山里の記憶
21
二人の蕎麦作り:櫻井五一郎さん・あい子さん
2008. 2. 23
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今、秩父は蕎麦の町と言われている。市内にも郊外にも有名な蕎麦屋が沢山あり、蕎麦
を食べる為に訪れる観光客も多い。すっかり蕎麦の町として有名になってしまった秩父だ
が、昔からそうだったかと考えると疑問が湧いてくる。私が子供時分には毎日うどんを打
って食べていたが、蕎麦はほとんど食べていなかった。たまにそばがきを食べたり、そば
すいとんを食べたりしたが、蕎麦を打って食べた記憶は無い。山の畑でも小麦は作ったが
、蕎麦は作っていなかった。まあ、作っていたとしても少なかった。養蚕の裏作で小麦栽
培が盛んだったこともあり、うどんが多かったのだと思う。養蚕が衰退するにつれて桑畑
が蕎麦畑に変わり、蕎麦の産地になって来たのだと思う。
町の蕎麦屋さんが打つ蕎麦ではなく、秩父の一般的な家庭で打つ蕎麦は蕎麦粉4割、小
麦粉6割で蕎麦を打つ。「そんなバカな!」と思う人も多いだろうが、本当なのだ。昔か
ら秩父の蕎麦とはそういうものだった。蕎麦粉を多く入れるのは「贅沢」なことだった。
今、この歳になると蕎麦の味がよく分かり、十割蕎麦が美味しいと感じるようになったが
昔は特に蕎麦が美味しいとは感じていなかったように思う。
今回、友人の櫻井さんの紹介で、蕎麦好きが高じて、蕎麦を栽培することから始まって
、石臼で粉を挽き、果ては蕎麦打ちの為の家まで作ってしまったという人を取材させても
らった。秩父に根づいた蕎麦文化の一端を取材させて頂いたのは、児玉町の櫻井五一郎さ
ん(78歳)だった。五一郎さんの家に伺うと、驚いたことに直火が燃せる囲炉裏が切っ
てあり、真ん中に炭が赤々と燃えていた。五徳の上に置かれた鍋にはけんちん汁が湯気を
上げており、炭火の横にはホタテやエビが串に刺されて焼かれていた。伺ったのが昼時だ
ったこともあり歓待を受け、炊き込みご飯やお餅など、美味しい料理をご馳走になった。
居間の囲炉裏には炭が熾っていて、鍋が掛けられていた。
蕎麦の実を干すために特注したステンレスの網箱。
お勝手から奥さんのあい子さん(77歳)がお茶を持ってきてくれた。あい子さんは
「あいにく足が動かなくなっちまってねえ・・・その分口が良く動くんだけど、あはは」
と囲炉裏の横に座って話し始めた。五一郎さんに話を振っても、いつの間にかあい子さん
が話の中心になっていて、五一郎さんはそれを横目で見ている。いつもこんな感じなのだ
そうだ。そんなお二人が蕎麦を作り始めたのは10年ほど前からだった。定年を機にあい
子さん地元であるこの児玉町に移り住み、二人とも蕎麦が好きだったこともあり、沢戸と
いう場所に畑を借りて蕎麦を作り始めた。
五一郎さんは秋蕎麦だけを作る。種を買ってきて8月20日ごろに種を蒔く。なるべく
薄く蒔くのが良い蕎麦を育てるコツだ。厚く撒くとヒョロヒョロの蕎麦に育ってしまうし
、間引くのも大変なためだ。畝間を広く取るのが良いのだが、山の畑は傾斜があるので畝
間を広く取れない。倒れないような丈夫な蕎麦に育てるのが何ともの栽培方法だ。
昔、信州大学が開発した品種を蒔いたことがある。8月18日に蒔けと書いてあったか
らその通りにしたのだが、丈が育ちすぎて倒れてしまい。地面についた場所から根が出て
きたりして散々だったことがある。蕎麦は地元の荒川産のものに限る。茎の下部が太く、
赤くなるタイプのものがいい。背丈はそれほどでもないが、実成りが良い。他の家の畑と
少し時期をずらして蒔くことも多い。育ち具合などの様子を見ながら対策を立てられる。
5センチくらいに育った蕎麦の芽を間引いて食べるのは美味しいものだった。荒川の蕎麦
は実が付いたものを左手で持った感触が特にいいとあい子さんは言う。
「蕎麦屋さんに分かってもらいたくて、束を持ってったこともあるんさあ」と笑う。
蕎麦の肥料は難しい。普通に肥料をやると葉が茂るばかりになって実成りが悪くなる。
元々荒れ地に育つ蕎麦は養分過多になると葉が茂ってしまう。良い実を付けるにはリン酸
が必要なのだが、リン酸のみを施肥するのは難しく、つい化成肥料に頼ってしまい、葉を
茂らせることになってしまう。焼き畑農業で蕎麦が良い実を付けるのは肥料成分が蕎麦に
合っているからなのだろう。
収穫は手でこき取る。普通は刈り取ってハザに掛けて天日乾燥するのだが、五一郎さん
は畑で手こきして実だけ家に持ち帰り、ムシロの上で天日乾燥させる。昔、ハザに掛けて
おいた蕎麦をサルに全部喰われた人の話を聞いたことがあるので、獣害予防の策なのかも
しれない。聞いてみたら、サルやイノシシの被害を受けたことはないという。せいぜいヒ
ヨドリが喰いに来るくらいだそうだ。山に実を置かなければ被害は無い。
乾燥した蕎麦の実を唐箕(トウミ:穀粒を選別する装置)にかけてゴミと実を分別する
。葉っぱなどは乾燥したものを揉むとそれだけでパラパラと落ちていく。石が混じること
が多いので、蕎麦の実を水に漬けて洗う。こちらでは「よなげる」というのだそうだ。大
量にやろうとすると葉っぱの間に石が残ることがあるので、少しずつ素早くよなげる。石
を除いた蕎麦の実は四日ほど天日で乾燥させる。干す時は特注して作ったステンレスの網
を使う。こうして乾燥した蕎麦の実は虫に喰われないように保管し、食べるときに必要な
分だけ出して製粉する。
蕎麦打ち専用の別棟が裏に作られていた。まるでお店のよう。
漆塗りの立派なこねばちが飾られていた。
製粉は石臼で挽く。前は石臼が無かったので製粉機を使って製粉していた。ここには精
米機もあるそうだ。ここでおもむろに五一郎さんが「じゃあ、行きましょうか」と立ち上
がった。あわてて後に続くと、玄関を出た五一郎さんは家の裏手に回って行った。そこに
は別棟の平屋があり、入ってみると広い蕎麦打ち部屋だった。左手に麺板と石臼があり、
その先にはコンクリート製の2連かまどが据え付けられている。壁の棚には麺棒や水嚢(
すいのう:片手の竹ザル)が掛けられ、まるで蕎麦屋の厨房のようになっている。右手は
座敷になっていて、漆塗りのこね鉢などが飾ってある。本格的な蕎麦打ち部屋だ。まるで
お店のようでもあり、普通の家の部屋とはとても思えない。
あい子さんが入って来て、蕎麦打ちの実演が始まった。まずは蕎麦の実を石臼で挽く。
蕎麦の鬼殻だけを取る粗挽きだ。石臼の穴に実をたっぷり入れて早く回す。こうすると鬼
殻が割れて蕎麦の実と分かれて出てくる。細かい粉にするには、少しずつ穴に入れてゆっ
くり挽く。蕎麦打ち出来る粉にするには何度も石臼で挽かなければならない。今回はすで
に挽いてあった蕎麦粉を使って実演してもらった。
栃のこね鉢に50目のフルイで蕎麦粉200グラムをふるう。次に小麦粉300グラム
をふるう。小麦粉を多めに入れるのが秩父蕎麦の特徴だ。250ミリリットルの水を3回
に分けて加えてこねる。まずは猫の手のように指先でまんべんなく混ぜる。ここで手を抜
くと最後がまとまらなくなる。素早く均等に混ぜる。あい子さんは近所の蕎麦勉強会に入
っていて蕎麦作りを勉強している。いずみ流の蕎麦作りだと言っていた。
固まってきたら菊練りに入る。空気を抜くように丸くこねる。本当はここで寝かせて踏
むと腰が出るとのこと。それはうどんの作り方と一緒じゃないかと思ったが、小麦粉が6
割入っているのだからうどんと言えなくもないので納得。そしてヒノキの麺板に乗せて、
麺棒で伸ばす。最初はゆっくりと、徐々に素早く麺棒を使って丸く伸ばす。縁の厚さを調
べながら均等に伸ばす。蕎麦打ちは時間との勝負でもある。一定時間を過ぎると固くなっ
てヒビが入りやすくなるし、何より香りが飛んでしまう。
伸ばし終わって打ち粉を打った蕎麦を、麺棒を抜きながら蛇腹にたたむ。あとは蕎麦包
丁で切るだけ。あい子さんの足元が不安定ということで、私が切る役目を仰せつかった。
板を使わず、普通に指をガイドにして細く切る。切った蕎麦は打ち粉でまぶし、お互いに
くっつかないようにする。ついでに少し揉んで縮れ麺にしてみた。蕎麦を茹でて食べて行
かないかと言われたのだが、お昼に大量のご馳走を頂いたばかりだったので、せっかくの
お誘いは辞退するしかなかった。出来上がった蕎麦は、今夜来るという娘さんへのごちそ
うにしてもらった。
切った蕎麦を少し揉んで縮れ麺にした。隣にあるのは竹のすいのう。
蕎麦打ちが終わった外に出たら猛烈な吹雪になっていた。
五一郎さんが種を蒔いて育て、収穫して製粉し、あい子さんが蕎麦を打つ。二人で作る二
人三脚の蕎麦。蕎麦が好きで、自分たちで全部やってしまう行動力と技。こういう人達が
いるからこそ蕎麦文化が根付いていくのだと思う。五一郎さんとあい子さんの蕎麦作りが
いつまでも続くことを祈って取材を終えた。