山里の記憶
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鉱山バス:神辺竹次さん
2018. 09. 07
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九月七日、秩父の横瀬に鉱山バスの取材に行った。取材したのは神辺竹次さん(八十八
歳)で、六十歳の定年まで西武バスの運転手をしていた頃の話を中心に聞かせて頂いた。
竹次さんは終戦直後から丸通でトラックの運転手をしており、その後西武バスの運転手に
なった。トラック運転手だった頃に秩父鉱山の鉱石運搬をしており、その経験を買われて
鉱山と三峰口駅を往復する路線バスの運転手を長くやってきた。当時の苦労話や様々な昔
話を聞かせて頂いた。
鉱山と秩父を結ぶ路線バスは最初一日一本だった。バスは秩父駅を朝九時に出て十二時
に鉱山(大黒坑前)に着いて秩父へ折り返した。竹次さんが入社した当時の路線バスダイ
ヤは午前九時秩父駅発日窒鉱山行き(途中、荒川の猪鼻郵便局から鉱山までの逓送運搬の
仕事があった)で、鉱山から三峰口駅まで折り返した。お昼を食べて十四時発中津川行き
。中津川で折り返して秩父駅行きというダイヤだった。
その後昭和三十五年頃に一日二本になった。朝八時に鉱山を出て三峰口駅で折り返し十
二時に鉱山に着いた。すぐ折り返して三峰口駅に向かい、夕方四時に鉱山に着くという便
だった。運転手と車掌は鉱山の第一合宿に宿泊して朝の始発に備えた。
最初のバスは二十人乗りボンネットバスで、武電バスという名前で運行していた。バス
の形が変わっていた。中津峡の岩盤を削った道路は悪路でとても狭かった。削った道はあ
ちこちに岩が突き出ていた。それにぶつからないようにとバスの両肩が三角に削られたよ
うな形だった。住民は三角バスと呼んで親しんだ。バスはその後キャブオーバーバスへと
変わり、リアエンジンバスへと変わった。竹次さんはそれらのバスをここで運転した。
部屋でたくさんの写真を見ながら昔の話をしてくれた竹次さん。
竹次さんが運転していたキャブオーバー型の鉱山路線バス。
竹次さんが鉱山の路線バスを運転するようになったのは昭和三十三年のことだった。当
時の中津川林道は荒れていて狭かった。車一台がやっと通れる道幅で、鉱石を運ぶ大型ト
ラックや中津川にあった材木を運搬する四トン車や六トン車がひっきりなしに走ってくる
道路で、すれ違うのが大変だった。慣れた人でないと危険な道で、すれ違う為にバックし
て運転を誤り、谷底に転落する車が多かった。大雨が降ると崩れる箇所が多く、崩れた道
に丸太を渡し、その上を走るような事もあった。そんな道だったので一般車はほとんど走
っていなかった。
道路はバス一台がやっと通れる幅しかなく、通学で歩いている子供たちはバスが来たと
わかると少しでも安全な場所を見つけて、まるでトカゲかヤモリのように岩肌に貼りつい
たものだった。中津の子供たちはすばしっこかった。
当時は郵便運搬も路線バスの仕事だった。〒の旗を立て、逓送と呼んでいた。この旗を
立てた時は少し誇らしかったのを記憶している。
鉱山だけでなく両神の出原、三田川の坂本、倉尾の路線バスも運転した。これらは山岳
路線と呼ばれ、道に慣れた運転手でないと運転が難しかった。また、これらの路線は始発
が現地なので、自分の車で弁当持参して朝早く現地に行くのが大変だった。
登山シーズンには三峰口から中津川まで両神登山の臨時バスを出した。多い時は一日に
四・五回も往復したものだった。
毎週土曜日に雲取夜行バスを運行したのも良い思い出だ。夏の週末、上野駅から登山客
用六輌編成の特急が運行していた。三峰口から大輪のロープウェイ乗り場まで六台のバス
で二・三往復して登山客を運んだ。客がいっぱいでリュックサックが大きく定員まで乗り
切れない状態だったので何往復しても仕方なかった。ロープウェイも夜通し運行していた
。最後の客を送り、秩父に帰る頃にはすっかり夜が明ける時間になっていた。
竹次さんの鉱山バスに至る職歴を聞いた。職歴の最初は昭和電工、昭和二十年に入社し
た。当時、尋常高等小学校在学中から選抜されて少年戦車兵や水兵になる子供がいた。一
年生の終わり頃から選抜されて少年兵として訓練された時代だった。
竹次さんが就職した昭和電工も軍需工場だった。旧制中学の生徒たちもほとんどが軍需
工場へ就職した。昭和電工は大滝の強石(こわいし)から水力発電の隧道を久那(くな)
まで掘っていた。この中をガス灯を点しながら歩いたことがある。戦時中に作られたもの
で、中を歩いた人はあまりいない。
昭和二十二年、終戦後の混乱が残っている時期に秩父の材木屋で働いたことがある。戦
地から帰ってくる人が山に働き場所を求め、山は活気にあふれていた。焼け野原となった
東京の復興に材木や炭は欠かせなかった。竹次さんはトラックの運転手で大いに働いた。
燃料統制で炭の運搬はトラック一台五十俵しか運べなかったのだが、百俵くらい積んで行
き横流しした。違反だったけれど闇のブローカーが儲けた。当時は給料よりもチップの方
が多かった。横流しが日常化していて誰も犯罪とも思わなかった。
大正時代の古い写真。秩父自動車(株)のバスと運転手たち。
フォードで四万温泉に社員旅行したときの写真。
同じ年、竹次さんは秩父通運(通称:丸通)に入社した。そして、一年後に運転免許を
取った。当時は運転免許がなくても車やトラックを運転していた人が多かった。木炭車や
薪自動車が中心で、アセチレンガスを使ったガス自動車もあった。
丸通に入ってトラックの運転手として鉱山に行くようになった。日窒鉱山は戦時中は軍
の管轄で、鉄鉱石を産出する貴重な鉱山だった。そのため多くの人や物資が投入され、多
くの人が働いていた。戦後も鉄鉱石を産出したので運搬するトラックが多く出入りしてい
た。この時の経験が後に路線バス運転手として生かされることになる。
竹次さんは主に中津川から鉄鉱石を武州中川駅まで運んだ。鉄鉱石は主に索道で運ばれ
たのだが、納宮から秩父駅に運ぶトラック便もあった。秩父駅のホーム端に一段高いホッ
パー状の施設があり、そこに運んで貨車に積んでいた。この施設はその後、石灰を運ぶの
にも使われたという。
丸通では三峰口でタクシー営業をしていた。フォードのタクシー五台で免許を取り、駅
前タクシーとして営業した。このフォードで社員旅行なども行ったので、どこでも注目の
的だった。竹次さんのアルバムにはフォードで四万温泉に行ったときの写真がある。車の
横に立ちポーズを取る竹次さんが若い。様々な場所にフォードで出かけ写真を撮る。ラビ
ットスクーターで遊ぶ様子を写真に撮る。若く楽しい時代の写真がアルバムに並んでいた。
昭和三十三年二月、十年間丸通で働いた後、西武バスに運転手として入社した。当時二
種免許を持っている人は少なかったので、就職は引く手あまただった。秩父営業所は百五
十人位の社員がいた。運転手が七十人、車掌が八十人と車掌の方が多かった。
車掌・バスガールは当時憧れの職業で多くの地方中学卒業の女性が働いていた。西武バ
スでは新所沢や秋津に女子寮があり、各地に出勤していた。竹次さんも所沢や田無に応援
に行くことがあった。時には一ヶ月くらい応援という時もあった。
昭和四十年代まで車掌は常にバスの車内にいた。主な仕事は運賃計算と集金だった。車
内精算というシステムだったので、満員の長距離バスなどは仕事も大変だった。キップが
足りなくなるようなこともあった。
西武バス三峰口営業所にて、バスの前で運転手の写真。
バスガイドは憧れの仕事だった。全てのバスに車掌が乗った。
西武バスでは路線バスだけでなく観光バスの運転手もやった。健康と技術が上の人が観
光バスの運転手に抜擢された。竹次さんは運転手として六十歳の定年まで勤め上げ、表彰
状もたくさんもらった。部屋には県知事からの表彰状が掲げられている。
定年後はドーム交通という会社に入って運転手兼運行管理の仕事に着いた。大型バス二
台、中型バス三台を駆使して各地の旅行を手配した。能登、伊勢神宮、松島などへの観光
旅行がメインで、夜行バスの運行もあり、早朝・深夜の運行もあった。七十五歳までの十
五年間をドーム交通で働いた。運転手を全うした人生に悔いはない。
昭和三十年一月、竹次さんは縁あって静江さんと結婚した。静江さんの両親は皆野町三
沢の出身で父親は小学校の先生だった。当初荒川の生家で親兄弟と一緒に住んでいたが、
通勤が大変で秩父市内のアパートへ引っ越した。当時は自動車もバイクもない時代で、歩
くか自転車で移動するしかなかった。
子供が二人出来て家も手狭になり、横瀬に家を建てたのが昭和四十年の事だった。長男
長女がまだ小学生の時だった。以来五十年、ここに住んでいる。
竹次さんはカメラが出回り始めた昭和二十二年頃からアマチュアカメラマンとして写真
を撮ってきた。マミヤシックスから始まった写真歴は長い。昔の写真をたくさん見せても
らったが、自分が撮影している為竹次さんが写っている写真が少ない。趣味の写真は今も
続いており、全日写連の秩父支部に入って活動している。年に一回発表会があり、県展な
どにも出展している。