山里の記憶
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煮豆:大島喜美代さん
2016. 6. 24
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六月二十四日、「煮豆」の取材をすることが出来た。取材したのは秩父市下影森の大島
喜美代さん(八十八歳)で、煮豆の作り方と昔話をたっぷり聞くことが出来た。
喜美代さんは農家に嫁いで苦労して三人の子どもを育て上げた。今は同じ歳のご主人賢
一さんと二人暮らしだ。八十八歳同士の二人暮らしというのは、考えてみるとすごい事で
、その達者振りに驚かされた。今でも自宅前の畑で大豆や野菜を作って自給している。大
豆は煮豆にするだけでなく、味噌を作って知り合いに配ったりして喜ばれている。
自宅の居間でお茶を頂いた。きれいに片づいた様子に子供さんと同居していると思って
しまったのだが、二人暮らしと聞いてびっくりしてしまった。お茶を頂きながら昔話を聞
かせてもらった。
自宅の居間でいろいろ昔の話を聞かせてくれた喜美代さん。
昨年の冬に収穫して乾燥した大豆を脱穀している二人。
喜美代さんは大野原の生まれで、二十七歳の時に嫁に来た。九人兄弟の四番目だった。
兄が二人いたが二人とも長く兵隊に行き、帰って来てから具合を悪くして亡くなった。そ
んな関係で家の仕事を手伝って嫁に行くのが遅れた。当時としては遅い嫁入りだった。
「姉さんは面長できれえな人だった。おめえはたらし焼きみてえだけど愛嬌があるなん
て言われたんだぃね…」背の高い働き者の嫁御だった。「ちっちゃい時から畑のめぐりで
かけっこをしてたから体は丈夫だったぃね…」と笑う。
実家は弟が継いだ。「嫁さんがいい人で良かったいね…」と目を細める。
昔話はずっと続きそうだったが、今日は煮豆の取材。そのことを話すと「あら、そうだ
ったね」と台所に向かう喜美代さん。コンロの上の鍋には昨日から水に浸した大豆が入っ
ていた。「昨日からふやかしてあるから、これを煮るだけなんだぃね…」とIHヒーターの
スイッチを入れる。強火で沸騰させてから弱火にするという。
鍋の水はそのまま煮る。そのうちに沸騰し始め、泡が立ってきた。すぐに弱火にして吹
きこぼれないようにしながら、手にしたお玉で泡と浮いた皮を取り除く。そのテキパキし
た動きに驚かされた。腰も曲がっていないし、とても八十八歳には見えない。
煮ている大豆は昨年収穫したもの。冬に味噌を作って残ったものだ。味噌は麦麹を使っ
て仕込む。知り合いに配るのだが、みんな喜んでくれるという。
「味噌にしたり、煮て食ったり…、残りがこれだけになっちゃったぃねぇ…」とテーブ
ルの下に置かれた袋を見せてくれた。きれいな大豆が四升ほど入っていた。
「しわ伸ばしって言ってねぇ、水を足してゆっくり煮るんだぃね」そして、少し経った
ら重曹を少し入れるのがポイントだという。泡が立つがそのまま煮る。こうすることで豆
が柔らかくなるのだという。中火で一時間半ほど煮る。「豆はあわてて煮ちゃダメだぃね
ぇ。昔っから『となりんち(家)へ遊びに行ってこぉ』っていうくらいのんびり煮るんが
いいんだぃね…」と喜美代さん。
豆を煮ている時間、居間に戻ってお茶を頂きながら昔話に戻る。
農協の貸衣装で祝言を挙げた。この家で披露宴になり、近所の人が覗きに来た。昔はみ
んなそうだったが、障子にのぞき穴がたくさん出来るのが良い祝言だった。「障子が穴べ
えになったんだぃ…」と胸を張る。「でけぇ嫁御が来たってみんなが見に来たんさぁ…」
当時は祝言の翌日里帰りという風習があった。しかし、喜美代さんの父親は「嫁に行っ
たら帰って来るな」という人だった。口は悪いが人情のある父親だった。家の仕事を一手
に手伝っていた喜美代さんが嫁に行ったのが余程さみしかったようだった。父親ががっか
りしてたという話を後から聞いた。
居間に飾ってあった二人で仲良く農作業をしている写真。
家の前の畑には大豆がきれいに芽を出していた。草一つない畑。
嫁に入った家は全部で七人が暮らしていた大家族だった。当時の嫁は誰もが苦労したも
のだった。近くに沢があり、井戸もあったので幸いなことに水に苦労はしなかった。井戸
水を盗みに来る人がいたくらい水に苦労している人が多かったので、これは幸いなことだ
った。しかし、薪がなく風呂を毎日沸かすことが出来なかった。
喜美代さんは武甲山の共有林に木を拾いに行った。朝暗いうちに家を出て、半日かけて
五束の薪を背負って帰って来たものだった。猿が出たりして怖かったが共有林(入会山)
まで行けば薪が拾えた。そんな喜美代さんを羨ましく見て近所の人が「うちの娘も連れて
ってくれ」と頼まれたことがあるが、娘は帰ってきて寝込むような有り様だった。「鍛え
方が違うかんねぇ…」と昔を思い出して笑う。井戸から水を運んで風呂を湧かす。喜美代
さんの薪で毎日お風呂が沸かせるようになった。
仕事は忙しかった。お蚕もやっていたし、畑も田んぼもあった。田んぼの水当番は徹夜
でやる過酷なものだった。時には喧嘩になったりもした。
お蚕は年に四回やった。おばあちゃんが大滝の出身でお蚕が好きだった。春蚕(はるご
)・夏蚕(なつご)・秋蚕(あきご)・晩秋蚕(ばんしゅうさん)と忙しかった。
台所のヒーターからピーピーと音がする。電子音が「焦ゲ付キニ注意シテクダサイ、焦
ゲ付キニ注意シテクダサイ」とアナウンスしている。感心しながら台所に向かう。今の調
理器具はすごいものだ。これを使いこなしている喜美代さんもすごい。
鍋の水が少なくなっていた。煮豆になってきた。この煮豆に味付けをする。味付けはま
ず三温糖で甘くする。お玉で二杯の三温糖をガバッと入れる喜美代さん。その大胆さに驚
かされた。両手で鍋を振って全体を混ぜる。混ぜるのにお玉やしゃもじを使うと煮豆が崩
れるので、こうして両手で鍋を振る。これはキャラブキを煮るときと同じだ。
喜美代さんが「味見してみな…」と煮豆を一粒手のひらに落としてくれた。熱いのをそ
のまま口に放り込む。柔らかな食感と甘さが口に広がる。普通に旨かった。
しばらく甘味だけで煮て、最後の味付けは塩大さじ二杯入れるとのこと。塩を入れると
固くなるので、後で入れるのがよい。そしてじっくり一時間ほど弱火で煮る。
テキパキした動きを褒めると「やることが早いって娘にも言われるねぇ…」という答え
が返ってきた。いつも忙しかったから、やることが自然に早くなったのだと笑う。
自宅前の畑には大豆が植えられ、芽を出している。雑草のないきれいな畑だった。畑の
周囲にはたくさんの蕗が葉を広げている。この蕗を使ってキャラブキを煮た。そのキャラ
ブキがお茶請けに出されたので食べた。濃い味付けだがお茶に合う。
「蕗も植えたから増えたんだぃね。キャラブキをやると手が真っ黒になっちゃうんで困
ったもんだぃね…」と両手を見せてくれた。爪に蕗のアクが染まって黒く、シワの多いた
くましい指だった。働きもんの手は本当に美しい。
この家はうどんを打たないという当時では珍しい家だった。「ほんとに驚いたぃね」毎
日うどんを打って食べていた喜美代さんには不思議だった。その代わり、すいとんは一杯
作って食べた。めし焼きもちは「めしつるべ」と言ってよく作って食べた。残ったご飯に
小麦粉を混ぜてこねて、囲炉裏のホウロクで焼いたものだった。
この家には先祖伝来の観音様が祀られている。そのお姿を厨子を開けて見せてくれた。
黄金色の観音様は優しいお顔をされていた。喜美代さんは毎日観音様に水とご飯を上げて
いる。「こうしてるからご先祖様が守ってくれるんだと思う。誠心誠意でなきゃあだかん
ねぇ。ご先祖も喜んでくれてると思うよ…」と手を合わせる。
台所で煮豆を作る喜美代さん。泡とりをしている。
出来上がった喜美代さんの煮豆。ふっくらと柔らかい。
しみじみと語る喜美代さん。「おばあちゃんがいい嫁が来てくれたって言ってくれたん
だぃね…。具合が悪くて寝込んでいた時にあたしが出かけようとしたら、早く帰ってこい
な、お前がいねえと寂しいから…って言ってくれたんだぃね…」その一週間後、優しかっ
たおばあちゃんは亡くなった。
「おばあちゃんに尽くしたし、お礼も言われたし、よくやってきたよ本当に…。親のお
陰だと思うよね。色んなことがあったけど、親に感謝してるよ…」
喜美代さんが静かに歌を歌い始めた。『親子坂』という歌だった。この歌を歌った時に
親が泣いたという。その歌の上手さにビックリした。居間には水彩画や水墨画が額に入れ
て飾られている。これも全て喜美代さんの手になるものだ。その素晴らしさに驚く。
苦労した人生だったかもしれないが、充実した八十八年間だったことがよくわかる。
台所で柔らかくおいしい煮豆が出来上がった。その煮豆を頂き、キャラブキも頂いて帰
路についた。喜美代さんの話に満たされた温かいものが溢れるような帰り道だった。