山里の記憶214


三峰山ロープウェイ:矢須唯雄さん



2018. 03. 12


絵をクリックすると大きく表示されます。ブラウザの【戻る】で戻ってください。

 三月十二日、大滝の大輪に三峰山ロープウェイの取材に行った。取材したのは矢須唯雄
さん(七十八歳)で、廃止された三峰山ロープウェイの話をいろいろ聞かせてもらった。
 唯雄さんは昭和三十三年、十八歳で秩父電鉄に入社した。以来四十年間、三峰山ロープ
ウェイの駅で勤務し、最後は駅長を務めて退職した人だった。            
 唯雄さんが入社した時はすでにロープウェイが開業して六年経っていた。運行していた
客車は二十一人乗りの「わかば」と「にしき」。路線距離一、七キロ、標高差六百メート
ル余を八分で上下していた。ドイツ製のロープウェイで、戦前は東洋一の規模とも言われ
ていた。自宅から歩いて五分の職場で長い鉄道員人生の始まりだった。        

炬燵で昔の写真を見ながらいろいろ話を聞かせてくれた唯雄さん。 入社当時の写真。山頂駅にて駅長を囲んで。

 入社してから六年間は異常な忙しさだった。客車が二十一人乗りだったこもあり、三月
から十月まで三峯講の講中が集中する時期は大変だった。人数の多い講中は二百人以上も
いて、二時間以上待つことも多かった。講中は少ない所で七十人、多い所で二百五十人く
らいだった。普通は午後三時までには登り切るものだったが、午前十時から四時間待ちの
時もあった。講中の人数確認も神経を使った。                   
 神社の宿坊に泊まった講中は、翌朝早くから我先にと山頂駅前に並んで始発を待ってい
た。俺らの方が早いとか喧嘩になることもあった。割り込みも喧嘩の元だったし、酒を飲
んで待っている人も多かったのでトラブルが多かった。あくまで講中毎の先着順だったの
で、二百五十人が先に入ると、必然的に後の講中は二時間半待ちになった。      

 こうした混乱は昭和三十九年に大型客車のロープウェイ新設で多少緩和された。新型客
車は七十一人乗りの「くもとり」「きりも」が就航した。切替時は一年間新旧両方を同時
に保守した。ホームが二つあって、何かあればすぐに切り替えられるようにしていた。 
 それでも四月から十月のハイシーズンは夜遅く六時半まで運行した。また、週末には登
山客を乗せた上野駅から三峰口駅まで「みつみね号」「秩父くもとり号」「急行ぶこう号
」などの直通電車が運行され、それに合わせてバスとロープウェイも運行した。ロープウ
ェイは夜十一時から明け方五時過ぎまで運行しなければならなかった。        

 仕事は雑用から駅務、さらに客車の点検・保守、客車の修理、ワイヤーの切り詰め・接
合、鉄塔の保守・管理、急斜面の木々伐採、高圧線鉄塔の保守・管理などなど、およそ駅
で必要なことは全て駅員だけで行った。「何もかも駅員がやっていたのは全国でも珍しい
と思うよ…」と唯雄さん。様々な職業を渡り歩いたくらいの知識と技術を得たと笑う。 
 秩父電鉄内でも特殊な駅であり、外部の応援は期待できず、全て内部でやらなければな
らない独立した職場だった。多い時は十八人の駅員がいた。電気保守の免許を取って、電
気関係の修理も自分達でやった。                         

 高圧線の鉄塔巡回は休日に勤務以外でやっていた。当然、手当が出たが、確実に休みは
一日つぶれた。持ち回りでやったので文句を言う人はいなかった。高圧線の鉄塔は全部で
十三基あった。山の中の鉄塔まで歩き、碍子(がいし)やリベットを目視確認した。  
 ロープウェイ支柱の点検は年に一度総合点検で一週間営業を休む時にやった。支柱は古
いロープウェイで二基、新しいロープウェイで六基あった。急斜面を歩いて草刈りなども
やった。草刈り鎌を研ぐのも立派な仕事だった。                  

 特に大変な仕事は曳索(えいさく)・平行索と呼ばれるワイヤーロープが毎年夏に伸び
るのを切り詰める仕事だった。客車がホームに届かなくなる恐れがあるので、約一メート
ルくらい切り詰めるのだが、その作業が大変だった。切断の為に手巻きのウインチを使い
、何重にも滑車を使って六分の一くらいにして引っ張った。ワイヤーを切断して箒のよう
に広げ、ワビットというハンダ状の液体に浸して接合する。運行の終わった時間から翌朝
まで徹夜で作業した。曳索・平行索は毎年切り詰めたが、五年に一回、または五万回の運
転でメーカー(東京製鋼)が交換した。                      

曳索(えいさく)・平行索のワイヤーロープを切断する前。 切断したワイヤーにワビットをかけてこれから接合するところ。

 三峯神社への物資搬入も大きな仕事だった。酒や木箱のビール(三十五キロ)、各種の
食品や道具類をロープウェイで運んだので、積み下ろし作業も駅員の仕事だった。空き樽
や空き瓶も運ぶというなんとも忙しい職場だった。全部駅員がやった。三峯神社とは直通
電話があり、常に連絡を取り合って運行に支障が出ないようにしていた。       
 朝は山頂から客が多く乗るので、登りの搬器で荷物を運ぶことが多かった。空き瓶など
の荷物は逆に山頂からの客が少ない時間に運んだ。客の乗降の合間に荷物の積み下ろしを
するので忙しく、服を着換える時間もなく、作業服で客対応をするような事もあった。 
 神社で使うセメント(五十キロ)や鉄骨などの建築資材なども運んだが、こちらは建設
会社の社員が積み下ろしを手伝ってくれたので楽だった。              

 当時の表参道は三、七キロの急坂で、若い人でも登るのに約二時間半かかった。昔、そ
んな表参道を女衆(おんなし)が大きな酒樽や水樽を背負って登る仕事をしていた。  
「あれは大したもんだったぃなあ…」と唯雄さんもふり返る。            
 まだ山駕籠もあり、三組六人の駕籠かきがいた。背の大小でコンビを組むのが良かった
そうだ。唯雄さんも何度か休みの日に山駕籠を担いだことがある。東京から参拝に来た客
だったが、神社まで駕籠で運んで三千円ずつもらったという。初任給が八千円の時代だっ
たから良い収入になった、というか良い客だった。同じ客に何度か指名されたというから
よほど気に入られたようだ。山駕籠は大島屋さんが十何年前まで持っていたが今はない。
 表参道を背負子で荷物を運ぶ人もいた。客が麓の茶屋で休んでいる間に荷物を運び上げ
るもので、荷物一つ三百円くらいだったように記憶している。            

 家が近かったが、昼は弁当を持っていった。山頂駅と下の駅で共に宿直があり、二人ず
つ泊まって勤務した。宿直時には簡単な自炊をして食べた。若い人が作る事が多かったよ
うだ。下の駅で宿直していた時の事だった。時間があったので駅下の蛇滝で釣りをしたら
大岩魚が釣れた。バケツに入りきらない大物で、計ったら三十七センチあったそうだ。 
「あれはでかかった、マスだか岩魚だか模様がはっきり見えなかったぃね、たぶん岩魚だ
と思うけどねぇ…」今は蛇滝までの遊歩道が整備されている。            

 長いロープウェイ勤務で印象に残っている事を聞いた。「土屋知事が来た時も緊張した
けど、一番緊張したのは秩父宮妃殿下が来られた時だねぇ…」            
 霧藻ヶ峰には秩父宮のレリーフがあり、妃殿下は何度かそこを訪れている。その際にロ
ープウェイを使った。妃殿下がお越しになる日は手すりも取っ手も全て白いガーゼで包み
、誰も触らなかった。駅員全員が白い手袋をして勤務した。制服と私服の警備が大勢で大
変だった。妃殿下はロープウェイの山頂駅から山駕籠で霧藻ヶ峰に行った事もあった。 

 埼玉国体の開催を機に二瀬ダムの堤上を通って三峰観光道路の建設が進んだ。三峰山ロ
ープウェイの親会社、秩父鉄道も六億円も出資した大事業だった。昭和四十二年三峰有料
観光道路完成で一気にロープウェイ利用者が激減した。               
 ピークの昭和四十一年には年間三十四万八千人運んだのが、平成十七年には七万八千人
と五分の一に減ってしまった。親会社として両者反映の構想を持っていた秩父鉄道の思惑
は大誤算だった。その後も利用者は減る一方となり、懸命の宣伝活動も効果なく、また翌
年施設検査で改修の必要がわかり運休。平成十九年十二月一日に廃止となった。惜しまれ
つつ廃止に至った三峰山ロープウェイ、最終的に千百九十一万八千人もの人を運んだ。 

大滝の大輪。三峯神社表参道の入り口、鳥居前にて。 ロープウェイ駅のあった場所で当時のことをいろいろ聞いた。

 昭和三十三年、十八歳で入社した唯雄さん。四十七歳で助役を拝命した。五十三歳から
五十七歳までの四年間は駅長を拝命した。会社の募集に応じ五十七歳で早期退職した。三
峰山ロープウェイが廃止になる七年前のことだった。「辞めてから七年経って急に廃止に
なったんだぃね…、突然だったよね…」廃止について唯雄さんは何も聞いていなかったと
いう。「でも、最後の姿を見なくて良かったのかもしんないね…」          
 大輪から表参道を少し登ったところにロープウェイ駅の残滓がある。基礎のコンクリー
トの上からはるか上空の三峰山方向を見やると一筋の線が見える。そこだけ杉林が途切れ
てまっすぐの道になっている。ロープウェイの線路跡だ。唯雄さんとその急斜面を見上げ
ながらいろいろな話をした。唯雄さんが最後にぽつりと言った「ロープウェイは残してお
いて欲しかったなあ…」という言葉が耳に残った。