまだ元気で働いている。
 五人の子供に恵まれた。厳しいことも悲しいこともあったが、みんな助け合って生きて
来た。長女の克予さんは農業委員として地域の指導している。            
「孫が可愛いんだぃ…」と幸子さんは目を細める。