山里の記憶163


卯の花:黒沢ヒデ子さん



2015. 3. 28



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   三月二十八日(土)小鹿野町三山に取材に行った。取材したのは黒沢ヒデ子さん(六十
八歳)で、当初は白菜古漬けの油炒めの予定だったのだが、途中から内容が変わった。 
 お茶請けで出た「麦こがし」を食べながら「そういえば昔は大麦を囲炉裏のホーロクで
炒り焦がして麦こがしを作ったもんだいね…」などと昔話に盛り上がった。      
 大麦をホーロクで炒り焦がし、それを石臼で挽く。挽いた大麦の粉に砂糖を混ぜて食べ
る麦こがし。口の中で粉がバフッと広がり、あの麦焦がしの味が口いっぱいになる。お湯
でからめて飴のようにして食べたこともあった。確かにあれはお湯でなければダメだった
事を覚えている。そんな昔話がお茶請けの菓子から広がった。            
 その流れからヒデ子さんが「そういえば昔の正月や結婚式で作った卯の花をこれから作
るんだけど…」と言ったのを聞いて、是非それを取材させて下さいという事になった。 
 白菜古漬けの油炒めは、急遽「卯の花」の取材に変わった。こんな事もあるという珍し
い展開。卯の花は豆腐を作る時に出来るおからを使った料理。昔は特別なものだったが、
今は一般的な総菜になっている。ヒデ子さんは八幡様のお祭り料理によく作るという。 

冬越しのネギは根が長い。そして寒さに耐えているため味が甘い。 ニンジンとゴボウは細かいササガキにする。他の材料も全部刻む。

   話が一段落したのでさっそく卯の花を作ろうという事になった。ヒデ子さんが裏の畑に
ネギを掘りに行くというので後を追う。マンノウを手にスタスタと畑に行き、奥に植えて
あるネギを掘る。ネギの根が長い。その場で薄皮をむいてきれいにする。聞くと普通の家
庭用ネギだが、この時期は甘さが増しているのだという。「寒さから自分の身を守ってる
んじゃないのかね…」とのこと。                         
 台所の材料を刻む。ゴボウとニンジンは細かいササガキにする。椎茸、油揚、竹輪、薩
摩揚げを粗みじんに刻む。大量のネギは小口切りにする。ミカンの皮を半分くらいみじん
切りにして、これは最後に使うので別にしておく。他には、袋入りの乾燥した小海老も用
意されている。お祭り用やおひまち用など、大量の料理を作り慣れているその手際が鮮や
かだ。ザクザクと全ての材料が刻まれてボウルがいっぱいになる。          
 おから五百グラムを袋から出してボウルにあけ、両手でパラパラにほぐす。大量だ。こ
れで全部の材料が揃った。いよいよ調理に入る。                  

 鍋にサラダ油大さじ三くらいを熱し、まずゴボウを炒める。ジャーッという音がして湯
気が立ち上がる。「ゴボウは歯ごたえを残すくらいに炒めるんだぃね…」ヒデ子さんが解
説しながら調理が進む。ゴボウが少し柔らかくなったら刻んだニンジン・椎茸・油揚・薩
摩揚げ・竹輪を投入する。少し炒めてから大量のネギを加えて更に炒める。      
 ゴボウとニンジンの食感が残るくらい炒め、お玉二杯の水を加える。これで炒め煮にす
る形になる。ここに出汁の素をスプーン三杯入れて味付けが始まる。         
 砂糖は大さじ六杯くらい、醤油はお玉二〜三杯、みりんかお酒をお玉二杯くらい入れて
かき回す。「おからは味がないんで味付けは濃い味にするんだいね…」との解説。味付け
は目見当が基本だ。そして小海老を加えてかき混ぜる。               
「どうだい?」と汁を味見させてくれた。かなり濃く甘い味だったので、これが最後にど
うなるのか興味が湧いた。                            

多めの油でまずゴボウを炒め、それから他の材料を炒める。 最後にミカンの皮みじん切りを加えて混ぜればできあがり。

   いよいよ大量のおからを入れて一気に混ぜる。ここまでのゆったりした動きとまったく
変わってヒデ子さんの動きが急になる。手早く急いで全体をかき混ぜる。鍋がゴトゴト動
くほどだった。全体が均一に混ざったら最後にミカンの皮のみじん切りを加えて更に混ぜ
る。火が通れば出来上がりだ。                          
 出来上がりを食べた。まずはしっとりした全体の食感に驚く。味は甘辛の懐かしい味。
噛むとゴボウの歯ごたえがいい感じだ。ネギの甘さもいい。いろんな味が次々に出て来る
。油揚や椎茸や竹輪やニンジンはさほど主張しないが、ミカンの皮の味がすごい。噛んだ
瞬間に柑橘系を感じ、その違和感がアクセントになって口に広がる。「おや?」から「お
おミカンだ!」という驚きを与えてくれる。これは旨い。              
 しっとりした卯の花は冷めても旨いし、おかずにもお茶請けにも、またお酒の肴にもな
る。ヒデ子さんは「これをコロッケにすると美味しいよ」と言う。これを油揚に詰めてカ
リカリに焼いても旨そうだ。「レンコンや竹の子を入れても旨いよね…」確かに。   

 昔のおからは、正月用の豆腐を作る時に出来た。だから卯の花はお正月料理だった。大
豆の味が濃く残るおからを使った卯の花はごちそうだった。その後、豆腐屋さんが出来、
おからは豆腐屋さんで分けてもらうものになった。最近はおからを家畜の飼料にするよう
になり、おからはスーパーで買うようになった。                  
 スーパーでおからを売るようになって、卯の花は特別な料理でなく、一般的なお総菜に
なった。今ではどの家庭でも簡単に作る料理の一つだ。               

 ちょうどお昼時だったので、出来上がった卯の花を試食しながらうどんをいただき、ヒ
デ子さんに昔の話を聞かせてもらった。                      
 ヒデ子さんは隣耕地・田の頭(たのかしら)柿の木平の出身だ。田の頭とはここが田ん
ぼのある最後の場所という意味で、ここより上流には田んぼがなかったのでこの地名にな
った耕地だ。今は雑草の原野のようになっているが、昔は立派な田んぼがあった。田んぼ
の水路ではホタルが育ち、夏にはホタルが乱舞した。ホタル狩りが楽しみだった。   
 子供時代には河原でよく遊んだという。四月三日、月遅れで行うひな祭りの行事。今で
は河原沢(かわらさわ)でしか行われていない「おひなげえ」(お雛粥)だが、当時はど
この集落でもやっていた。水の温む四月に河原でお粥を炊き、子供達だけで一日遊ぶとい
う行事だった。当時は子供がいっぱいいて、どこの集落でも子供達が楽しみにしていた河
原遊びだった。                                 
 ヒデ子さんが小学一年生の時に三山ダムが出来た。正式には小鹿野頭首工という施設で
三山から飯田・小鹿野と続く灌漑用水路の取水施設だ。その用水路が出来た関係か、ヒデ
子さんの家の井戸が涸れたので良く覚えている。                  
 このダムは年に一度掃除のために水抜きをする事があった。その時は朝から大きな音が
聞こえ、ワクワクしながら水が抜けるのを待ったものだった。水が抜けた跡には大きな魚
がビンビン跳ねていて獲り放題だった。大きな一斗缶(ドウコッカン)にいっぱいの魚が
もらえた。子供ながらに興奮したものだった。                   

 ヒデ子さんは縁があって二十二歳の時にここ三山下郷の黒沢志津夫さんに嫁いだ。志津
夫さん二十七歳の時だった。結婚式は飯田の八幡様で挙げ、披露宴は小鹿野の割烹「鹿の
子」でやった。ヒデ子さんは小鹿野のパーマ屋さん「のぶ美容室」で髪を整えて式に臨ん
だ。黒沢の家から黒沢の家に嫁いだので名字が旧姓と変わらない結婚だった。     
 昭和四十三年、その年の秋に水道が引かれたのでよく覚えている。この頃には自宅で結
婚式を挙げる人はほとんどなくなっていた。志津夫さんの上の姉さんが結婚した時はまだ
自宅で披露宴をやっていた。その時に隣組の女衆(おんなし)がお祝いの料理を作った。
その中にこの卯の花があった。八幡様のお祭りにもお客様料理として卯の花を作った。 

ヒデ子さんの「卯の花」出来上がり。しっとりと甘い卯の花。 鮮やかな手際で料理してくれたヒデ子さん。外まで送ってくれた。

   散歩から帰って来た志津夫さんも交えて昔の話を聞いた。ヒデ子さんが結婚した志津夫
さんは猟師だった。当時は三山だけで二十人以上の猟師がいた。初猟のおひまちと終猟の
おひまちがあって、それを持ち回りでやっていた。初猟のおひまちはけんちん汁を作り、
終猟のおひまちには肉寿司を作った。                       
 持ち回りの筈だったが、なぜか回数が多かったような気がすると志津夫さん。それぞれ
の家庭で事情もあり、やりやすい家という位置づけだったのだろう。それだけみんなに親
しまれた家だということになる。志津夫さんは四十二歳まで猟師をやった。今は息子の一
成さんが猟師となって引き継いでいる。                      

 ヒデ子さんと昔話をしながら思った。昔の食事は粗末だったけれど、もしかしたら最高
に贅沢な食事だったのではないだろうか。自分の畑で作った新鮮なものだけで作る料理。
 味噌も醤油も自分で作っていた。旬の野菜が食べ放題だったし、小麦も大麦も自分の畑
で作った。それを工夫して加工してお菓子や料理を作った。             
 猟師だった志津夫さんのお陰で、ヤマドリやイノシシやシカの肉が食べられた。ダムの
魚をお腹いっぱい食べる事もあった。それもまた暮らしの一幕だった。        
 添加物や保存料の一切ない素材と料理。粗末だったかもしれないが、体にとっては一番
いい食事だったのではないか……そんな事を思った。