山里の記憶209


栃もち:磯田エミ子さん



2017. 12. 04


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 十二月四日、秩父の大滝に栃もち作りの取材に行った。取材したのは栃もち作り名人と
して知られている磯田エミ子さん(七十三歳)だった。               
 栃もちは秩父の名物だが、その作り方はおそろしく手間の掛かるものだ。そして、名人
と言われる人はかならず自分なりの作り方を持っている。厳密に言うと一人一人、または
家毎に作り方が違うと言っていい。                        
 ご自宅に伺うと笑顔のエミ子さんに迎えられた。お茶を頂きながらいろいろ話をする。
栃もち作りは段取りが大変で、作業行程も長いためエミ子さんは特別に様々な段階の栃を
準備してくれていた。取材する立場としては本当にありがたい事だった。       

 栃の実は九月に落ちたものを拾う。多い時は二石もの実を拾ったことがある。最近は鹿
が栃の実を食べるようになったので拾うのも大変になったが、友だちが手伝ってくれるの
でありがたい。拾った栃の実は水に浸けて虫だしをする。虫だしした実は鍋で温めて石で
割って芯の種を取り出す。この種部分が栃もちの材料となる。            
 むきやすい実とむきにくい実がある。木によって違うようで、むきにくい実のなる木は
わかっていて、その木の下だけにはいつも実が残っている。             
 種は天日でからからに乾かすのだが、磯田家では懇意にしているキノコ工場の乾燥機を
使って干し上げる。こうしておけば十年でも二十年でも持つ。ここまでが前段階で、今日
はからからの栃の実を柔らかく戻してもちに加工するまでを取材した。        

作業小屋には山のような薪が一杯。この薪を燃やして灰を作る。 カラカラの栃の実を水に浸して柔らかくする。毎日水を替える。

 からからに乾燥した栃の実を樽に入れ、水を張る。毎日かき回して水を取り替える作業
を二週間続ける。栃の実にはサポニンが含まれ、大量のアクが出る。このアクやヌルを流
しながら柔らかくする。家の近くに沢があれば流れ水に浸したいところだとエミ子さんが
笑う。新しい水を注ぐと大量の泡が吹き出す。この泡も泡の元になるヌルも全て栃の実の
アクだ。約二週間水を替えながらアクを抜き柔らかくする。二週間というのも目安で、灰
が効くまでに柔らかくなるには微妙な差がある。見極めが難しいとエミ子さん。    
 こうして水に浸けて柔らかくするのは、この後で灰を加えてアク抜きをする時に灰の効
きを良くするためのもの。栃の実の状態を毎日見極めながら戻すのだが、実の状態によっ
ては二十日以上かかる事もあるとのこと。見極めるのがエミ子さんの仕事になる。   

 二週間かけて柔らかく戻した栃の実を樽から鍋に移し、水を加えてストーブで温める。
沸騰する手前の指が付けられない熱さで二十分ほど温めて、ストーブから外してすいのう
で樽に移す。温度は八十度くらいだろうとのこと。足の悪いエミ子さんをご主人の守弘さ
ん(七十三歳)が手伝う。「俺が出来るのは力仕事だけだかんねぇ…」と鍋を運ぶ。  
 温まった実を入れた樽に自慢の灰を二升ほど加え棒でかき回す。更に鍋の湯を加えて混
ぜるとドロドロの灰液に浸って灰が実の全体に回る。これで作業は一段落だ。このまま蓋
をしてひと晩置けばアクが抜ける。一斗の栃の実で何臼の栃もちがつけるかはまだわから
ない。灰の効きによって残る実の量が変わってくるからだ。灰の効きが良いと溶けて実が
減ってしまう。これは毎回違うので予測出来ない。                 

 ひと晩で灰が効いて栃の実が食べられるようになる。灰がアクを分解する過程だ。エミ
子さんは時々栃の実を取り出して確認する。灰が効いているかどうかを長年の勘で見極め
る。この見極めが難しい。実を取り出して水洗いして様子を見る。ポイントは角がなくな
り透明感が出て生っぽくなくなること。色も鮮やかなオレンジに変わる。十時間で出来た
事もあるし、三日も四日もかかった時もある。ひと晩はあくまでも目安で、その時によっ
て時間は変わる。出来上がりを見極めるのはエミ子さんの目だ。良い灰を使うと速く効く
ようだ。何度やっても同じには出来ないという栃もち作りの肝になる部分だ。この段階の
栃の実はまだ生だ。一切れかじってみたが、舌がしびれる苦さだった。        

自慢の灰と湯を混ぜてドロドロ状態にしてひと晩寝かせる。 灰を水で洗うと鮮やかな実が現れる。これが「灰が効いた」状態。

 エミ子さんの栃もち作りは灰がポイントだという。磯田家では栃もち作り用に日々灰を
作っている。それも楢・クヌギ・ケヤキなどの良木だけを燃して作る灰だ。最近はなるべ
く心材だけを燃して灰を作っている。良い木を燃やせば良い灰が出来る。灰の種類によっ
て灰の効きはずいぶん違うという。それは経験でわかるというのだ。灰作りはもっぱらご
主人の守弘さんの仕事となっていて、納屋には立派なケヤキの薪が壁のように積み上げら
れている。燃やして出来た灰をドウコッ缶に入れて保管している。          

 午前中の作業が一段落して昼にしましょうという事になった。お昼はエミ子さんが作っ
てくれた栃もちをいただく。三、五キロの餅米に一、七キロの栃の実を合わせて四升炊き
の餅つき器で作った栃もちだ。とても柔らかく、オレンジ色も鮮やかな栃もちが運ばれて
きた。大根おろしを乗せて醤油をかけて食べるのがいちばん旨いとご主人の守弘さん。 
 四個分の柔らかい栃もちにたっぷりの大根おろしを乗せて醤油をかけて食べた。これが
何と言っていいかわからないほど旨かった。まったく苦くないのだ。それなのに、口に広
がる豊かな栃の香り。大量の栃の実が入っている事を感じさせないまろやかな味だった。

 栃もちつくりに関しては、いろいろな人からいろいろ話を聞いた。今まで様々な人の栃
もち作りを見てきたし、食べ比べてもきた。その中でもエミ子さんの栃もちはの味は別格
だった。苦くないのだ。しかし、栃の量が多く色は鮮やかなオレンジ色で食べると栃の香
りが口に広がる。本当に食べやすくて旨い栃もちだった。              
 味の秘密を知りたくて、エミ子さんにしつこく話を聞いたのだが、どうやら灰に違いな
いという結論になった。「うちの灰は特別効きがいいからね…」とのこと。      
 一回に四升、十二月だけで百二十キロの栃もちを作るというエミ子さんの言葉だから信
憑席がある。普通の人はそれだけの量を作ることはない。磯田家では暮れに白ひと臼、草
もちひと臼、栃もち二十臼もの餅をつく。餅専用の冷凍庫があるくらいだ。      

 おいしい栃もちをおなかいっぱいに食べて、お茶をいただきながらお二人にいろいろな
話を聞いた。エミ子さんは何ごとにも没頭する性格なので、栃もちつくりについては本当
にいろいろな人に聞いたり見たりして勉強した。名人といわれる人に聞きに行ったり、作
業を見たりしてきた。そんなエミ子さんの栃もちは村内でも評判になり、歴代の村長が県
庁訪問の際にお土産としてエミ子さんの栃もちを県知事に持参するようになった。栃もち
が大滝の名産として有名になったのはそんな関係もあるかもしれない。        
 エミ子さんは炭酸まんじゅう作りも名人で、栗餡や大滝インゲン餡の炭酸まんじゅうは
皮も旨いと評判で、県知事へのお土産になったこともある。             

昼に食べたつきたての栃もち。大根おろしを乗せて食べる。 作業場でいろいろ説明してくれるエミ子さん。

 餅つき器は四升炊きで、暮れにはフル回転になる。柔らかくなった栃の実をお米と一緒
に蒸し器に入れて四十分ほど蒸かす。餅つき器に入れて二十分くらいでつき上がる。  
 栃もちはつきたての柔らかいのが一番美味しいという。昼に食べた大根おろしのからみ
もちが一番旨いと二人が言う。食べたばかりなのでその言葉に素直にうなずく。    
 今年は百キロもの餅米を買ったというから、十二月は栃もちつくりでさぞ忙しくなるの
だろう。夜なべ仕事でもち作りをするという。栃もちは白もちより柔らかいので固まるの
まで時間がかかる。今日仕込んだのし餅を見せてもらったのだが、まだ柔らかかった。切
れる固さになるまで二日かかるという。だからという訳ではないのだが、エミ子さんの栃
もちは長く保存しても柔らかい。すぐ火が通ってすぐに食べられる特性がある。    

 それにしても栃もち作りは難しい。取材していても疑問が出る事ばかりだ。こんなに手
間をかけて作るのに、その大変さが伝わらないのがもどかしい。自分では絶対に出来ない
事だし、その難しさをどう伝えればいいのかと悩む。                
 食べるとあんなに旨いのに、どうしたらあの味になるのかいくら考えてもわからない。
「経験によるもんだから…」というエミ子さんの言葉に救われたような、打ちのめされた
ような複雑な思いが残る。                            
 エミ子さんは「あたしは物作りが好きで、こんな生活が空きなんだぃね…」とさらりと
言う。その言葉は毎日の裏付けがあり、季節のものを料理して食べるというしっかりした
根を持っている。この根があるからこそ、より美味しく食べる研究につながっている。 
 すばらしい事だと思う。この味がなんとか後世に残って欲しいのだが、簡単な事ではな
い。エミ子さんの栃もちはエミ子さんでなければ出来ないからだ。