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山里の記憶
167
ユリの栽培:根岸正一さん
2015. 7. 02
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七月二日、小鹿野町両神の柏沢にユリ栽培の取材に行った。取材したのは根岸正一さん
(七十一歳)だった。正一さんは両神花卉生産組合の組合長で、長年この地区の花卉栽培
・枝物栽培の先頭を走って来た人だ。家に伺って話を聞くと、本業は枝物栽培とのことだ
が、今回はユリの栽培に絞って話を聞いた。
奥さんの篤恵さんがスモークツリーとユリとアジサイを飾っていた。
これが主力商品のヒペリカム。花卉栽培は本当に幅が広い。
正一さんが栽培しているのは新テッポウユリという品種一種類だ。もう三十年以上栽培
を続けている。ユリの栽培というと球根を植えることから始まるのだが、正一さんはなん
と種から栽培している。新テッポウユリはユリの中で唯一種から栽培出来る品種なのだ。
このユリはタカサゴユリとテッポウユリを掛け合わせた品種で、一年目と二年目の二回
花を付ける性質がある。正確に言うと一年目に咲く系統と二年目に咲く系統の二つが一緒
に育つということだ。元の花の性質を両方受け継いでいるのでこうなるのだという。
正一さんは種から育てられる性質を利用して、より良い品質のユリを自分の手で開発し
ている。咲いた花の中で大きくて上を向いている花を残して種を採る。これをくり返して
より大きく、上を向く花が多いユリを作り、それを自分のブランドとして市場に認知させ
るようにしてきた。その甲斐あって、今では正一さんのユリは東京の大田市場でも高い評
価を得ている。
ユリ栽培の一年間の作業について聞いてみた。
一月の作業は種まきから始まる。種まきの前に苗床を作ることが先になる。一月二十日
頃に種をまき、たっぷりの水を撒く。芽が出ると毎日水くれをする。一週間から十日間隔
で消毒をする。ハウスの開け閉めなどが必要になるのもこの時期だ。この作業は定植する
まで続く。苗が全てで、良い苗が出来なければ良い花は咲かないので気を抜けない。
五月に定植するのだが、その前に畑をドロクロールで土壌消毒をしておかなければなら
ない。十日ころに定植をしてからは、水くれと草取りの繰り返しになる。
苗が育つ前に倒伏防止の網を張らなければならない。成長につれて二段の網を張る。こ
れは一人では出来ない作業なので夫婦が揃った時にやる。ユリを栽培するのは手間がかか
る。成長するとアブラムシがつくので殺虫剤を撒く。また、育つときに網にかからないよ
うに一本一本葉を直さなければならない。これも大変な作業だ。
六月いっぱいは二年目の花の出荷が続く。二年目の花にはハウスが掛けられている。ハ
ウスは雨よけのために掛けている。花の出荷は三輪から五輪ついたものがメインになる。
五本ずつ束ねて、五十本単位で出荷する。出荷は、三時までに両神農協の出荷所に運ぶ。
一輪・二輪の花も出荷は出来る。両神農協から東京の大田市場に出荷される。
ユリに関しては一軒だけしか栽培していないので、全国に競争相手がいる状態になり、
不利な競争をしなければならない。それでも正一さんのユリは評価が高く、大田市場の社
長が畑を見に来たことがある。社長は「良い花だ」と褒めてくれた。
梅雨時はジメジメしているので根腐れが起きる。秋は灰色カビ病がある。ユリは病気が
多いので消毒は欠かせない。
八月中旬、一年目の花が咲くので九月いっぱい出荷作業が続く。この花が咲いた時期に
良い花に印を付けて保存しておく。その花が熟して十月に実になるのを待つ。実が熟した
のを切って乾燥させ、そこから種を採る。この作業をくり返すことで太い茎、大きな花、
上を向いた多輪咲きのユリに変えてゆく。
十月にはハウスの移動がある。一年目の花が終わったところに前のハウスを移動する。
ハウスの移動は夫婦二人での作業になる。一年目の花は露地栽培。二年目の花はハウス栽
培となる。このハウス移動は毎年やらなければならない。
十二月、その年に種を蒔く苗床を消毒し、ベッドを作り、一月の種まきを待つ。これが
およその一年間の作業になる。ユリは手間がかかると正一さんが言うのもよくわかる。
網を二段にかけたユリの畑。これは今年苗から育てて定植したもの。
ハウスには二年目のユリが咲いている。六月の出荷が終わったばかり。
今は枝物栽培、特にヒペリカムやスモークツリーが主になっている。ユリは手間が掛か
るのと、時期によって値の変動が多いので徐々に扱いを少なくしている。少なくても手間
は同じだけかかるので大変だ。お盆、お彼岸に花を咲かせられれば良い値になるのだが、
なかなか難しい。二人とも元気なので出来ていることで、一人だけではとても出来ない。
正一さんが栽培しているのは新テッポウユリだけだ。他のカサブランカやソルボンヌな
どの有名品種は種ではなくて球根を買って栽培する。だから高値にならないと合わない。
自分の工夫で良い種を作れる新テッポウユリだからこそ、東京市場でも勝負できる花が
作れる。規模は小さいが品質は高い花が生産できると信じてやっている。
炬燵での話が一段落して、畑を見せてもらうことにした。近くの畑にユリが植えてあり
、二段の倒伏防止ネットが掛けられている。「これが今年植えたユリだぃね…」と正一さ
んが教えてくれる。定植する時の苗はノビルのように小さい玉が出来ている。それを定植
して、水をやり、消毒をして育てる。大きくなるとネットに引っかかる。葉がネットの上
に出るように一本一本直してやる。
すぐ近くに二棟の大きなビニールハウスが建っている。そこに二年目のユリが咲いてい
た。六月の出荷が終わり、今咲いているユリは種を採るために残しておいたものだ。この
花は種用以外は近いうちに全ての花を摘み取るという。花を取って、球根を太らせ、花用
の球根として販売する。正一さんの球根は大きな花が咲くということで、直売場でもよく
売れるそうだ。「食べるユリとは違うんで、間違えられないように注意してるんだよ」と
のこと。
種用に残してある花の見事なこと。近づいて見ると、その豪華さはカサブランカにも劣
らない。さらに驚いたことにユリ特有の香りがない。ほのかな香りが漂っているだけで、
あのむせ返るような強い香りがない。「新テッポウユリは香りが少ないんで、それを喜ん
で買う人も多いよね…」とのこと。これはいい。
太い茎に大きな上向きの花が三から五輪つく、それが正一さんの目指すユリの花だ。毎
年そういう花の種だけを採る事で、自分の花が出来上がる。市場で評価が高いのは毎年の
地味な作業が積み重なっているからだ。
良い花を残し種を採る。来年はこの花の種から苗を作る。
ハウスの前で「ユリは手間がかかるよ…」と笑う正一さん。
ハウスの周辺は、正一さんが主な仕事にしている花卉栽培の畑になっている。ヒペリカ
ム、スモークツリー、桜、桃、アジサイ、アメリカハナノキ、チチブヤブサンザシ、オオ
デマリ、スグリなどが所狭しと植えられている。
最近は鹿の食害が多くなってきたので、特に桜の周辺に電気柵を設けている。ワナを掛
けるのだが、最近は鹿も利口になってワナには掛からない。
いろいろな話を聞きながら畑から家に戻る。奥さんの篤恵(とくえ)さんが、お茶と新
ジャガの塩ゆでを作って出してくれた。新ジャガがホクホクして本当に旨い。
お茶を飲みながら、正一さんに昔の話を聞いた。正一さんはこの家で生まれて育った。
男一人だったので家を継いだ。学校の同級生では正一さんだけが農業をやっている。高校
を出た当時は養蚕やコンニャク作りが主な仕事だった。養蚕やコンニャクが下火になるに
従って、何か別のものをやらなければならなくなった。
当時、県の改良普及員がいて、花卉の栽培をやらないかという話になり、正一さんは花
卉栽培の道を選んだ。二十三歳くらいの時だった。キュウリ栽培やナス栽培に行く人が多
かったが、あえて新しい道を選んだ。当時は枝物のアカメヤナギが中心で試行錯誤の毎日
だった。
そんな中、昭和四十五年、二十五歳の時に縁があって、河原沢の篤恵さんと結婚した。
篤恵さんは高校時代ソフト部で活躍した人だった。河原沢から小鹿野まで十五キロの道を
毎日自転車で通った、元気で明るく健康的な人だった。
結婚後十年くらいしてからユリの栽培を始めた。ユリは仲間四人で始めたのだが、当時
は値が良かった。花の出荷は東京の大田市場なので、全国が競争相手だ。先取りしながら
栽培しないと競争に負けてしまう。休みは年に一回あればいい方だった。篤恵さんは寝た
きりになった両親の介護をしながら働いた。若く、体力があったから出来たことだった。
二人の努力は周囲にも認められ、正一さんは村会議員を二期やった。今は子供が三人い
て、孫が七人いる。盆や正月はまるで民宿のようなものだと笑う。
篤恵さんは「今まで忙しかったけど、今は幸せだよね…」とほほえむ。夫婦二人が元気
だからこそ出来る花卉栽培でありユリの栽培だ。大雪でハウスがつぶれたりしたが、出来
る間は続けたいと明るく笑う正一さんと篤恵さんだった。