山里の記憶
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栃本蕎麦を守る:阿左美武久さん
2018. 11. 09
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十一月九日、秩父の久那に栃本蕎麦の取材に行った。取材したのは阿左美武久さん(七
十歳)で、三十年以上栽培し続けている栃本在来種の蕎麦の話を聞かせていただいた。前
日から収穫作業に入っていて、奥さんの澄江(すみえ)さん(六十四歳)と一緒に刈り取
り作業をしているところにお邪魔して、栃本蕎麦についていろいろ話を聞いた。
在来種の栃本蕎麦は一般の蕎麦に比べると茎が細く、病気にも弱く育てにくい。今年は
大きな台風があり、倒伏してしまったため草に覆われ、刈り取りも大変そうだった。
二人で次々に蕎麦を刈り取ってまとめる。茎が赤いので刈り終わった畑には赤い茎の束
が規則正しく並んでいてきれいだ。
刈り取った蕎麦は、武久さんが補修した足踏み式脱穀機で脱穀し、一度水洗いして泥や
石を取り除き天日乾燥する。天気の良い日にブルーシートに広げ、四日ほど乾燥させれば
カラカラになり何年も保存できる。保存にはポリタンクを使っている。
武久さんは二十年前の蕎麦を粉に挽いて食べたことがあるそうだ。問題なく食べられた
ので本当に蕎麦は保存食なのだと感心したらしい。ただ、蕎麦の香りはなかったそうだ。
今育てている栃本蕎麦は、栃本から近所に越して来たおばあちゃんが武久さんの母タミ
さんに伝えてくれた蕎麦だった。おばあちゃんとタミさんはとても仲が良くて湯治なども
一緒に行く仲だった。タミさんがこの蕎麦を好きだった事で、ずっと栽培を続けてきた。
在来種の蕎麦をこうして育て続けている人は少なく、元産地の栃本でもなくなりつつあ
る品種だ。今年の出来があまり良くなかったので、来年は場所を変えて栽培する予定との
こと。連作障害の予防にもなるので、来年を楽しみにしているという。
三十年以上栽培している栃本蕎麦の収穫をする武久さんと澄江さん。
蕎麦畑での収穫の途中で二人の写真を撮る。
納屋で栃本蕎麦と一般の蕎麦を比べてみた。栃本蕎麦は粒が小さいが丸みを帯びていて
普通の蕎麦よりも製粉した時の収量が多いという。食べてみると栃本蕎麦の方が甘い。内
皮の内側がわずかに緑色で、蕎麦粉にして蕎麦を打つと緑がかった生地になるという。
自宅で奥さんがそばがきを作ってくれた。鍋に湯を沸かし、蕎麦粉を入れてかき回すと
蕎麦の香りが立ち、すぐにそばがきが出来上がった。醤油とわさびを添えて食べてみた。
ぷりぷりの食感だが、口に入れるとふわりと溶ける。久し振りに食べたそばがきはじつに
旨かった。昔はおやつがわりに自分で作って食べたものだったが、味は随分違うような気
がした。記憶の中のそばがきはもっとパサパサしたものだった。
そばがきを食べ、お茶を飲みながら蕎麦の栽培について話を聞いた。今年は八月二十日
に種を蒔いた。一回で四キロから五キロの種を蒔く。耕運機に取り付けた器具に種を入れ
て畑をうなうと自動的に種が撒かれる仕掛けになっている。斜面の畑でもこの機械を使っ
て種をまく。種まきしてすぐに夕立があると蕎麦は発芽しないので、天気予報を見ながら
種まきをする。久那では蕎麦の種蒔きは十七日と決まっている。昔は二十三日だった。こ
れを守らないと芽が出なかったり育たなかったりすると言われた。
八月二十六日に発芽した。栃本在来種の蕎麦は発芽した段階で茎が鮮やかに赤い。揃っ
た発芽でその後の成長も順調だった。発芽したら化成肥料(十四・十四・十四)をパラパ
ラと芽のところに撒く。施肥をするのはその時だけだ。
蕎麦は基本的に世話をしないでそのまま育てる。手間がかからないのが蕎麦の良いとこ
ろだ。栃本の蕎麦は昔焼畑で作られていた蕎麦だ。山作りとも言い、木や草を燃やした灰
が肥料になり、美味しい蕎麦に育った。山作りの蕎麦は手入れなどしない。
九月九日には花が咲いた。蕎麦の白い花はとても綺麗で、ミツバチもよく飛んでくる。
順調に育っていたのだが、九月の台風で倒伏してしまった。雨と風に弱く、倒伏してしま
うと立ち上がれず、草の勢いに負けてしまう。この時がそうだった。その為に今年の蕎麦
は出来があまり良くない。台風の雨や風に負けない品種もあるのだが、武久さんが育てて
いる栃本蕎麦はその点は弱い。「まあ、仕方ないことだぃねえ」と苦笑する。
十月中旬には実が黒く熟してきた。倒伏していても実は熟す。十一月になってやっと刈
り取って収穫となった。今日がその二日目になる。倒伏していたせいなのか、連作障害な
のか今年の蕎麦は実が少し小さく感じるという。例年だと十月二十日ごろには刈り取って
いたので、今年は成長も遅かったようだ。
武久さんの本業は大工で、阿左美工務店を経営している。畑仕事は本業の合間にしか出
来ない。「日曜百姓だからねぇ、手をかけられないんだぃね」と笑う。
栃本蕎麦の粉で手打ち蕎麦を作っていただいた。天ぷら付きの豪華版。
そばがきも作ってくれた澄江さん。郷土料理を勉強中とのこと。
話を聞いているうちに昼になり、栃本蕎麦を手打ち蕎麦にしていただいた。天ぷら付き
の豪華な昼食に恐縮してしまったが、栃本蕎麦は素朴な味でじつに旨かった。武久さんは
「まだまだ蕎麦打ちは修行中で…」と謙遜するが、九割蕎麦でこの喉ごしは素晴らしい。
栃本蕎麦をどうやったら美味しく食べられるかと、そば打ちの修行やつけダレ作りの情報
収集などを行なっている。今日のつけダレは荒川の師匠に教わったものだそうだ。
そば打ちはまだ修行中で、薄く伸ばして折りたたむと折ったところが切れてしまうので
包丁の幅に生地を伸ばして切る短い蕎麦にしているという。蕎麦の短さなど気にならない
旨い蕎麦だった。天ぷらも豪華で美味しかった。
蕎麦を頂いてお茶を飲みながら両親の話を聞いた。阿左美家は横瀬や日野沢の根古屋に
館を持つ武士の末裔だった。阿左美家の来歴を記した立派な本があり、一通り読ませて頂
いた。昔の事績を丹念に調べた素晴らしい本だった。
立派な家だったが日野沢のおじいちゃんの時代に東京に出て事業に失敗し、秩父に帰っ
てきた。おばあちゃんの実家、ここ久那に落ち着き、のんびり暮らしたものらしい。秩父
の岩田病院にいた兄に世話になり、慣れない牛飼いや畑仕事をしていたそうだ。種芋だと
渡されたジャガイモを食べてしまったり、牛小屋で牛の餌がなくなり、餌をもらいに岩田
病院に行ったりしたらしい。慣れない農家仕事で大変だったようだ。
母親のタミさんは背は小さかったが、明るくよく働く人だった。小池製材に勤めていて
空いた時間に畑仕事をしていた。父親は昭和工業で働いていて、畑仕事などはせず、もっ
ぱら本や新聞を読んでいる人だった。母の畑仕事も、畑があったからやっていたという感
じのものだったらしい。料理はあまり上手ではなかったと武久さんが笑いながら言う。お
っ切り込みとか野菜の煮物をよく食べたことを覚えている。
そのタミさんが蕎麦を食べたいと言うので作り始めた栃本蕎麦だった。栃本でも栽培す
る人が少なくなった原種の蕎麦だが、武久さんは「原種を守るのは大事なことだし、俺は
これをずっと作り続けるって決めてるんだぃね…」と言葉を繋ぐ。
タミさんの話が出たところで、奥さんの澄江さんも加わり昔の話になった。武久さんは
大工なので、自宅も自分で作っている。結婚の前に新築しようと夜なべで自宅を建築して
いた。昼間は工務店の仕事で忙しく、空いた時間は夜しかなかった。夜なべで家を建築す
る息子の姿をタミさんが嬉しそうに見守っていた。久那は道路事情が悪かったのだが、結
婚前に道路が舗装になった。澄江さんは笑いながら「私がお嫁に来た時は道路も家も新し
くなって、なんだか幸せだったわ」と新婚当時を思い出していた。
村社だった葛木神社へ参拝する。社殿も社務所も武久さんが造った。
札所二十五番久昌寺の弁天堂。このお堂も武久さんが造った。
子供は男の子が二人、長男は介護の仕事をしており、次男は父親と同じ大工の道を選ん
だ。秩父夜祭の本町屋台に息子共々お世話になっていて、毎年太鼓のバチを全部新しく作
り変える。息子が小学三年生の時に初めてお祭りに出た。その息子がもう三十五歳になっ
た。息子がやりたいと言うのでお祭りに毎年参加しているが、お囃子などをやるとやみつ
きになってしまう。武久さんは平成九年に襦袢着(囃子方)で屋台に乗った。本町町会は
他所の人でも快く参加させてくれるのがありがたい。
息子さんと仕事の話はするのか聞いたところ、自由にやらせているとのこと。今は昔と
違っていて大工の仕事も変わってきた。住宅はほとんどがプレカットで、工場生産になっ
てしまった。「今の大工は差し金なんか使わないからねえ…」工場で出来てしまうから大
工の仕事も少なくなっているとのこと。
武久さんは大工で神社やお寺さんを建築していた。近くの村社だった葛木神社や秩父札
所二十五番久昌寺の総門や弁天堂などを建築した人だった。案内していただき、紅葉の素
晴らしい風景の中をお参りすることができた。仁王様の指を修理した話や弁天堂が池の中
にあった話など、知らない事ばかりで楽しいお参りだった。