山里の記憶16


繭玉(まゆだま)飾り:播磨治夫さん、君代さん



2008. 1. 14



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 1月14日(月)小正月を明日に控えて忙しい時間を過ごしている播磨(はりま)治夫
(はるお)さん(77)のお宅を訪問した。治夫さんのお宅は、小鹿野町藤倉の馬上(も
うえ)地区にある旧家だ。訪問の目的は小正月の「繭玉飾り」を見せて頂くことだった。
友人の桜井さんと家に伺うと治夫さんはニコニコと炬燵に招き入れてくれた。寒い日だっ
たので炭の炬燵の暖かさが有り難かった。治夫さんと話していると、奥さんの君代さんが
お茶を入れてくれた。お茶を飲みながら4人で四方山話に花を咲かせた。       

 繭玉飾りは養蚕の豊蚕と作物の豊作を祈る小正月行事に欠かせない飾り物で、各家庭の
決まり事に沿って作られ、飾られるものだ。治夫さんの家では代々1月2日にカボギ(株
木)を山から切ってくる事から始まる。カボギは伐採した雑木から多くの小枝が萌芽した
株を切ってくるもので、この地方ではモミジが多かった。他の地区ではナラだったり、ミ
ズキだったりと変化する。カボギは穀物を貯蔵する穀箱の前に置くのがしきたりだった。
株を使うのは、財産を増やすという願いも込められていたという。今回は山のカボギでは
なく梅の枝を寄せ刺しにしたものを台木に使った。小正月飾りには繭玉と一緒にアワボも
飾られる。                                   

空が狭い山ふところ、馬上(もうえ)耕地の播磨さん宅。 居間に飾られた小正月の繭玉(まゆだま)飾り。

 13日にはアワボ(粟穂)作りのためのオッカド(ヌルデ)の木を切ったり、アワボの
竹を作ったりする。アワボとはオッカドの木を10センチくらいに切って皮を剥いたもの
を曲げた竹に刺す飾り物で、オッカドの木が粟(あわ)の穂を模している。皮を剥かない
ものをヒエボ(稗穂)ともいう。竹は割った物を竹筒に灰を入れたものに刺して曲げ、縛
って曲がり癖をつける。穂が斜めに垂れ下がる様子を表現する角度に曲げる。     

 オッカドの木では別に40センチくらいの刀や、小豆粥を煮る時の粥掻棒(40センチ
くらいのオッカドの先を四つに割り、そこに繭玉を挟んだもので、繭を作るマブシを模し
たもの。これで粥をかき回す動作が、煮た繭から絹糸をくり出す動作になぞらえている)
や菜箸、食べる時の利休箸(両側が細くなっているハレの箸)を作る。これはみな一家の
主人の仕事だ。オッカドや門松用の松はどこの山でも切って良いことになっている。オッ
カドは与太っ木で、燃しても火力が弱く、パチパチはぜるだけで使い道がなかったからか
もしれない、と治夫さんは言っていた。                      

 14日はいよいよ繭玉を作る。これは君代さんの仕事で、播磨家では米の粉で作る白い
餅玉とモロコシ粉で作る黄色い餅玉を作る。黄色い餅玉はコウケン(黄絹)を表し、貴重
な黄絹の豊蚕を願ったものだ。君代さんにコウケンの作り方を見せて頂いた。まず、ボー
ルに米の粉とモロコシの粉を入れ、よく混ぜ、熱い湯で練る。湯で練らないと粘り気が出
ない。さらに、このままでは乾くと割れてしまうのでつなぎに小麦粉を加える。小麦粉が
加わるので食感が良くなる。昔はこれ以外に鳥の形をしたもの(ヒヨコともウグイスとも
言われる)やコゲエカゴ(蚕飼籠)と呼ばれる飾り物を作ったが、今は作っていない。繭
玉以外にも木でクワの形を模した物を飾ったり、小判に見立てたものを飾ったりするとこ
ろもある。                                   

 小正月の行事は農家にとってとても重要なものだった。唯一の現金収入の道でもあった
養蚕は、天候や蚕の病気など不安定要因が多く、その豊凶は一家の家計を直撃した。その
豊蚕への祈りは切実で、家中の神様への祈りへとつながった。また、米の出来ない山地に
おいて、粟や稗は貴重な穀物で、その豊作不作も天候に左右されるものだった。豊作への
祈りは欠かすことが出来なかった。治夫さんの家では17箇所に繭玉とアワボを供える。
昔は25箇所に供えていたという。「昔の小正月はほんとに忙しかったいねえ・・」「今
じゃ、ずいぶん手抜きになったんだよ」と笑いながら言う。             

炬燵にあたりながら昔話をしてくれた君代さん。 台所の鍋で、まゆだまを煮ているところ。

 君代さんのコウケン作りが続いている。繭の形に丸めたものを煮立った鍋の中に入れる
。くっつかないように何度か箸でかき回し、浮き上がってきたら出来上がりだ。網ですく
い、ザルに移す。すぐにシンクに張った水に浸す。こうすることで繭玉同士がくっつくこ
とを防ぎ、なおかつ表面に照りを出す。水から上げた繭玉はくっつかないように注意し、
そのまま冷ます。後は冷めた繭玉を梅の小枝に刺すだけだ。             

 この時、君代さんが甘味噌を付けた繭玉を食べさせてくれた。白い餅玉はうるち米独特
の歯触りの良さと団子のような食感が美味しかった。モロコシ粉のコウケンを口に含んだ
瞬間、懐かしさに思わず声が出た。昔、小学生の頃毎日のように食べたモロコシまんじゅ
うの味そのままだったのだ。粉の由来を聞くと「近所の人が作っててねえ、それを精米所
で挽いたもんなんさ」という君代さんの言葉に深くうなずいていた。今、スーパーで売っ
ているトウモロコシではこの味にはならない。この味はこの地方で連綿と受け継がれてき
たモロコシの味だ。懐かしさに思わずおかわりしてしまった。そこから始まった治夫さん
とのモロコシ談義が面白かった。                         

 昔はモロコシを石臼で挽いて、熱湯で練ったものを団子にしたり小判型にして囲炉裏の
灰の中で焼いたものだった。焼きすぎるくらいでないと食べられないので、端が焦げたも
のを灰をたたき落として食べたものだった。モロコシまんじゅうは温かいうちは何とか食
べられるのだが、冷めて固くなったものは粉っぽくて食べられたものではなかった。これ
も地炉(囲炉裏)にくべて焼き焦がして食べなければならなかった。繭玉でも餅玉は美味
いのですぐに無くなり、モロコシの黄色いのは不味いのでいつまでも残っていたものだっ
た。冷めて乾いてきた繭玉を梅の小枝に刺しながら、治夫さんとの昔話は大笑いしながら
の楽しいものだった。昔の事が鮮やかに蘇る貴重なひとときだった。         

 梅の小枝に繭玉を刺したものが17個出来上がった。治夫さんが家の内外に供えるのを
見せてもらった。まず、台所の荒神(こうじん)様。これは竈(かまど)の火の神様。次
は神棚に3個供える。ここはお稲荷さんとお不動さんと薬師さん。そして仏壇にも別に供
え、トイレに一つ、風呂場に一つ供える。外に出て、縁側正面にある天道柱(てんとうば
しら)に掲げ、前にある二つの家の玄関にそれぞれ供える。水道と井戸には水神様。裏の
小屋に一つ、裏のかまどに一つ、車庫に一つ供え、ケエド(境道)の両側に供えて終了。
全ての場所には治夫さんが作ったアワボが供えてあった。聞くと、全て正月の松飾りを供
えた場所でもあった。                              

 15日には小豆粥を作って食べるのが習わしだ。小豆粥を作る時はオッカドで作った菜
箸や粥掻き棒を使う。食べるときはオッカドの利休箸を使って食べる。この馬上(もうえ
)地区にはクダゲエ(管粥)という粥占い神事が耕地の諏訪神社で毎年行われる。14日
には10センチに切った篠竹を45本簾(すだれ)編みしたものを粥と一緒に炊きあげ、
15日朝にその篠竹を割って、内側の湿り具合で言い伝えと経験をもとに一年間の天候、
30種の作柄、雨、風、大世を占う神事だ。そういった、地区の小正月神事が県の選択無
形民俗文化財になるほどの場所だからこそ、各家の小正月行事もきちんと執り行われてい
るのかもしれない。                               

母屋の天道柱(てんとうばしら)にまゆだまを飾る治夫さん。 上の耕地にある新井さん宅では違う形のまゆだまが飾られていた。

 今日供えた繭玉は16日に下げる。下げる役目は昔は子供達の仕事だった。昔はお供え
を下げて食べるのが子供の楽しみだった。繭玉の中にある木の芽なども気にしないで食べ
たものだった。アワボを下げたものを割って積み木を作って遊んだりもした。     
 25日の天神様の時には梅の枝に25個の繭玉(この繭玉は小正月の繭玉を流用する)
を刺して供える習わしになっている。こうして一連の小正月行事が終わるが、繭玉はいつ
食べるのかという問いには君代さんが「いつって決まってる訳じゃあないやねえ、いつで
も食べたいときに食べるんさあ・・」と笑いながら答えてくれた。          

 ところで、家々の違いがどれほどのものかを知ることになったのがその直後だった。治
夫さんと君代さんにお礼を言って辞し、近くの桜井さんの知人を訪ねた時だった。その家
は上(かみ)の八谷(やがい)という耕地にある新井さんという人の家だった。門の中両
側にナラの杭が立っていて、そこに樫の葉と繭玉が3個供えられ、杭の上に粥が振りかけ
てあった。新井さんに聞くと、家の中の飾りも違っていた。新井さんの家では梅の枝を使
い、大神宮に12個、年神(としがみ)様に12個の繭玉を供え、ホウソウ神には樫の葉
と繭玉3個を供えるという。ほんの目と鼻の先でこれほど違う小正月飾り。そこには家々
の歴史そのものが眠っているかのようだ。