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山里の記憶174


栃のアク抜き:太幡伸男さん



2015. 12. 04



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 十二月四日、秩父の横瀬に栃のアク抜きの取材に行った。取材したのは太幡(たばた)
伸男さん(七十五歳)だった。                          
 栃の実のアク抜きには様々な方法がある。家々の事情によって変わるし、近くに沢があ
るとかの環境によっても変わる。今日伺った横瀬地区は山の中ではなく、比較的新しい住
宅地だった。「こんな場所で? 」という疑問は、伸男さんが大滝の栃本出身と聞いて氷
塊した。伸男さんは住宅地で出来る方法を自分なりに研究してアク抜きをしていた。  
 普通は年に何度かの「とち餅つき」に合わせて一ヶ月くらい前からアク抜きをするもの
なのだが、伸男さんは出来る時にアク抜きして、冷凍保存しておき、とち餅をつく。  
 昔は冷凍技術がなかったので、その都度アク抜きをするしかなかった。今は冷凍保存が
できるので、いつでもとち餅をつく事ができる。合理的なやり方だ。         

 アク抜きの準備段階の一つは材料確保だ。山に落ちている栃の実を拾い、虫出しをして
実を取り出して天日でカラカラに干す。伸男さんのやり方は拾った栃の実の皮をむく作業
から違っている。栃の実は九月中旬から下旬にかけて熟して落ちる。落ちた栃の実を拾い
、家に帰ってすぐに水を張ったバケツに入れる。ひと晩水に浸けて虫を出す。     
 虫出しした栃の実を一升ずつ土鍋で温める。温度は六十度から七十度になった段階で火
から下ろして皮をむく。皮むきは昔は石で叩いて割り出していたのだが、今はナイフを使
っている。ナイフで半分に切り割り、中身をマイナスドライバーでほじくり出すという方
法だ。石を使うには熟練した技術が必要で、なかなか丸い中身が取り出せず割れてしまう
事が多かった。この方法に変えてから失敗はなくなったし、大きさも揃う。大きさが揃っ
ているので、アクの効き方が均一になり、失敗する事がなくなったという。      
 皮をむいた栃の実は天日でカラカラに干す。横瀬周辺では栃の実を干す人はなく、伸男
さんも「それは栗ですか?」などと聞かれるという。ここでは栃の実を見たこともない人
も多い。「とち餅を作るのが大変だっていう事を知らない人が多くって、価値がわからね
ぇんだぃ…」と困ったように言う伸男さん。その気持ちはよくわかる。        
 こうしてカラカラに乾燥させた栃の実は大きな収納箱に入れて倉庫に保管している。ア
ク抜きは古い物から順番に使うようにする。                    

 準備作業その二。栃の実のアク抜きには木灰が必要なのだが、伸男さんはその木灰を特
別に作っている。一年かけて雑木の薪を準備し、十月か十一月の風のない日にそれをドラ
ム缶で燃す。灰をつくる為だけに約一週間くらい火を燃し続ける。木灰は針葉樹が混じる
とダメで、楢などの雑木だけを燃した灰でなければならない。            
 今は石灰でアク抜きする人がいるが、あれでは本当のとち餅にならない。伸男さんは「
雑木の灰でなきゃダメだいね…」と頑として言う。伸男さんの小屋には三年分の薪が山積
みになっている。薪を燃やしてドラム缶に出来た灰はフルイで丁寧にゴミを取り除き、袋
に入れて保管する。                               
 準備作業その三。カラカラに乾燥させた栃の実は、まず二十日間くらい水に浸けて、あ
る程度苦みを抜き、柔らかくする。その間にも一日に一回か二回水を取り替えなければな
らない。栃の実からヌルが出るし、汚れもきれいにしなければならない。       
 ここまでの準備が終わって、やっと今回の作業が出来るようになる訳だから、とち餅作
りは本当に大変なんだと実感する。「手間がかかるんだぃ」という言葉が実感できる。 

乾燥させて保存してあるカラカラの栃の実。五年分もある。 沸騰した湯を入れて栃の実を温める。栃の実は布袋に入っている。

 今回はこれだけの準備をした上で行うアク抜きの最終章を取材した。伸男さんが準備し
たのは大きな木桶とカマドにかけた釜。釜にはたっぷりの湯が沸いている。木桶の中には
二十日間水に浸けて柔らかくした栃の実九、四キロが二つのタオル地の袋に半分ずつ入れ
られたものが入っている。釜の湯が沸き、伸男さんは全部の湯を木桶に注ぎ込む。モウモ
ウと白い湯気が立ち上がる。湯を入れ終わるとすぐにフタをして保温する。二十分したら
湯を取り替える。これを六回繰り返し、最後に灰を入れて終了となる。        
 アク抜きで使う灰は、倉庫で大切に保管するが、どうしても湿気を吸ってしまう。そこ
で、鍋に入れた灰を火鉢で暖め、沸騰するくらいまで熱くする。熱い灰でないとアク抜き
は上手くいかない。これも今までの経験からの知恵だ。               

 釜に新しい水を入れ、カマドに木をくべる。ここで作業が一段落し、伸男さんに話を聞
くことが出来た。倉庫の中を案内してもらい、カラカラに乾燥させて保管してある栃の実
を見せてもらった。大きな収納箱いっぱいの栃の実が何箱も並んでいる。「そうだねえ、
五年分くらいあるかさあ…」とのこと。中には防虫剤が入っている。         
 栃の実の皮をむく台をみせてもらった。ヒノキの丸太が作業しやすい高さに切断され、
キャスターが付けられている。重い丸太もこうすれば動かしやすい。作業の効率を考えて
いろいろ工夫している。いろいろ話しているうちに二十分が経過した。釜の湯も沸いた。

 木桶の蓋を取り、庭の砂利上に湯を捨てる。またしてもモウモウと白い湯気であたりが
包まれる。木桶の中に釜から湯を注ぐ。湯気がすごいことになっている。中がどうなって
いるのか覗いたが何も見えない。                         
 湯を注ぎ終わって蓋をして、釜に水を入れて、カマドに木をくべる。一連の作業が流れ
るようだ。車庫のシャッターに鉛筆で回数を書き込む伸男さん。「書いとかないと、何回
目か忘れちゃうんだぃね…」これが二回目のお湯入れだった。            
 この方法は塩沢出身の山中嘉親(よしちか)さんの指導で研究したやり方で、伸男さん
は十年間このやり方でアク抜きを失敗したことがないという。栃本の小河さんがこんな方
法でやっているという話を聞き、二人で研究したものだという。           
 秩父名物としてとち餅を食べる人は多いが、栃の実を餅につくまでがこれほど大変だと
知っている人は少ない。少し間違えば餅にならないアク抜きの微妙さ。アクを抜きすぎて
も残しすぎてもとち餅ではなくなる。                       

モウモウと立ち上がる湯気。お湯入れは二時間かけて六回くり返す。 最後に木灰を入れ、こうして棒で突いて全体になじませる。

 お茶を運んできてくれた奥さんの節子さんに話を聞いた。奥さんは横瀬の生まれで、こ
ういう栃のアク抜き方法は知らなかったそうだ。近所にもとち餅を作る人はいない。手伝
うようになって少しずつ栃の実のアク抜きがわかってきたという。「皮むきを石でやって
た時はよく手を打って痛かったもんだぃね…」と笑う。               
 伸男さんが石を使わず、温めた栃の実をナイフで切って、ドライバーでこじり出す方法
に変えたのは石で手を打つ奥さんを思いやっての事だった。             

 その後も作業は順調に進み、最後のお湯入れになった。ここで伸男さんは奥さんに声を
かけて手伝ってもらう。奥さんが釜のお湯を木桶に注ぎ、伸男さんは鍋の灰をスコップで
木桶に入れる。途中で何度か棒で突いて灰が均等になじむようにする。そして、全部の湯
と灰を入れた木桶に蓋をして、布団でくるみ始めた。「こうやって二日間保温するんだぃ
ね、ゆっくり冷めるようにすることでアクが効くんだぃ…」と言いながら、布団でくるん
だ木桶を縄で縛って固定した。その上から大きなビニール袋をかけて念入りに保温し、台
車に乗せて、そのまま倉庫の片隅に運んで今回の作業が終了した。          
 二日後に冷めた木桶からタオルの袋に入った栃の実を取り出し、灰を洗い流して冷凍保
存する。使うときは必要な分だけ取りだして餅につく。               

布団をかけて縄で縛り保温する。さらにこの上からビニール袋で包む。 冷凍保存した栃の実。必要な分だけ出していつでもとち餅をつける。

 伸男さんが冷凍してある栃の実を見せてくれた。「ひとくち食ってみ」と言われ、恐る
恐る凍った栃の実をかじってみた。乾燥しただけの栃の実をかじった事があるが、その時
は口がひん曲がるほど苦かった事を思い出し、少しだけかじった。歯で噛むと少し苦いが
食べられない程ではない。                            
「このくれえ苦いのが餅についた時にちょうど良くなるんだぃね…」と笑う。確かにこの
苦さだったら餅にしたら旨そうだ。                        
 餅につくのは正月前。九、四キロの栃の実はアクが効くと出来上がりで八キロに減って
しまう。これはちょうどとち餅四臼分の実になる。二升のもち米に伸男さんは一、八キロ
の栃の実を使う。蒸かすのも気を使う。四十分以上蒸かすと水飴のようにへたれる。絶対
に四十分以上蒸かさないこと。また重ね蒸かしもだめだ。これだけ手間のかかるとち餅作
りだからこそ失敗したくないのだという。どの段階で失敗しても捨てるしかない。   
 「とても商売じゃ出来ないよね。手がかかりすぎるし、いくら払うからって言われても
嫌だねぇ…」だからこそ、この味の奥深さを知って欲しいのだという伸男さんだった。