山里の記憶179


おしとぎ:黒沢まり子さん



2016. 2. 24


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 二月二十四日と二十五日、泊まりがけで「おしとぎ」の取材をしてきた。おしとぎは小
鹿野町両神、出原(いでわら)地区の諏訪神社祭礼「天気占い」の神事の後に配られる神
饌(しんせん)のこと。米粉ときな粉を練って重ねたケーキのように見える供物だ。  
 そもそも「しとぎ」とは水に浸した生米をつき砕いて種々の形に固めた食物のこと。神
饌に用いるが、古代の米食法の一種と言われている。また、菓子・餅の祖神を祀る滋賀県
志賀町の小野神社で千二百年間神饌とされている起源の古い食物だ。通常はしとぎ餅と呼
ばれ米粉だけで作るが、出原のおしとぎは米粉ときな粉で作られるのが習わしだ。   

 取材したのは出原・正喜屋(まさきや)の黒沢まり子さん(六十八歳)だった。おしと
ぎの取材は三年越しだった。昨年取材するはずだった方が亡くなり、もうダメかと思った
のだが、他の家でも作っている事を知り急遽取材を申し込んだものだった。      
 出原集落は昔三十軒ほどの家があったのだが、今は七軒になってしまった。お祭りの参
加者も年々少なくなっている。まり子さんのご主人黒沢富夫さん(六十九歳)が「出原天
気占い保存会」の会長で、集落の行事保存に力を注いでいる。会長の奔走でなんとか成り
立っている行事だ。                               
 お祭りの前日に作るということで、前日二十四日の二時半にご自宅に伺った。娘の富美
恵(ふみえ)さんが来るのを待って作業が始まった。                

これからおしとぎを作る富美恵さんとまり子さん。 きな粉をこねる富美恵さん。しっとりするまでこねる。

 大きなボールにきな粉を入れてこね始める富美恵さん。まり子さんが横で手伝う。きな
粉をこねるのは五十度くらいのお湯。この湯加減が大事で、温度が違うと固まらなかった
り柔らかすぎたりするという。きな粉の香りが辺りに漂う。             
 昔は大豆を煎って、石臼で細かく挽き、それを練って固めていた。「今はそんな事出来
ないからきな粉を買ってきて作るんだぃね…」と笑う。大豆を石臼で擂るときは三粒ずつ
臼の穴に入れて擂ったものだった。早く終わらそうと五粒も入れると「手を抜くんじねぇ
!」と、おばあさんに怒られたという。                      
「石臼で挽いた粉は粒が粗くって、なかなか固まらなくて困ったいね…」とまり子さん。

 きな粉がいい感じに固まった。富美恵さんが二つに割って見せてくれた。「このくらい
しっとりしてないと、後でひびが入っちゃうんだぃね…」まり子さんが丸いお盆のような
ものを出してラップを敷き、そこにきな粉を練った固まりを押し込んで丸い形を作る。 
 集落では昔は全ての家でおしとぎを作っていた。そして、それは男衆の仕事だった。い
つからか女衆が手伝うようになり、黒沢家では女衆がやる仕事になってきた。     
「昔は男衆が手で丸めて作ってたんだぃね。今でも他の家じゃあそうやってるよ。うちは
もう手抜きでさ、この型に入れて作るようにしたの。この方がきれいだしね。まあ、今風
ってことで…」富美恵さんとまり子さんが声を揃えて笑う。             

 大きなボールには米粉が一キロ入った。今度は四十度のお湯でこねる。これも温度が大
事だ。熱が通り過ぎないように、要は生の状態のままで作り上げなければならない。手際
よく練り込まれた米粉が固まると、先ほどのきな粉に重ねるように乗せる。下が茶色で上
が真っ白なケーキ状のものが出来上がった。美味しそうに見えるが、味はない。    
 これを切り分けて明日の参列者に配る。生のまま食べると一年間無病息災で過ごせると
いう神饌だ。昔はこれを囲炉裏で焼いたりして食べたという。生なのでたくさん食べると
問題があるので手を加えて食べたそうだ。                     
 大きなおしとぎとは別に、二つの小さなおしとぎを作った。「一つはうちの神棚用で、
もう一つはお諏訪様に供える分だぃね…」とのこと。小さな茶と白の重ね餅姿がいい。 
 出来上がったおしとぎには半紙を二枚重ねて乗せておく。神饌として穢れから守る意味
と、おしとぎからにじみ出る水分を取り除くためのものだ。夜中に何回か半紙を替えると
いう。これを見ても、全体が本当にしっとりと練られていることがわかる。      
 米粉の餅は水分を下のきな粉が吸うので、水分を多くして柔らかいくらいがちょうどい
いと富美恵さんが言う。                             
「昔はよおっぱかに作ったもんだぃね…」とまり子さん。よおっぱかとは夜なべ仕事のこ
と。囲炉裏の回りで、よおっぱか仕事をしながら過ごした昔の暮らしを思い出した。  

途中で小さいおしとぎを二つ作る。自宅の神棚用とお諏訪様用。 おしとぎの完成。茶色と白の二層で、まるでケーキのよう。

 二月二十五日お祭り当日は快晴で暖かかった。十時に伺うと、集落の中程に大きな祭り
旗が二本立っていた。一つは諏訪大神、もうひとつは小鷹(こたか)大神の文字。保存会
会長の富夫さんが忙しく動き回るのに付いて回りながらいろいろ話を聞いた。     
 平成二十三年に火事で焼けたお堂を再建した話や、ご神体が鉄砲水で寄居の先まで流さ
れて戻ってきた話などなど楽しい話をたくさん聞くことが出来た。          
 まだ観光客やカメラマンが誰もいない時間だった。富夫さんがふと「ご神体を見てみる
かい? 」と言う。「いいんですか? もし、いいんだったら是非…」というと、お堂の
中にずいっと入って二体のご神体を運び出してくれた。               
 ご神体を見て驚いた。一体は法体で、もう一体が烏天狗だったのだ。しばらく声が出な
かった。「お天狗様じゃないですか!」「ああ、そうだいね。昔は子供が背負ったりして
遊んだもんだったいね…」                            
 ご神体がお天狗様で、それを子供が背負って遊ぶ……なにかすごいものを見てしまった
ような不思議な感覚が残った。小鷹様とお諏訪様、二体のご神体のお姿。写真を撮り、丁
寧に拝んで元に戻してもらった。                         

 二時からの祭礼を前に、家ではまり子さんがおしとぎに包丁を入れていた。包丁はパン
切り包丁で「これが一番まっすぐ切れるんでね…」とのこと。            
 参拝者を見越して全員に行き渡るように数を調整する。「他の家でも作るし、余っても
困るし、いろいろあるからね」と慎重に包丁を入れてゆく。             
 切れ目を入れたおしとぎは、このまま神社に納められ、祭礼の終わりに参列者に配られ
る。切った切れ端を少し頂いて食べてみた。神饌ということもあり、まったく味付けはし
ていない。食べてみたが、食べ物としては素材だけの味しかしないという微妙なもの。 
「これを生で食べるのか…、ちょっとためらうかも…」という印象だった。      

 二時の神事開始までの時間、出原集落を歩いて回った。石垣の壮大さに驚き、学校の校
舎に驚き、山向こうにあったという隠し山畑の話に驚き、何棟もある立派な蔵にも驚かさ
れた。この狭い耕地に三十軒もの家があった。学校に通う子供は百人を超えていた。  
 この奥山にこれだけの家があり、仕事があり、食べ物があった。しみじみとすごい事だ
と思った。秩父には沢を奥に詰めた最後の集落が異常に大きいところが多い。大滝の中津
川、日尾の長久保、皆野の上日野沢などなど。古くからの信仰も篤い。もしかしたら落人
伝説などとの関連もあるのかもしれない。                     

 米のない出原地区の祭礼の神饌がしとぎ餅であることの不思議。本来米だけで作るしと
ぎが、ここではきな粉と二段になっている不思議。                 
 しかし、米粉がお諏訪様で、きな粉が小鷹様と考えると納得できる。その昔、米の文化
を持つ漂白の人々がたどり着いた場所には、修験を文化に持つ土着の人々がいた。諏訪大
神と小鷹大神を信奉する両者が融合し、共に暮らしを立て、栄える象徴としての社(やし
ろ)を建て祭礼を行う。その神饌がおしとぎであったとすれば、ごく自然な事だといえる
だろう。薄川最奥集落に伝わる小さな社(やしろ)の祭礼に参加しながら、そんな壮大な
古代の物語が頭に浮かんだ。                           

お天気占い神事が始まった。的に矢を当て、一年の天気を占う。 神事の後におしとぎが配られた。生で食べると一年間無病息災に。

 二時からの祭礼と天気占い神事はカメラマンがたくさんいて、後ろから撮影するのも大
変だった。今日の目的は最後に配られるおしとぎを頂いて持ち帰ること。集落の人がビニ
ール袋を配ってくれ、それに三つのおしとぎを富夫さんから入れてもらった。祭礼が終わ
り、参拝者全員におしとぎが配られ、神事が終わった。               
 まり子さんと富夫さんに挨拶をして帰路についた。この祭礼と神事がこの先何年続けら
れるのだろうか、と茫漠とした思いが山路を下る車の中で浮かんでは消えていった。  
 家に帰り、家内とおしとぎを一口ずつ生で食べ、今年一年の無病息災を祈った。残りの
おしとぎは団子にして焼き、みたらし餡をかけて食べた。手をかければ美味しい食べ物に
なる神饌だった。