yamazato-176.html
山里の記憶176


花豆:千島充子さん



2015. 12. 06


絵をクリックすると大きく表示されます。ブラウザの【戻る】で戻ってください。

 十二月六日、大滝の大輪に花豆の取材に行った。取材したのは大輪・山麓亭の千島充子
さん(七十四歳)だった。この日は二回目の取材で、花豆を煮ているところを取材させて
いただいた。充子さんの煮る花豆は山麓亭で出す食事に箸休めとして出される他、お客様
への営業用のお土産やお茶請けに出される。いわば山麓亭の顔になっている味だ。   
 約束の時間に伺うと充子さんは台所で大鍋の花豆を見ていた。聞くと、煮上がって冷ま
した花豆を煮返しているところだという。さっそく一つ味見させてもらった。煮返すまで
もなく、ふっくらと柔らかく甘い花豆に出来上がっていた。             
 「充子さん、これ旨いですよ」                         
 「あら、そう。じゃあ火を止めて休ませましょうかね…。お茶でもどうですか…」  
 ということで、お茶を頂きながら話を聞かせてもらった。             

花豆を煮終わってお茶を飲みながら話してくれた充子さん。 二度目の煮返しを終えた花豆を頂く。ふっくらと甘い花豆だ。

 充子さんの花豆の作り方は、以下のようなものだった。              
 材料の花豆は長野県の南牧村から仕入れている。約二キログラムの花豆を一回に煮る。
まず、花豆を大鍋に張った水に浸け、三日間水を吸わせる。この間、よくかき混ぜながら
、何度か水を取り替えてアクを取り除く。                     
 暖かい夏は二日くらいでも大丈夫。また、急ぐときはお湯を使うこともある。    
 こうして三日かけて充分に水を含んで大きくなった花豆を大鍋で煮る。煮るのは夜が多
い。四時間くらいかけてじっくり煮る。付きっきりで様子を見なければならないので時間
のある夜に煮ることが多くなる。                         
 業務用のガスは火力が強く、水もすぐに減ってしまうので、水を足しながら煮る。練炭
などで煮る人もいるが、この火力にはかなわない。ふっくらと煮上がるコツはこの強い火
力にある。時によっては三時間くらいで終わることもある。             

 翌朝、アクを除くために鍋の煮汁を全部捨てて新しい水に替える。水は豆が隠れるくら
いのヒタヒタでいい。これを中火で煮返して一旦冷ます。冷めた花豆を夕方もう一度煮返
す。この時に味付けをする。味付けは砂糖二キロ弱と塩小さじ四杯くらいを入れて煮る。
 楊枝で楽に刺さるくらいに柔らかく煮えたら出来上がり。大鍋のまま保管するが、夏は
タッパーに入れて冷蔵庫で保管する。                       
 この花豆はあちこちに配るので、配布用のタッパーや容器がたくさんある。出来るそば
からどんどん配る。みんな喜んでくれる。                     

 充子さんが花豆を煮る大鍋は、大きくて厚く重い。これを小柄な充子さんが動かすだけ
でも重労働だが、この厚い鍋でないとふっくら煮えないという。業務用ガスの強い火力と
大きく厚い鍋が花豆をふっくら煮上げるポイントなのだ。              
 「あたしがやらないと誰もやらなくなるんでねぇ…これはあたしの仕事なんだぃね」充
子さんが花豆を煮るようになってもう四十年くらいになるという。          
 充子さんは花豆を一年中煮ている。季節によって変わる煮上がり時間や味付けも感覚で
わかるようになった。食べた人が「どうやって煮てるんだい? 」と聞くが、どうやら同
じように煮ても同じ味にならないらしい。道具立ても違うし、煮る量も違う。同じ味にな
らないというのも考えてみれば当然の話だ。                    
 最初は南牧村の人が三峯神社に来た時に「いい豆があるんだけど、豆をやってみないか
い…」と言われて見に行った。それから仕入れて煮るようになったのだと言う。    
 「あたしが運転してマイクロバスでよく仕入れに行ったもんだぃね。花豆も中津芋もい
っぱい仕入れてねえ…」峠越えの細い山道をマイクロバスで何度も走り抜けた。そんな事
も今では懐かしい思い出だと話してくれた。今は大量に宅配便で送られてくる。    

花豆を配るために準備してあるパックいろいろ。 講中の人々が一年に一度交換にやってくる三峯神社の「ご眷属」。

 元々山麓亭は三峯神社表参道の二十一丁目の清浄の滝で茶屋をやっていた。画家の横山
大観が参拝した時に立ち寄ってくれた店でもあった。横山大観は山駕籠に乗っての参拝だ
った。                                     
 昭和十四年にロープウェイが出来、表参道を登る人が激減した。それを契機に麓の大輪
に降りて、参道登山口前に店を構えた。当時の話をご主人の茂さんに伺った。     
 当時の三峯神社参拝は講中(こうじゅう)の人が多かった。最高で七百人もの人が加わ
っている講中もあった。講中はご眷属の引き替えが参拝の一番の目的だった。年に一度取
り替える札のようなもので、その交換にやってきた。                
 昔は徒歩だったので、前日に秩父影森・贄川宿に泊まり、翌日昼に大輪に来て昼食を済
ませて表参道を登り、三峯神社に参拝する人が多かった。大正七年に道路が開通すると、
バスや自転車でやって来る人が増えた。                      

 講中は決まった店で休むことになっていて、店で昼食を食べてから身支度を整えて奥の
院を目指した。店でゾウリを手ぬぐいでワラジのように補強して登山する人が多かった。
女の人は手ぬぐいで姉さんかぶりをして登っていった。電車で来る人などはボストンバッ
グを大風呂敷で包んで背負って登る人もいた。                   
 講中が重なることも多く、店の人も忙しくて対応を間違えるような事もあった。ある時
今来たばかりの講中に片付けをしている姿を注意された。「今来た客を掃き出すのか!」
これには平身低頭、詫びるしかなかった。忙しさは時にそんな混乱も招いた。     
 表参道を山駕籠で登る人も多く、近在の人が駕籠かつぎをした。山駕籠を使う人は東京
や横浜の人が多かった。山駕籠は竹製で軽く作られていたが、急坂だったため、かつぐ人
の背の高さが違っている方が楽にかつげた。中には「昔はこんなに揺れなかった」などと
文句を言う人もいた。かつぐ人も大変で、持っている竹の杖で休むときに駕籠を支えて体
を休ませるようにしていた。                           
 昭和十四年にロープウエイが出来て、山駕籠の組合は解散したが、一部は観光カゴとし
て残った。しかし、結局商売にはならなかったようで、いつしか消えていった。    
 ロープウエイが出来てからは、バスで来てロープウェイで神社に向かう人が増えた。 

 当時の大輪には山麓亭をはじめ、紅屋・吉田屋・大黒屋・磯田屋・増田屋・大夛屋(う
どん屋)などの店の他、大谷・山口・おけさ屋という自転車預かり店があった。当時、道
が良くなったのでバスが走り出し、自転車で来る人が急に増えた。その自転車を預かる店
が三軒も営業していた。どの店も味噌おでんやラムネ・生菓子・サイダー・リボンジュー
ス・ところてんなどを扱っていた。                        
 三峯神社に講中が泊まると、翌日神社では奉行が係の者に昼食のおむすびを人数分社員
が背負って送った。中道送りというのは表参道二十六丁目までの送りだった。ふもと送り
はふもとまでの送り。へんちゅうかん送りというのは三峰口送りともいい、三峰口の駅ま
で人数分の昼食を背負って丁重に送ったものだという。               
 講中には代参講社というものもあった。地域の代表で参拝して地域の数だけお札を受け
るというもので、徐々にこういう形が増えていった。                

大輪の繁栄を記憶する三峯神社の大鳥居。ここから表参道に入った。 赤い橋を渡って表参道へ。過去の栄光の道も今は人影が少ない。

 ロープウェイが出来たのは良かったが、定員が二十人と小型だった。輸送効率は悪く、
長い列が出来た。神社の用事が終わると競争で下るロープウェイ乗り場に並ぶような有り
様だった。乗車時間は八分だが、待ち時間が長かった。               
 講中の人が神社に宿泊する際、天候が急変することもあった。そんな時は翌朝傘をかつ
いで神社まで登って届けるサービスもあった。これは山麓亭と大島屋だけがやっていた。
 そんな活気ある大輪も昭和四十二年三峯観光道路が出来てほとんどの参拝客が車で走り
抜けるようになってしまった。更に平成十九年ロープウェイ廃止となり、今は閑散とした
参道入り口に建つ立派な石造りの鳥居が過去の繁栄を偲んでいる。表参道への橋も何代も
変わっているが、渡る人はどんどん少なくなっていった。              

 山麓亭は今、三峯神社に近い山頂に店を構えている。正月はとてつもなく忙しい。充子
さんも「店番でいいから…」と言われて手伝うことが多い。初詣の客が多く、大晦日・元
日から五日くらいまで忙しい。正月休みで実家に戻ってきた子や孫も店を手伝い、夜にな
って実家に集まる時だけが憩いの時間だという。                  
 この家に嫁いで五十二年。「よくやったいね…」という充子さんの手は小柄な体に似合
わないゴツゴツした手だった。「働きどおしでねえ…、手がこんなんなっちゃって…」 
 見せてもらった両手の指は、節くれだって曲がり、華奢な体に似合わないものだった。
 働き通した五十二年がその両手の形になっている。本当に働きもんの手だった。