山里の記憶
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竹縄(たかなわ):若林利明さん
2016. 5. 15
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五月十五日、東秩父村・萩平に竹縄(たかなわ)の取材に行った。取材したのは若林利
明さん(七十五歳)だった。地区の公民館で利明さんや梅澤邦夫さん(六十四歳)の話を
聞いた。竹縄は昔からこの地区の農閑期に作られており、萩平・皆谷の多くの家が竹縄作
りを副業にしていた。明治二十七年ころ、朝日根の大工・飯野邦之助が画期的な竹縄より
掛け機を発明し、一気に製品の品質が向上した。強靱で柔らかく、水に強い竹縄は軍需品
としても需要があり、また様々な場面で使われた。ナイロン製のロープが出来るまでは最
強のロープだった。
利明さんの家でも六十年前くらいまで竹縄を作っていた。昭和三十年代まで、多くの家
で竹縄を作り、製品として出荷していた。萩平には二十八軒の家があったが、そのうち二
十軒の家に前述のより掛け機があり、最盛期は盛んに竹縄が作られた。萩平で二十軒、皆
谷で十軒の家が竹縄を作っていたと記録に残っている。
こうして作られた竹縄は様々な用途に用いられた。牛馬のくつわ、わら屋根の隅叉首や
屋中竹の緊縛、盆踊りのやぐら・御輿・山車の結束、棺桶の結束、護岸の杭の結束、砂防
の蛇籠結束、漁網や舟綱の結束、つるべ井戸の綱、自在鉤の綱、かぐらさんの綱、上族棚
の結束など多岐にわたった。水に浸ければ柔らかくなり、乾燥すれば固くなる性質を持ち
、最高の強靱さと緊縛力を持っていた。
竹縄作りは盛夏の竹伐りに始まり、油抜き、竹割り、乾燥、竹へぎ、縄ぶち、より掛け
へと進み、竹伐りから竹割りまでは男衆の朝仕事、竹へぎ以後が女衆の仕事だった。
材料の竹はマダケだよと言って見せてくれる利明さん。
この厚く重い鎌が竹割り専用の鎌。末口に打ち込んで一気に割った。
竹縄の竹はマダケとハチクを使い、孟宗竹は使わなかった。まだ若く柔軟性のある竹を
伐るのだが、その目安は下段の最初の葉がトンボに開いた時から三日間が伐り時だった。
男衆は朝暗いうちから山に入って竹を伐る。竹林には肥やしがたっぷりと撒かれ、竹は
太く育っている。厚い専用の鎌で刈り取るように伐り倒し、枝下ふたひろ半(三、五m)
で切り、他は畑の肥やしにする。太いものは三本、細いものは五・六本を束にした。
男衆が山から運んだ竹束は生木で組んだ台の上に置かれ、下には大量に大麦のムイカラ
(麦わら)が置かれる。火を付けると一気に高温の炎が竹を包み、ボカンボカンと竹が割
れる。これは竹の油抜きという作業で、裏表二度のムイカラ焼きをする。若い竹を焼くこ
とで成長を止め、竹縄の材料にする最初の工程だ。
焼いた竹をそのまま熱いうちに竹割り専用の鎌で割る。大割りから小割りまで熱いうち
に行う。最終的にすべての竹を一、五センチ幅に小割りする。この小割り竹を「さっぱ」
という。丸竹一本から十二本のさっぱが取れた。
さっぱは肉の方を上に向け一本一本台に並べて天日で干した。晴天で一日干すと肉を包
むように丸くなる。夕立や朝露に当てないように出し入れし、一週間から十日も乾かすと
白く干し上がる。この乾燥が不十分だと貯蔵中にかびたり虫に食われたりする。干し上げ
たさっぱは囲炉裏の上の二階に置き、湿気を避けるようにした。こうしておけば二年は持
つので、秋から春の農閑期に持ち出して竹縄作りに使った。
カラカラに乾燥したさっぱを水に浸ける作業を「竹して」という。結束した一束約五十
本くらいのさっぱの縄を弛めて重石を二・三箇所にして沈める。さっぱの具合を見ながら
夏で一週間以上、冬は川で十日以上、泉で一週間以上くらいの目安で竹を柔らかくした。
萩平では湧き水約八箇所、沢の水四箇所くらいの共同竹して場があった。戻した竹はミ
ナガワという薄手のムシロにくるんで乾燥を防いだ。
たけへぎは「ウスバ」という四角い両刃の刃物を使って、厚さ〇、五ミリ程の薄片「へ
ぎ」を作る作業のこと。薄く平らに均一にへぐ技術が求められ、その出来上がりは製品の
良し悪しに直結した。そのため、専門の職人がいたほどだった。
たけへぎはまず節を落とし、内皮を剥ぎ落として捨てる。次に全体に幅を一、五センチ
に統一する。この時に削り落とした屑が「そぎだし」で、表皮のついた細い屑は「めだけ
」と呼ばれ、次の工程「片より」の芯になる。
めだけを除いた大量のそぎだしで竹松明(たいまつ)やつけ木、火縄を作った。竹松明
はそぎだしを集め経六センチ長さ五十センチに固く束ねて作った。良く燃えて火の粉が飛
ばず安全だった。火縄はそぎだしを集めてよく叩き、繊維にして木綿屑を混ぜて三本より
の縄にしたもの。野良仕事や竹伐りの時腰に吊して火種や蚊いぶしに使った。竹は少しの
無駄もなく利用された。
ウスバを使って薄くはいだ材料の「へぎ」。これを縄にする。
くもでを使った縄ぶちを実演してくれる利明さん。
たけへぎをする女衆はへぎを右に、そぎだし(屑)を左にと区別して分けた。竹末の木
口にウスバを当て、深さ〇、五ミリの切り口を横につける。切り口から先を下に押すと切
り口から薄く剥げる。切り込みが不均一だと厚さも不均一になる。均一に剥ぐのが技で、
一人前になるには十年かかったという。
剥げた薄片を手前に引くと薄く剥がれる。節の所はウスバを横に使って裂き、厚さを一
定に保つ。この一枚を先に進めず、切り口をつけては剥いで何枚も同時に薄く剥ぐ。そし
て順次さっぱを送りながらへぎ終わる。一本のさっぱから七枚から十枚のへぎが取れた。
へぎは束ねて乾燥しないようにミナガワムシロにくるんでおいた。
次の作業が縄より(片より)だ。めだけを芯にして「へぎ」を巻き付ける。剥ぐ時にう
すばを当てた下側が表になるように巻き付ける。へぎは少し重ねて次々とよっていく。は
み出す分を「かっぱ」といい、最終的には取り除く。
手の長さだけ縄よりしたら「くもで」という十字の棒に巻き付ける。巻き付けたくもで
は縄が外れないようにあぐらにかいた足の下に置く。縄よりしてはくもでに巻き、その分
量を増していく。ひたすら淡々と縄よりするのが女衆の夜なべ仕事だった。娘達は外に出
て友達と話しながら縄よりをしたものだった。
くもでにからめて溜めた片よりの縄を打ち合わせて三本綯(な)いにするのが「縄ぶち
」という次の作業になる。縄をくもでから外し、柱にかけて約五メートルの長さにする。
これにくもでの縄をほぐしながら巻き付けて二本よりの縄にする。ぐるりと二本よりが終
わったところで「つぼ」と呼ばれる輪を作り、三本目の片よりをする。三本目の片よりは
二本目までのより目に合わせてしっかりとよる。三本目がより終わると「つぼ」は両端に
出来ており、そこで縄を切り離す。
ここで登場するのが「より掛け機」だ。大きな台座に人が乗り、ハンドルを回すと固定
された竹縄に強いよりが加わる。竹縄に適度な湿気がないと切れてしまうので「つぼ」を
中心に慎重に点検する。また磨くための油も塗る。
強いよりを固定するために必要な道具が「こすり」だ。こすりは縄目をつぶす道具で、
竹の固い表皮を細く裂き、左縄にした片よりを三本縄ぶちして作るもの。この「こすり」
の縄目をゆるめてより掛けた竹縄を挟み、締め込んで強く前後にこすると竹縄の縄目がつ
ぶれ、なめらかな竹縄になる。こうして出来上がったなめらかな竹縄は別の棒に移して差
し掛け、強いよりを固定するため、半日はそのまま乾燥させた。
出来上がった竹縄は一本一本きれいにかっぱやゴミを取り除き、輪や八の字に束ねて出
荷する。輪に仕上げることを「なわたがみ」、八の字に仕上げることを「のべ」という。
なわたがみ一束(百本)を「小まるき」、のべ一束(百本)を「大まるき」と呼んだ。
より掛け機を使って出来上がった縄を見せてもらった。
竹縄作りを説明してくれた梅澤邦夫さんと若林利明さん。
以上が竹縄の製造工程だが、実際にやってみないとわからない事が多い。利明さんたち
は毎年十一月地元の中学生に校外授業として竹縄作りを教えているが、これも年に一回の
こと。実際の生産工程を全部通して行うものではない。「だんだん出来る人が少なくなっ
てねえ…」と先を心配する。油抜きをするのに必要な大麦のムイカラが近年は入手しにく
くなっているという。でも、一度でいいから全工程を体験してみたいものだと思った。
昭和四十年頃まで続いていた竹縄作りだが、強力なナイロンロープの出現で一気に需要
がなくなった。しかし、この地区でだけ作られた竹縄、人の手で作られた最強のロープの
技術と記録は消えることはない。
それにしても、触らせてもらった竹縄の柔らかくてつややかで強靱なこと。工芸品と言
ってもよいような竹縄は、他の用途もありそうな輝きをもっていた。
参考資料:「東秩父村の竹縄づくり」埼玉県東秩父村教育委員会