山里の記憶
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豆乳:新井玉枝さん
2018. 08. 01
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八月一日、秩父市下吉田・赤芝耕地に豆乳の取材に行った。取材したのは新井玉枝さん
(八十一歳)で、十数年前から健康のために毎日飲んでいるという豆乳を作って頂いた。
コップ一杯の大豆を水に六時間浸してふやかす。大きく膨らんだ大豆と水一、五リット
ルを「豆乳メーカー」という機械に入れて豆乳を作る。この機械は十数年前に農協で買っ
たもので、故障がちだがまだ現役で活躍している。この機械を購入してからずっと豆乳を
作って飲んでいる。毎日豆乳を飲んでいるからか体の調子がいい。
「豆乳を飲んでるから太らないんだよ」と笑いながらその効用を話してくれた。
材料の大豆は新しいものがいい。ひね大豆を使うと味が出ない。機械で作るから材料に
合わせた調整が出来ず、同じ手順で作る関係から材料の違いはそのまま味の違いになる。
今日はこの機械の調子が悪く途中で止まってしまった。本来なら水温が上がって、ピッ
ピッという音がして大豆の粉砕と攪拌を行い、それを五・六回繰り返すことで大豆を煮る
機械なのだが、二回で止まってしまった。仕方ないので機械から出して最後は鍋で煮立て
て豆乳を作った。どんな方法でも出来上がる豆乳の味は同じだからと玉枝さんも笑う。
煮立って鍋に出来た大量の泡をしゃもじですくって捨て、細かい目のザルで漉す。この
時に絶対に絞ってはいけない。自然に豆乳が落ちるのを静かに待つ。栄養豊富な豆乳が自
然に出来上がる。ザルに残ったおからは料理で使う。炒め物や卯の花を作って食べる。
十数年前に農協で買った豆乳メーカー。これで毎日豆乳を作る。
作りたての豆乳を飲む玉枝さん。豆乳は体にいいからと勧める。
出来上がった豆乳は容器のまま冷蔵庫に入れて置けばいつでも飲めるので重宝している
という。出来上がった豆乳に塩をひとつまみ入れるのが玉枝さん流。昔、近所の人に言わ
れてやったのが始まりだったそう。勧められて温かいうちに飲んでみた。味はすっきりし
て美味しかった。大豆の香りが強く、いかにも体に良さそうだ。「豆乳は何杯飲んでも飲
み過ぎってことはないから…」と何度も勧められておかわりしてしまった。
豆乳を飲みながら玉枝さんに昔の話を聞く。玉枝さんは苦労の連続だった人生を淡々と
語ってくれた。玉枝さんは石間の最奥の半納(はんのう)という耕地の農家に昭和十二年
七月に生まれた。当時はどこの家も貧しかった。子供時代から家の仕事を手伝う日々だっ
た。学校は石間小学校で、クラスは二十八人の児童がいた。
学校を出た玉枝さんは昭和二十八年大宮の編み物女学院に住み込みで働く事になった。
初めての都会での生活は華やかで、眩かった。住み込みの仕事は大変だったけど楽しい毎
日だった。しかし、折悪く父親が手を骨折するという怪我をしてしまい、玉枝さんは家に
呼び戻されてしまった。家の働き手として汗を流す日々に戻ってしまった。
十九歳になった玉枝さん、石間の漆木(うるしぎ)耕地の知人から紹介されて熊谷の片
倉製糸で働いた。当時は養蚕が盛んでどこの家でも養蚕をやっていた。春蚕・夏蚕・秋蚕
・晩秋蚕・晩々秋蚕など普通にどこの家でもやっていた。片倉製糸はその出来上がった繭
を集めて加工する工場だった。玉枝さんの仕事は繭の選別や乾燥倉への運搬だった。大き
な油単に繭を入れて倉庫に運ぶ重労働だったが、給金が良かった。一日で二百五十円もら
えた。季節労働なので繭の時期十日間働くだけだったが、二千五百円と往復の汽車賃がも
らえた。当時としてとても高給の仕事だった。この仕事をやった二・三年は本当に楽しか
ったと玉枝さんは懐かしそうにふり返る。
二十四歳になった玉枝さんに縁談が持ち上がった。「いい人がいるから…」と紹介され
たのが二十八歳の新井昭八さんだった。昭和三十六年四月、玉枝さんは昭八さんに嫁入り
した。嫁いだ家は舅・姑・小姑が二人という一般的な構成で、六人での生活が始まった。
六頭の牛を飼っている家だった。家に入ってわかった事は、借金の多さだった。牛を飼
うということは借金がかさむことであり、牛を増やして借金を返さなければ更に借金が増
える構造になっていたので仕方の無いことでもあった。主に酪農組合からの借金だった。
昭八さんはいい人だった。成績は優秀で通信簿はオール「優」だった。玉枝さんはその
通信簿を大切に保管しており、見せてくれた。赤い「優」の判子だけの通信簿だった。
二人は協力して畑仕事も牛飼いもやった。玉枝さんは嫁に来て初めて牛の世話をした。
乳しぼりは牛の乳首を持ち上げないように言われた。下に絞ると牛は暴れない。昭八さん
に教えてもらいすぐに慣れたが、中には意地の悪い牛がいて蹴られたこともある。
北海道から八十万円ではらみ牛を買ったが、目を離したすきに外で子を生んでしまい、
そのまま子牛が死んでしまった事があった。雌の子だったので悔しかった。生き物を飼う
のは本当に大変だった。お産は特に大変だった。獣医さんも急には来てくれないので、近
所で牛を飼っていて経験のある人に手伝ってもらったりした。どこも同じ様な規模だった
ので、助け合いながら酪農をやっていた。
昔使っていたサイロを見ながら牛飼いの苦労を話してくれた。
今は使っていない牛舎を案内してくれた。懐かしい思い出だという。
百万円もかけて導入したバンクリーナー(自動糞掃除機)は使うことが出来なかった。
糞の掃除は手作業でやるしかなかった。畑に全部運んで埋めたものだった。糞は畑に埋め
られるが、尿は流れてしまうので扱いが困った。近所の目も気になった。
搾乳のパイプラインを導入したのは助かった。多い時で三十二頭の牛がいた。牛乳を一
日で一万キロ出荷したこともあった。集乳車が牛舎の横まで入って集乳して行った。
そのパイプラインが冬に凍る事があった。パイプラインが凍ると機械は使えなくなるの
で、凍らないようにどうこ缶(一斗缶)で火を焚きながら機械やラインを暖めたものだっ
た。また、冬の寒い朝、毎日濡れタオルで牛の乳をきれいに拭かなければならなかった。
タオルできれいに乳頭を拭かないとライナー(乳しぼりの受け口)が着けられなかった。
牛を飼うことは機械や母牛に金が掛かり、借金に借金が重なることだった。昭八さんは
畑仕事できゅうりの出荷をしたり、大いに働いたが、それでも間に合わず出稼ぎするよう
になった。コンクリ打ちやブロック積みなどの土方仕事もした。朝三時起きで、熊谷の佐
藤水産まで通って働いた。魚屋の仕事だった。
玉枝さんは一人で牛の世話をした。体への負担がひどかった。腰が曲がってきて、体力
の限界を感じるようになってきた。昭八さんとも相談し、昭和五十九年の一月に牛飼いを
止めた。少しずつ牛を減らし、縮小して、三年かけて全部止めた。玉枝さんが四十七歳の
時の事だった。玉枝さんはその二月から皆野の豊電機に勤め始めた。
昭八さんは親戚の土木会社で働くようになった。しかし六年目、その工事現場で事故に
遭い亡くなってしまった。土砂をならしている重機から落ちて下敷きになってしまい、即
死だった。玉枝さんは知らせが信じられなかった。
成績優秀で美男子だった昭八さんは玉枝さん自慢のご主人だった。どんなにいい男だっ
たか、どんなにやさしい男だったかを何度も何度も訴える玉枝さん。五十九歳という若さ
で、事故で亡くなったご主人の話が次から次へと続いた。
嫁に来て山の畑に行く時一輪車で運んでくれたこと。恥ずかしかったけれど嬉しかった
話。舅と玉枝さんの間に入って家をまとめてくれたこと。台風で川に流された女の子を救
助した話。井戸に落ちた近所の奥さんを助けた話。文句のない人だったこと。やさしく強
い人だったこと。などなど、時間がいくらあっても足りないほどだった。
「いい男すぎて早く死んじゃったんだぃ…」「あたしにはもったいない人だった…」
子煩悩な昭八さんだった。子供と三人で写った写真が残っていた。
牧草地で草刈り鎌を手にした昭八さんと玉枝さん。楽しかった頃。
特に、いさかいの耐えなかった舅とのあつれきで、間に入ってとりなしてくれたのが有
難かった。「俺は親代わりになってこの家をやってきた…」「人には悪い事をするんじゃ
ねえよ…」「俺に気に入らねえ事があれば直すから言ってくれ…」文句のない人だった。
一度決めた事は通す人だった。
「昭八さんが亡くなったことで、今度はあたしが男になったり女になったりしなけりゃい
けないって思ったんだぃね…」葬儀の後で昭八さんが乗り移って色々話してくれたという
話には驚かされたが、それだけ事故で突然の別れを悔やんだのだと思う。
玉枝さんは今、カーブスというストレッチと体力作りの講座に通っている。黒谷でやっ
ているのだが、八十代の参加者は玉枝さんだけだ。まだまだ若い人には負けられない。
畑仕事も忙しい。自分の家で食べるだけの野菜を作っている。この暑さで大変だが、豆
乳を飲みながらがんばっている。苦労が多かった玉枝さんだが、今は幸せだと笑う。