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山里の記憶
172
狩猟の話:磯田 剛さん
2015. 11. 20
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十一月二十日、秩父市の上影森に磯田剛さん(八十五歳)を訪ね、昔の狩猟の話を伺っ
た。剛さんは昭和二十五年、二十歳の時に狩猟免許を取り、それいらいずっと狩猟をして
きた。八十五歳になった今でも現役の猟師だ。「昔は免許なんてなくても大勢の人が銃を
持ってたいね。今じゃあ大変な事だけどねぇ…」と昔話が始まった。
銃を持つことが今のように厳しくなく、台所の壁に掛けてあったり、玄関に見せびらか
すように掛けてある家もあった。今では考えられないことだ。
剛さんは大滝の大輪で生まれ、三十歳まで大輪で過ごした。その頃は三峰や小双里、浜
平、強石(こわいし)や大血川の流域などが猟場だった。当時は奥秩父猟友会に三十人く
らいの猟師がいて腕を競っていた。終戦後の混乱期だった。
当時、剛さんは兄が作った会社で働いていた。しかし、多くの人は仕事がなかった。趣
味で狩猟が出来るのは限られた人だけだった。狩猟免許なども手続きは村の役場でやって
くれた。腕に決められた腕章をしないと狩猟が出来ない時代だった。
終戦後の混乱が落ち着いた頃、アメリカ兵の狩猟ガイドを頼まれてやったことがある。
アメリカ兵は主に所沢や横田基地に住んでいる人たちだった。ジープで乗り付けてきて、
大滝の奥に案内させられた。身振り手振りでのガイドだった。大滝の猟師はみな村田銃を
使っていたのだが、その村田銃を見てアメリカ兵達は大いに笑った。「そんな百年前の銃
でやっているのか! 」という笑いだった。彼等は基地内に射撃クラブがあり、ブローニ
ングという最新式の散弾銃を持参して来ていた。
いつも四・五人で来るのを、浜平から小双里・三峰方面に案内した。猟犬は剛さんが飼
っている犬を使った。一緒にやってみれば楽しいもので、いろいろ勉強になる事も多かっ
た。獲物の肉で唐揚げという料理を教わったのも彼等からだった。磯田家でヤマドリやコ
ジュケイの唐揚げが定番料理になったのもアメリカ兵との付き合いがあればこそだった。
居間で昔の鳥猟の話を聞く。面白い話がたくさん聞けた。
剛さんが獲ったヤマドリの剥製。何百羽ものヤマドリを獲った。
昔は大物を狙う猟師はほとんどいなかった。主に鳥撃ちの猟師が多かった。ヤマドリ、
コジュケイ、キジなどが獲物で、今では考えられないくらい数が多かった。
昔は山に「山作り」と呼ばれる焼き畑があった。食料難の時代、そこに蕎麦や小豆を作
って食いつなぐのが山里の人々の生きる術だった。
山作りの収穫前が猟師にとって鳥撃ちの好機だった。山の畑近くに「トヤ」と呼ぶ仮小
屋を作って鳥を待ち伏せた。トヤは細い木を組み合わせた三角錐形で、表面を杉の葉や枯
れ葉で覆い、中に忍んで穴から獲物を狙う小屋だった。
朝早く、暗いうちにトヤに籠もり、鳥が来るのを待つ。熟した蕎麦や小豆を狙って大き
な鳥がやって来るのを狙い撃ちする。ヤマドリもコジュケイもキジもよく獲れた。
一度で十何羽ものヤマドリを撃った事がある。猟に出れば必ず獲物があった。たくさん
獲れて持ちきれなくなり、木に吊しておいて後で持ち帰ったような事もあった。たぶん何
百羽と獲っただろうという。
それを助けてくれた猟犬も良かった。猟犬は鳥猟にはポインターが良かったのだが、高
かった。最初は日本犬を訓練して使っていたが、その後ポインターを使うようになった。
四十年ほど前、猟犬を繁殖させてみんなに配った事がある。その後もずっと犬を飼い続
けた。家にはいつも犬がいた。
三十年前の話だが、狩猟のトライアル競技(獲物を追い出す競技)で埼玉県三位になっ
たことがあった。本栖湖で全国大会があり、そこでもいい成績だった。全国大会には三度
出た。そのくらい猟犬を育てる事には情熱を注いだ。だからみんなが子犬を欲しがった。
猟犬が良かったから猟師としての腕も上がった。
獲ったヤマドリやキジはみんな食べるか知り合いに配った。肉は貴重品で、ヤマドリの
肉はみんなに喜ばれた。骨を出汁にして汁を作り、ヤマドリの肉を入れて蕎麦を食うのは
何ともの(最高の)おごっつぉお(ごちそうの意)だった。中でもコジュケイの肉はクセ
がなく最高に旨かった。キジの肉は少しクセがあって、少し堅かった。
正月や親戚が集まる席で出すヤマドリ鍋はみんな大好きだった。肉などない時代、これ
以上のごちそうはなかった。猟師の家ならではのおもてなし料理だった。
焼いて食うのも旨かったし、最高の肴だった。ヤマドリの唐揚げは磯田家の定番料理で
、塩味やしょうゆ味、うどん粉を衣にしたものや片栗粉を衣にしたものなど、いろいろ作
った。そんな中で一番評判が良かったのは、片栗粉を衣にした唐揚げだった。
当時は酒もなかった。闇で買った焼酎がほとんどで、中にはメチルアルコールを飲んで
目が見えなくなった人もいた。どぶろくを自分の家の炬燵で仕込む人も多かった。どぶろ
くは、密封した入れ物に入れておくと爆発するような事もあった。
今は獲物の鳥がいなくなったという。「昔は山に畑がえらあって、餌がいっぱいあった
かんねぇ、今は餌がなくて鳥が餓死しちゃうんじゃないかねぇ…」「昔はハクビシンやタ
ヌキなんかいなかったから良かったけど、今は夜にそいつらがみんな鳥を食っちゃうんじ
ゃねえのかなぁって思うんだぃね…」
人間が山の手入れをしなくなったので、大型の鳥たちは生きる場を失ったのではないか
と剛さんは言う。杉やヒノキの暗い林ばかりで、草原がない。畑もない。そういえばウサ
ギもいなくなったと聞く。環境が変わると動物の世界は大きく勢力図が変わる。今は鹿や
イノシシが我が物顔で山里を闊歩する時代だ。ヤマドリやコジュケイが潜んだ藪は彼等の
住まいとなってしまった。山作りをしなくなって、大形の鳥が激減したような気がすると
いうのはわかる気がする。餌がなくなれば鳥がいなくなるの道理だ。
鳥撃ち専門だったが、時々大物撃ちに誘われることがあった。大物は当時奥山に行かな
ければ獲物がいなかった。大滝の奥に行くことが多かった。三峰の大洞川や雲取の下、太
陽寺の前の山などに行った。三峰のシメさんやダイさんという古い人たちと山奥の岩屋で
火を燃して泊まったこともある。一泊しないと行けない奥山だった。
大物撃ちの獲物は鹿だった。イノシシは当時はいなかった。鹿は今でこそどこにでもい
るが、当時は本当に奥山でないといなかった。いても獲れるかどうかわからない貴重な獲
物だった。立派な角を持った雄鹿が獲れたりすると意気揚々と帰って来たものだった。
熊猟はやったことがない。熊穴を回る猟だが、穴も知らないし、行ったこともない。熊
は当時でも本当に貴重な獲物だった。
最近は害獣駆除が多くなった。駆除したイノシシも多い。
熊も里に出て来るようになった。熊の駆除も増えて来た。
禁忌の話を聞いた。弁当に梅干しを入れるのは御法度だった。新人がそういう事を知ら
ずに梅干しを持って来て、昼にみんなに配った事があった。ベテランに「何だこんなもん
持って来やがって!お前のお陰で今日はダメだったんだ!」って怒られて全部ぶちまけら
れた事があった。新人は何が何だかわからずビックリしていた。
梅干しはしょっぱい。猟がしょっぱくなるの嫌ったのがいわれだと剛さん。他にも、猟
に出かけるときウサギや猿を見ない方が良かった。見た時もウサギは「ナガイ」、猿は「
アニィ」と呼び変えて話した。他には鳥のカケスも見ない方が良かった。
猟をやっていて死にかけた事があった。シャリバテだ。昼を持たずに猟に出て面白くて
どこまでも行っていた時、急に腹が減って冷や汗が出てきて歩けなくなってしまった。や
っとの思いで三峯神社までたどり着いて助けてもらった事があった。その後も一度そんな
事があった。それ以来、必ず猟に出るときは塩とマッチを持って行くようにしている。い
ざという時は、鳥を撃って焼いて食えばいい。シャリバテは前兆がなく、突然来るのでや
っかいだが、こういう準備をしていれば怖くない。
射撃や猟犬コンクールのトロフィーがたくさん飾られていた。
奥さんも交えていろいろな話に花が咲いた。
最近は駆除が多くなった。猟期以外の四月から十一月まで、ずっと害獣駆除をやってい
る。平成十七年と二十年には熊を駆除した。最近は熊も平気で里に出て来る。栗や柿の被
害が多い。昔は奥山でしか見なかった鹿やイノシシも数が増えて畑を荒らすので駆除して
いる。猟師に若い人がいないので駆除もそろそろ出来なくなるんじゃないかと思ってる。
銃の許可が出ないし、試験は難しいし、三年に一回の申請が必要だ。猟師の平均年齢は
すでに七十五歳を超えている。早急に何か対策を考えないと大変な事になりそうだ。
剛さんはすでに八十五歳。狩猟のおかげで充実して楽しい人生だったという。狩猟を通
じて多くの人と結びつきが出来た。しかし、今後の狩猟を取りまく環境は今までのように
はいかないかもしれない。