山里の記憶
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花名人:神林清一さん
2016. 6. 04
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六月四日、小鹿野町の両神に花名人の取材に行った。取材したのはダリア園の会長をし
ている神林清一さん(七十二歳)だった。五月四日に秩父神社境内での桜草展示会の取材
をしており、今回は二度目の取材だった。
有名な観光地ダリア園も清一さんのダリア栽培ノウハウの上に成り立っており、その知
識と技術と実績は誰もが認める花名人だ。今回は花名人の原点である桜草の話を聞き、実
際の栽培方法を見せて頂いた。
四十年前から桜草を栽培し始めた清一さん。現在は四百種類・千二百鉢の桜草を自宅で
栽培している。秩父さくらそう会のリーダー的存在で、その活動は全国のさくらそう会と
連携している。その種類の多さに圧倒されるが、その歴史にも驚かされた。桜草は埼玉県
の県花であり、その姿形は知っていたが、歴史はまったく知らなかった。
江戸時代の武士階級からその栽培と鑑賞法が伝えられてきた。五段の花壇を作り、花色
を変えながら見栄え良く千鳥に三十三鉢から三十六鉢を飾る。横から見ても正面から見て
も花色が引き立つ鑑賞法だ。こんな風流な鑑賞法が江戸時代に確立されていた。
新種の開発も盛んで、その品評会は会員の投票式で、さながら短歌や俳句の会のような
様子だった。花の名前に風流な名前が多いのも武士階級の見識を思わせる。
現代も新種開発は続いていて、見せて頂いた品種ファイルには六十ページに及ぶ品種名
一覧があった。一ページに三十品種は書いてあるので全部で約千八百品種ということにな
る。これだけの種類を同定する作業も大変なものだが、それをやる人がいてはじめて会の
運営が成り立つ。趣味の世界とは言え、とてつもなく深い世界だ。
平成四年の五月に秩父神社で桜草展示を行ったテント前で家族揃って。
当初はこのテントだけでの展示だった。
桜草栽培の年間作業について話を聞いた。五月に花の展示会を終え、今は全ての花茎を
切り取り、花芽を育てる為の増し土を二センチくらい施した状態になっている。増し土に
は腐葉土と山の赤土を使っている。
七月には葉が枯れ、地中で芽だけが育つ状態になる。鉢には草が生えるが害になるイネ
科の雑草などは取り除く。この時期は水やりを忘れると枯らしてしまうことになる。山野
草などの鉢植えと一緒に育てると水やりを忘れないと清一さんが言う。また、日射しが強
くなるので寒冷紗やヨシズを掛けるようにする。湿気を保つ半日蔭が最適地だ。
花芽が出来上がるのは秋に入ってからで、十一月になると芽が大きく育って植え替え出
来るようになる。植え替え作業は十一月から二月までに行う。
植え替え作業は大変だった。鉢毎に品種が違うので、一つずつ鉢から苗を取り出し、花
芽を選別してビニール袋に品種ごとに分ける。清一さんは役所に勤めていた時、土日の二
日間をこれに当てた。そして、植え付けは残業の後で帰宅してから車庫でやっていた。夜
中の二時頃までかかる作業で、寒い中寝る時間を削ってやったものだった。
芽は四つか五つをバランス良く植え付ける。余った芽は保管して会員に配ったりする。
品種名の札を二枚準備し、一つは鉢底に入れ、一つは鉢上に見えるように刺す。こうし
ておけば、上の札が何かのせいでなくなっても品種を間違えることはない。これもすごい
手間だが、四百種を超える品種を間違いなく育てる為には必要なことだ。
自宅で展示会を始めた当初の写真を見ながら懐かしむ幹子さん。
今ではこんな立派な展示会になっている。展示会場の二人。
育てる手間も品種の管理も大変な桜草栽培だが、なぜそこまで惹かれるのか清一さんに
聞いてみた。花は西洋の花が一般的になって日本的なものが少なくなった。日本でなけれ
ばないものに惹かれたという。江戸時代、爆発的に品種改良が行われ、鑑賞法まで確立し
た桜草には武士の文化が色濃く残されており、そこも惹かれた要因だという。「日本人の
血になにか訴えるものがあるんだよね…」という言葉も出た。
日本人が作り出した花は西洋花と情緒的な違いが明らかにある。江戸時代に新品種を作
った品評会も盛んに行われ、その評価の仕方も味のあるものだった。以下、江戸時代の写
本「地錦抄附録」享保十八年刊より抜粋。評価は、一位無極・二位玄妙・三位神奇・四位
絶倫・五位雄逸・六位出群と評価される。会員一人につき三種出すことが出来、一品を投
票して選出する。品位を大切にし、短歌や俳句の会のような規律に従って選出された。
品種毎の歴史も深く、その花々について知ることが本当に楽しいという。展示会などで
若い人たちに、そんな歴史について資料を渡して伝えることもやっている。名前の由来と
か品種毎の物語があり、それを勉強するのも楽しい。会員同士でそういう花についての詳
しい話が出来るのがまた楽しい。
栽培では、桜草本来の姿を自分の技術で再現するのが醍醐味だという。会員同士の競争
で切磋琢磨している。そんな関係もあり、新しい会員を増やすのが難しい。定例になって
いる秩父神社の展示会でも十六人が二十五鉢ずつ出すのが精一杯だ。これ以上鉢数を減ら
すと段飾りの醍醐味がなくなる。
会員の増加には期待するのだが、会員が増えると一人の展示鉢数が少なくなるというジ
レンマに苦慮している。清一さんは会員の高齢化と世代交代を考えると難しい問題だが、
当分はこのまま推移するだろうという。
趣味の世界はどこまでも深い。清一さんは江戸時代の写本の原本を何冊も持っている。
版木で刷った版木本だ。「江戸名所花暦」には尾久の原の桜草図がある。文政十年刊行の
江戸観光パンフレットだ。江戸時代の花の栽培方法や種類、江戸の四季の花々、四季行楽
図などなど、本物の版木本の細やかな表現に食い入るように見入ってしまった。
清一さんが「こんなのがあるんだよ…」と言って、奥から出してきたのは色鮮やかな浮
世絵だった。前述の尾久原の桜草図を現代の彫り師・刷り師によって鮮やかな浮世絵によ
みがえらせた作品が額に入っていた。「これ、本物ですか? 」「うん、東京荒川区のさ
くらそう会員宮本米吉さんが作らせたんだよ…」「……」 絶句してしまった。
お茶を頂きながら、奥さんの幹子さん(六十一歳)にも話を聞いた。幹子さんは秩父の
生まれで、仕事で清一さんと知り合い、縁があって結婚した。
「私は植物に興味がなかったんで、結婚した当初は大変な人と一緒になっちゃったなあ
って思ったんだけど、感化されて最近はすごい人だなあって思うようになりましたね」と
笑う。旅行と言えばダリアの視察や桜草の自生地見学会などで、それが毎年恒例になって
いった。五月の展示会が終わってからの旅行は主に高原の桜草自生地で、道なき道を行く
ような旅で楽しかったという。今は各地の自生地の消滅を心配している。
「花を見て怒る人はいないしね、いい趣味だと思いますよ…」花の世界の人間関係がす
ばらしいという幹子さん。今では世話人会の飲み会にまで参加するようになった。
自宅の庭で400種類・1200鉢の桜草を育てている。
花が咲くと本当にきれいな庭になる。この中の26品種を展示する。
秩父神社での展示会は昭和六十一年から始めて今まで続いている。当初は二間のテント
二つから始まった。四間のテントに一人で百六十鉢を飾っていた。幹子さんも展示の準備
や会の記録をやっている。苦労も多かったので、今でも最初の頃が懐かしいという。そん
な幹子さんが「でもね、何故かダリアを始めちゃって急に忙しくなっちゃって…」と言葉
をつないだ。そう、清一さんは今をときめくダリア園の会長なのだった。
両神村で何か観光になるものを、ということで様々な花木や花の栽培を始めた。様々な
試行錯誤の結果、清一さんのダリア栽培の知識を活用したいということになった。植物の
栽培は基本が同じで、桜草で培った技術はダリアにも応用できた。何百種類ものダリアを
試験栽培することから始まった。
今、年間の約八割がダリア園関係の仕事で、約二割が趣味の桜草の作業だそうな。町の
観光事業としてのダリア園も清一さんのノウハウなしでは成り立たない。
ダリア球根の販売をしているが、栽培方法の問い合わせなどは全部清一さんが電話で受
けている。町の事業といいながら個人に依存する割合がとても多い事業だ。その点を聞く
と「まあ、好きでやってることだしね…」と笑う。この人の知識と技術に町が依存してい
る。「本当だったら、桜草に囲まれた優雅な老後になってたはずなんですけどねえ…」と
幹子さんもため息まじりにつぶやいていた。
シラコバト賞も受賞し、まだまだこれからと清一さんは笑うが幹子さんは「これ以上主
人の腰に負担をかけたくないのよね…」と複雑だ。
確かに個人でやってきたことがこれだけ注目され、観光地に応用されるという醍醐味は
味わえたかもしれない。誰にでも出来ることではない。清一さんにしか出来ないことだ。
ただ、それに依存したままではダリア園の将来は危うい。早急に優秀な人材を後継に育
てる事が唯一の解決策なのだと思う。