山里の記憶22


炭焼きの話:小河友義さん



2008. 3. 16



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 3月16日の日曜日、炭焼きの話を聞きに栃本の小河友義さん(84歳)の家を訪ねた
。暖かかったが、黄砂と花粉で山が霞むような天気だった。友義さんの家は民宿「ふるさ
と」をやっていて、旧道の急斜面にそびえるように立っていた。栃本は平地が少ない場所
なので、こういう家の建て方がどうしても多くなる。挨拶をしてストーブの部屋に上がら
せてもらう。奥さんのつねさん(82歳)も一緒だった。お茶を飲みながら四方山話をし
ているうちに炭焼きの話になった。                        

伺った日は黄砂と花粉の舞う霞んだような空模様だった。 自宅から1キロほど離れた場所にある友義さんの炭焼き小屋。

 大滝村の炭焼きは江戸時代の享保年間から始まったと言われている。文政年間には年五
万俵を生産した。明治時代から大正時代に隆盛を極め、昭和になってからも年10万俵を
焼き出した。しかし、燃料革命で炭の役割が石油に取って代わられると、瞬く間に生産は
減少し、産業としても消滅していった。栃本で今炭焼きをしているのは友義さんだけだ。
 お父さんが炭焼きで、友義さんは子どもの頃から炭焼きの手伝いをしていた。山を転々
とするのを追いかけて手伝っていた。                       
「炭焼きは小屋をしょって動き回るんで、でんでん虫って言われてたんさあ」と笑う。 

 二十歳になった四月に同じ村のつねさんと一緒になった。しかし、そのわずか八ヶ月後
の12月、徴兵の通知が来て中国に出征することになってしまった。帰られるかどうか分
からない出征。友義さんは不思議と死ぬような心配はしていなかったと言う。そして3年
後、無事に帰ってきて再び炭焼きを始めた。帰ってきたその時、友義さんの目に故郷の山
々はどう映っていたのだろうか。                         

 友義さんは演習林を元締めで払い下げてもらって炭を焼いた。主にワサビ沢周辺で焼い
ていた。ゴゼの滝奥に5〜6人の焼き子がいた。演習林全体では50人くらいいた。炭焼
き小屋は山全体を見て、木を運ぶ位置なども考えて作った。沢の周辺に粘土が多いので、
特に粘土に困ることは無かった。豆焼沢に作った窯は四十俵も焼ける大きな物だった。小
屋の屋根はシオジの皮を干したものを使って葺いた。周辺を切り尽くすと窯はそのまま放
置し、次の場所に移動して新しく窯を打った。窯作りは2〜3人で1週間から10日かか
った。窯の天井上げが大勢の人が助けにやってきて、作業が終わると酒が出て宴会になる
のが常だった。時には天井上げが終わらないうちに酒が回ってしまい、天井が上がらない
事もあった。酒が入るとそんなもんだった。山の中の生活が続いた。生活物資は炭を運ぶ
持ち子が担ぎ上げてくれた。                           

 焼くのはほとんどシロケシだった。シロケシとは、堅く、火持ちが良く、早く焼ける炭
で値段も高かった。当時、奥山で焼くのはほとんどがシロケシだった。少しでも割の良い
炭を焼くのが仕事だった。四日から五日で炭を焼き出した。木を伐って運び、割り、窯に
立て込み、焼き、掃き出し、俵詰めと休む暇などなかった。忙しくても現金収入になる仕
事だったし、毎日米の飯を食べられたし、何の不満も無く充実していた。       

 木を伐るのは伐り子を雇った。自分で伐るよりも効率が良く、鋸の目立てなども含めて
専門家にまかせた方が効率が良かった。普通の木は4尺から5尺で、太い木は6尺から7
尺に玉切りした。中にはシオジの大木で直径4尺くらいの木もあった。こういう太い木を
割るのは大変だった。一寸ボウトという手回しドリルで40センチくらいの穴を開け、中
に火薬を詰めて、導火線を使って火をつけ、爆破した。火薬は買ってくるだけでは足りず
、自分でもよく作った。オッカドの炭を細かくしたものと硝石、硫黄を調合して作った自
作の火薬は、売っているものより強力だった。                   

一寸ボウト(手回しドリル)これで大木に穴を空ける。 金網しょうぎ。炭の灰をこれで落として製品にする。

 当時、火薬を買うには免許が必要だった。免許を取っても一人4キロまでしか買えず、
導火線もそれに見合う分しか買えなかった。鉱山用の導火線は質が良かったのでみんなが
欲しがったが、なかなか手に入らなかった。買った火薬や導火線はバスなどで持ち運びは
禁止されていた。導火線を買うにも「足場が険しいので長い導火線が必要だ」とか、火薬
を運ぶにも「トラックを手配してる」とか警察に言って許可してもらった。もちろんウソ
だった。「しょうがねえやねえ、こっちも生活かかってたかんねえ」と友義さんは笑う。

 導火線も自分で作った。和紙をコヨリ状にして火薬を擦り込んで、細く、固く、切れな
いように作らなければならなかった。導火線が途中で切れると本当に危険だった。当然事
故も起こる。つねさんのおじいさんがその事故に遭った。導火線に火を付けても爆発しな
かったので穴を覗いて「消えたのか?」と吹いてみたら、次の瞬間火薬が爆発して木の破
片が右足を直撃し、大腿骨を砕いてしまった。おじいさんは鴻巣の病院に百日も入院した
が、一生足が不自由になってしまった。仕事とはいえ、火薬を使うのは命がけだった。 

 割った木は窯に入るものは何でも焼いた。コナラやブナの枝、ミズナラの枝は良い炭が
焼けた。メグスリノキやアワブキも良い炭が焼けた。ブナもミズナラも太い木は柔らかい
炭になってしまった。サワグルミやオニグルミはフカフカの駄目な炭しか出来なかった。
疲れてつい窯の口を空けてしまうと「窯の口空け」と言ってバカにされた。とにかく窯を
空けないように、木を伐って、割って、運んだ。思えば充実した日々だった。     

 大きな窯は4日か5日毎に炭出しをした。真っ赤に焼けた炭をエブリという長い鉄の棒
で掻き出し、ゴバイという灰をかけて消火する。ゴバイは細かい土をフルイで振ったもの
に灰を混ぜたもの。こうして一晩で消火した炭は丸い炭俵に詰められ、持ち子によって山
から運ばれた。炭俵は専門に大滝で作っている人もいた。大滝の炭俵は持ちが良く、炭崩
れが起きにくかった。茅の質が良かったことと「物を作る時は使う人の身になって作れ」
という伝統的な気質によるものだった。友義さんは元締めということもあり、奥州俵を問
屋から仕入れて使っていた。炭俵は持ち子が下から背負い上げた。元締めの持ち子は上げ
荷が多いので、他の持ち子よりも実入りが良かった。                

炭俵を編む「編み台」。これで炭俵を作っていた。材料はカヤや笹。 納屋で様々な道具の説明をしてくれた友義さん。

 持ち子は朝早くからカンテラを掲げて山を登り、明るくなる頃には炭俵を背負って下っ
てきた。友義さんは10人くらいの持ち子を使っていた。普通、男衆(おとこし)で18
キロの炭俵を5俵から6俵背板で運んだ。中には6俵を背負って、義太夫をうなりながら
歩く強者もいた。女衆(おんなし)でも4俵は運んだ。妊娠した時でも大きなお腹で担い
だし、小さい子どもを炭俵と一緒に担いであやしながら運んだりもした。問屋があったの
で季節に関係なく、一年中炭を焼き出していた。                  

 持ち子達はトロッコ道の終点当たりに小屋を作って住んでいた。同じ場所に大きな倉庫
があって時には芝居が上演されたりした。お酒を売る店もあった。給料は月払い。普通の
人で一日(今のお金で)5000円くらいの稼ぎになっていた。大勢の人が集まっていた
のでばくち場も立ったし、ロマンスもあったし、修羅場もあった。中には他人の奥さんと
出来ちゃって、そのまま消えていった人とかもいた。                

 山での食事は豪華とは言えないまでも充実したものだった。必要なものは問屋に言えば
山に届けてくれた。野菜などは木を伐った場所に種を蒔いておけば何でも採れた。ジャガ
イモ、サツマイモ、白菜、カボチャが良かった。インゲンや小豆も作った。原生林の土は
最高で、どの野菜も成りが良かったし、味も良かった。小屋ではニワトリも飼っていて、
産みたての卵を食べられるのが嬉しかった。その頃は鉄砲打ちが多かったので、小屋のニ
ワトリを狙う動物もいなかった。山での生活は快適だった。釣りはしなかったのか?と聞
いたところ、そんな悠長な事はしなかったと笑われた。               

 年に一度、山の神祭りが1月17日に行われるのが楽しみだった。山の小屋でやるのだ
が、人望のある人のところに大勢の人が集まった。つねさんは「おじいさんのところには
ずいぶん人が来たったいねえ・・・」と懐かしそうに話してくれた。山の神祭りにはお酒
が出され、ご馳走が振る舞われた。ご馳走といっても、鹿の肉、芋の煮付け、けんちん汁
、キンピラなどだった。それでも山の宴会はじつに楽しいものだった。        
 楽しい想い出ばかりだが、友義さんの山での炭焼きは25歳くらいまでで終わった。燃
料革命が炭焼きの仕事を山から消した。そして、二人は栃本で民宿を始めた。