山里の記憶
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味噌汁:浅見しげさん
2016. 7. 27
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七月二十七日、下小鹿野の三島に味噌汁の取材に行った。取材したのは御年九十八歳の
浅見(あざみ)しげさんだった。九十八歳と聞いていたので、取材にもいろいろ支障があ
るかなあと心配しながら伺ったのだが、そんな心配はまったく杞憂だった。
しげさんは今でも主婦をやっており、畑仕事も料理も自分でやるスーパーおばあちゃん
だった。腰も曲がっておらず、動きが速い。キビキビした動きを追いかけるのが大変だっ
た。お医者さんにはどこも悪いとこがないと言われているとのこと。いやはや凄い人だ。
ご自宅に伺ってお茶を頂きながら話を聞いたのだが、息子の清さん(七十六歳)と一緒
に色々な話を聞かせてくれた。驚いたのが秩父事件の話だった。秩父事件の後、会計長の
井上伝蔵を倉で二年間かくまったのが、しげさんのおじいさん斉藤新左衛門さんだった。
「草の乱」という映画にもあったので、その事は知っていたが、実際にかくまった人の子
孫に話を聞けたのは大きな驚きだった。
秩父事件で政府軍に追われた井上伝蔵をかくまうという事は、見つかれば死罪をまぬが
れない。それを覚悟で、いつ終わるかしれない長い時間井上伝蔵をかくまい続けたおじい
さんの事をしげさんは熱く語る。寝るときはいつも枕元にピストルを置いていたという。
信念の人できつい人だった。「だから、あたしも孫だから性格はきちぃよ…」と笑う。
しゃんと背を伸ばして生きている姿は、おじいさんの背中を見て育ったこともある。
母屋から倉に太い孟宗竹を通して、その竹で食事や飲み物をやり取りした話。井上伝蔵
の身の回りを世話したのはおばあちゃんだった。一度だけ、不幸があり、倉の中に人が出
入りする事態になったことがある。その一日だけ、井上伝蔵を実家に送り届け、事なきを
得たという。大八車を使って運んだそうだ。近所の人には分かっていたと思うが、誰も警
察に言う人はいなかった。
二年間かくまったが、実家の経済が立ち行かなくなり、おじいさんが井上伝蔵に伝えた
。「伝蔵さん、借金で倉を壊すことになった……」「早く言ってくれればよかったのに…
」井上伝蔵はその晩「けでぃ」と呼ばれる蓑をかぶって倉から出て行った。
その後の事は知らないが、北海道に渡り、別人となって生き通したことは「草の乱」冒
頭のシーンにつながる。事件後しばらくして、井上伝蔵の姉さんが実家に挨拶に来た。世
をはばかる訪問だったので、夜にやってきた。「伝蔵をかくまっていただいて…」という
お礼の言葉を受けたのはおばあさんだった。
大正になって、北海道から井上伝蔵の家族が挨拶に訪れた。その訪問もおばあさんが受
けた。おじいさんの最後は誰も知らない。墓も位牌も残されていない。ピストルの所在も
分からない。様々な事象を家族が背負ってきた。しげさんはしみじみと「昔の何かが背中
に取っついてるような気がする…」という。運命というもの感じる時も多いと笑う。これ
らは、しげさんが尋常四年生、十二歳の時に聞いた話だという。
秘話と言えるような逸話もたくさん聞けた。大きな大きな収穫だった。秩父事件の本も
違う視点で読むことが出来そうだ。
お茶を飲みながら居間でいろいろ話してくれたしげさん。
納屋の昨年漬け込んだ麦味噌。隣には今年漬け込んだ味噌の樽。
話を味噌作り話に戻した。しげさんは毎年大きな樽一杯の味噌を自分で仕込んでいる。
今年は四月十四日に仕込んだ。その量が凄い。大豆は一斗五升を二回仕込む。更にここに
大麦三斗と塩一斗二升を加える。仕上げの塩は四合使うという大量の味噌。
納屋で見せてもらった大樽には仕込んだ日付を書いた紙で蓋をしてあり、隣の大樽の味
噌がいい香りを立てていた。仕込んだ味噌は一年寝かせ、来年に食べる。今年は昨年仕込
んだ味噌を食べている。しげさんは十九歳の時からずっと七十年間味噌を作っている。
納屋には大量の梅が漬け込まれて保存されていた。今年は九十キロの梅を漬け込んだと
いう。「晴れてくれれば干せるんだけどねぇ…」と干すタイミングを見ている。まだ液の
中にある梅を一粒頂いた。口の中に広がる酸っぱさは爽やかで、塩分の薄い漬け梅だった
。これを干し上げたら、さぞ美味しい梅干しになることだろう。
納屋に漬け込んである梅のビン。今年は九十キロの梅を漬け込んだ。
味噌汁作りをするしげさん。手さばきの鮮やかなこと。
しげさんが吉田の関という耕地からこの家に嫁に来たのが十九歳の時だった。とぼう盃
(昔、秩父地方で行われていた嫁入りの儀式)で一歩入った時に「この家は大変な家だ」
と思ったという。嫁送りの人たちと一緒に実家に帰りたかったが、帰るわけにはいかなか
った。嫁に来て三年でお姑さんが亡くなったので、味噌作りは自分でやるしかなかった。
畑から採ってきたナスとジャガイモで味噌汁を作るという。清さんはナスの栽培やアン
ポ柿の製造販売を仕事にしていて、自宅前には立派なナス畑が広がっている。採り立ての
ナスの皮をむくところから台所で作業が始まった。しげさんの手さばきが速いのでカメラ
で追いかけるが忙しい。ナスを半割りして薄切りにする。ジャガイモは四つ割りにして薄
切りにする。鍋に煮干しを三尾入れて水を張り、IHのコンロにかける。
清さんが「年寄りに台所をさせるんで、これでねぇとダメだぃね…」と小声で言う。し
げさんはテキパキと火加減を調整する。
煮干しは業務用のものを娘が買ってくれる。「添加物や科学調味料はダメだぃね。煮干
しが一番だよ」としげさん。煮干しは煮出してもそのまま汁の中に入れておく。最後にこ
れを食べるのも旨い。鍋が煮立って来たらナスとジャガイモを入れ、強火でナスが沈むま
で煮込む。ナスが沈んだら味噌を溶かし入れる。
「昔は味噌こしがあったんだけど、今はもう作ってるとこがないんで、ザルで漉すんだ
ぃね…」竹屋で作ってもらった味噌こしが壊れてからこの方法で味噌を溶いている。しげ
さんは味噌汁をいつも三杯食べるという。長生きの秘訣は味噌汁にあるというのだ。
「私は味噌で生きてるんだぃね。いつも三杯食べるんだから。粗食と体を動かすことが
一番だと思うよ…」味噌汁は健康の元だからと笑う。薄味なので、三杯食べても塩分過多
にはならないそうだ。
味噌汁を作り終わって「すぐに出来るから」と言ってミニ栗カボチャを煮てくれた。清
さんが実を一口大に切ってくれた。鍋には砂糖を一杯、みりんと醤油を少々、コップ一杯
の水を入れる。カボチャの皮を下にして鍋に隙間なく並べ、コンロのスイッチを入れる。
「味付けは目見当なんだぃね…」としげさん。
アルミホイルの中央に穴を開けた落としぶたを作りカボチャの上を覆う。「これで五・
六分煮れば出来上がるよ…」という。鮮やかな手さばきに驚いていると、清さんが口を挟
む。「たまに焦がすこともあるけど、おふくろのカボチャ煮は旨いよ」とのこと。
煮上がったカボチャが皿に盛られて運ばれて来た。まだ熱いのを頬張る。甘さが口の中
に広がる。ホクホクとした食感がじつにいい。これは絶品のお茶請けだ。思わず「旨い」
と声が出た。「こんなもんでも食べられるかい? 」としげさんは謙遜する。
清さんが味噌汁をよそってくれた。やさしい麦味噌の薄味で、これなら何杯でも食べら
れそうだ。栗カボチャを頬張り、味噌汁をすする。あっという間に三杯もお代わりしてし
まった。しげさんが、いつも三杯食べるというのもよくわかった。
カボチャを食べながら味噌汁を頂く。しげさん、清さん、彦久保さん。
昨年書いて賞を頂いた書。いや、素晴らしい。
食べながらしげさんが言う「私は毎日新聞を読むし、俳句も作ってるよ。書道の賞もも
らったんだょ…」「えっ、凄いですね。見せてもらえますか? 」「いいよ」
スッと立って次の間に行くしげさんを追う。大きな紙包みから一幅の掛け軸を取り出し
たしげさんが「これを鴨居に掛けてくんな…」と差し出した。
鴨居にかけた掛け軸の書は「玉雪開花」と大書され、号は「茂山(もさん)」となって
いる。しげさんに横に立ってもらって写真を撮る。柔らかく闊達な筆跡はとても九十七歳
の手になるものとは思えない素晴らしさだ。「腰を曲げるのがおっくうなんで、上がりは
なで書いたんだぃね…」これを上がりはなで書いたなんて……。唖然としてしまった。
昭和十九年の小鹿野大火で家が全焼した。しげさんは、その日たまたまお葬式で実家に
帰っていて無事だったが、帰って来た時は家も納屋も何もかも焼き尽くされていた。
その翌年、まだ家が出来上がっていなかった時だった。子供二人が赤痢に感染し、隔離
されるという事態になった。食糧事情も生活環境も良くなかった。しげさんには祈る事し
か出来なかった。幸いなことに二人は一月後に無事帰って来た。建築中の家の縁側で二人
が並んで座っている姿はまるで金仏様のようだったと笑う。新しい家は火事の二年後、昭
和二十一年に出来上がった。
大正七年二月二十六日生まれのしげさん。子供は六人に恵まれた。波瀾万丈の人生だっ
たが、まだまだ先は続く。人間の可能性を高め、みんなに希望を与えてくれる人生だ。